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2012/04/01UP

摩多羅神はどこから来たのか? ~ダビデの子孫~

 第十章 ダビデの星の正体 ○金首露(キム・スロ)の誕生譚

北から次第次第に大きな国が広がってくる一方で、朝鮮半島(韓半島)の南端には統一されない無数の部族がひしめき合っておりました。
 天地開闢以来、この地には未だ国というものがなく、ただ我刀干、汝刀干、彼刀干、五刀干、留水干、留天干、神天干、五天干、神鬼干という九人の干おさが連合し、民を治めていたのです。
 西暦四十二年三月のことでした。人里の北に亀山という、亀が寝ているのに似た形をした山があるのですが、その頭に当たる亀旨クジの峰から不思議な声が聞こえてきました。呼んでいるようなので二、三百人が集まったところ、そこには誰の姿もなく、ただ声だけが聞こえてきます。
――ココニ 人ハ イルノカ
 九干が答えて言います。
「わたくしたちが ここにおります」
――ココハ ドコカ
「亀旨です」
――天帝ガ 私ニ命ジタ。コノ地ニ留マッテ 新タニ国ヲ興シ、ソノ王ニナレト。汝ラハ 峰ノ頂ノ土ヲ堀リ、『亀よ亀よ 頭を出せ 出さないと 灼いて食べるぞ』ト 歌イ踊ルノダ。サスレバ、スグニ大王ヲ迎エ、汝ラハ 歓喜勇躍スルデアロウ
 九干たちは言われたとおりにみんなで楽しく歌い踊りました。素直すぎます。少しは疑ってください。っていうか、亀旨の頂の土の中にでも埋まっているのでしょうか、この天の子は。降臨するとき勢いあまって土に潜ったのか。
 しかし、そうではなかったようです。しばらくすると、天から紫色の紐が降りてきて、紐の先には紅い布で包んだ金の合子ごうし(蓋付きの容器)がありました。開けてみますと、中には太陽のように丸い黄金の卵が六個も入っています。他の国では一個なのに、六倍! やけに大判振る舞いです。人々はそれを見て驚き、喜んで百拝しました。……山の頂の土を掘らせたのは一体何のためだったのか……。謎が残りますが、誰も追及しません。

 人々は合子をまた大事に包みなおすと、我刀干アドゥハンの家に持っていき、床の上に安置して帰りました。
 半日が過ぎた翌日の夜明け(一説には十三日後)、人々が集まって合子の蓋を開けてみますと、六個のうちの一つが孵って綺麗な男の子になっていました。人々はこの子を床に座らせて礼拝し、敬いました。男の子は日に日に大きくなり、十日あまり経ちますと背丈は九尺にもなり、大変立派な青年になりました。

 桃太郎なみの促成成長です。つーか、背がニョキニョキ伸びすぎてませんか。(日本の一般的な尺で計算すると2m73cmほどになっちゃいますが……単位が違うのか?) おまけに瞳が一つの目に二つずつあったというのですから、殆ど宇宙人のようですが、かえっていかにも神の子めいていてグー、ってコトになったみたいです。
 彼は、六個の金の卵から最初に首を出したというので「金首露キム スロ」と名乗り、その月の十五日には もう王として即位していました。彼の国を大駕洛テカラクまたは金官伽耶と称します。残りの五つの卵からも次々男の子が孵り、それぞれ別の五つの伽耶の王になりました。
 首露王は最初は土で作った階段の長さが一メートルほどしかない質素な宮に住んでいましたが、やがてもっと大きな宮を作って移り住み、国を治めました。

○インドからお妃降臨

首露王が王位についてから六年目の七月二十七日のこと、九干たちが言いました。
「大王は未だに結婚しておりません。私たちのもとの娘の中から最も美しいものを選んで、お妃になさいますよう」
 すると王は言いました。
「私がここに降臨したのは天の意思、私の妻を選ぶのも天の意思だ。そなたたちは心配するな」
 そして、留天干に小さな船と足の速い馬を用意して望山島マンサンドに行き、立って待つようにと命じました。
 一体、何を待てと言うのでしょうか? 首をかしげながらも留天干が待っていますと、西南の海上に緋い帆をかけた船が現れ、茜色の旗をひるがえしながら北に向かって進んでいくではありませんか。飾られた宝石がキラキラと輝いています。留天干らは島で狼煙のろしを上げました。すると、緋い帆の船が気付いて島に近づき、錨いかりを下ろします。乗っていた異国風の人々が先を争うように降りて土を踏みました。
 この船には一人のお姫様が乗っていました。他の乗員は、全て彼女に仕える従者たちです。
 この報告を受けると王は歓喜して、
「天に定められた私の妃が来た。すぐに行って宮中に迎え入れよ」
 と命じます。ところが、九干たちが言われたとおりに木蓮の舵と桂の櫓の船を整えて迎えに行きますと、お姫様は
「私はあなた方をまるで知りません。なのに、どうして軽々しく付いていけるでしょうか」
と嫌がりました。まったくもってそうですね。
 留天干が戻って王にそう伝えますと、王も「その通りだ」と納得し、無理に連れてくることはやめました。ただ、宮殿の西南六十歩ほど行ったところの山のふもとに幕を張って仮宮を作り、官吏たちを引き連れてそこに入って、お姫様の方から近づいてくるのを待ちました。
 お姫様の一行は別浦の渡し場に船をつないで上陸しました。彼らが持ってきたものは、錦織や刺繍した布、綾の絹と薄い絹、沢山の服、金銀、宝石、宝飾品、おもちゃなど、数え切れないほどでした。お姫様は岡で休息したとき、着ていた綾袴を脱いで山の神への供物にしました。何故 袴を……それも着てるのを脱いで。そういうのが好きな神様だったのでしょうか。
 こうしてじわじわと王のいるところに近づいてきて、ついに仮宮に着くと、王が出迎えて寝殿に連れ込……一緒に寝殿に入りました。お姫様には夫婦二組の家臣と二十人あまりの召使が付いてきていたのですが、彼らは全員、階段の下までで引き下がりました。王は家臣の夫婦を案内するように官吏に命じ、召使たちには部屋を与えて飲み物やお酒を出し、大勢の兵を警護につけました。

 王と共に寝殿に入ったお姫様は自分のことを話し始めました。
「私は阿踰陀アユタ国(インドにあった国。今のアヨーディヤとされる)の王女で、姓は許フォ、名は黄玉ファンオクと申します。年は十六になります。
 今年の五月、父母が私に言いました。
『昨夜、私たちの夢に天帝が現れて、駕洛国王の首露は天が降して王位につかせた聖人であるが、まだ伴侶が決まっていない。だから、そなたの娘を遣わしなさい、と仰せになった。お前はすぐにその地に向かいなさい』
 雲をつかむような話でありながら その言葉に従って私は探し求める旅を続け、今、あなたに逢うことができました」
 それを聞いて王は応えました。
「そなたが来ることを、私はずっと前から知っていた。そなたを待っていた」
 二人は二晩と一昼を共に過ごし、車に乗って本宮に入りました。妃の家臣や召使たちもそれぞれ家を与えられました。彼らの乗ってきた船と船乗りたちは、米や布を与えられて本国に戻っていきました。

 後に、妃が最初に上陸した波頭村を主浦村、茜色の旗が初めて入った海岸を旗出辺、袴を脱いだ高い岡を綾見と呼ぶようになりました。また、妃は五重の石塔を船に乗せて運んできていました。国を出ようとしたとき、水神の怒りにあって進めずに戻ったところ、父王にこの石塔を載せていくようにと言われたのです。この婆娑石塔の石には ほのかに赤い斑点があり、朝鮮半島(韓半島)の石ではないと記録に書かれています。

 その後三十年の間に、妃の家臣夫婦二組はそれぞれ二人の娘を生みましたが、みんな一、二年で死んでしまいました。召使たちには一人も子供が出来ず、みんな故郷を恋しがりながら悲しんで死んでしまいました。

 しかし、妃は十人の息子を産み、百五十七歳まで生きました。王はその十年後、百五十八歳でこの世を去りました。

 ……って、ええ!? 王は王妃より九つ年下? ということは王妃が十六歳で結婚したとき、王は七歳!? ……ああ、そういえば王は卵から生まれて十日で青年に成長したのでした。
 この二人の子孫が金海金氏や金海許氏で、一族から大統領や総理を輩出し、今でも半島で繁栄しているのです。
かんたん神話学より<http://suwa3.web.fc2.com/enkan/kantan/index.html>



・加羅国の建国説話では亀から出たの6つの金の卵となっている。(AD50頃建国)
初代の王、金首露(キム・スロ)の誕生譚は亀の卵である。
ところで、日本でもニワトリを食べない地方がかつてあったという。しかし、それは鶏を忌み嫌う伝承に基づいており、ニワトリを神聖視したものではなかった。高句麗は龍蛇の卵、金氏新羅は鶏の卵、加羅国は亀の卵と異なるが、始祖はみな卵から生まれている。日本のトーテムは蛇と牛となろう。蛇は卵が好物であるので、大神神社(おおみわ)では同じ頃、神殿に卵を捧げていたので卵を神聖視していない。卵を神聖視する半島とは異なる元型があるのだろうか。およそ、王国の始祖が、なんであれ神々から受肉したことで、選別されているのであろう。加羅国は倭人と通訳がいらなかった。なんらかのピジン語があったのだろう。共通の言語はドラヴィダ語である。仇衡王は新羅に國を明け渡す前に日本に来た、大伴大連の支持を約束させると、2年後に密かに日本に入国し、やがて継体天皇として即位する。物部・蘇我など百済系の豪族の懐柔に手間取って、百済から王妃を迎えるなど政略結婚を容認してようやく倭王となる。伽耶は滅亡していたので、百済の実権掌握は明らかだった。倭王であった伽耶傍系王は本宗主家の王に譲位したので、断絶というわけではないのだろう。


王と天子とはまったく違う格式にあった。天子、天王とは、「天」という文字がつく。したがって、天命を受けたもの以外は即くことができなかった。したがって、殷の亀卜以来、卜占によってその天命を判断しなかった王はいなかった。謂わば、聖別されたものだけが天帝になれたわけである。太一生水、万物を生成する極点である。天帝は地上に垂迹した太一だった。
また、遷都などは多く、ト居によって吉凶の地を選んだと言われている。
日本でも、この卜占を行う朝廷の職(品部)があり、卜部という。卜氏(うらべし)という氏族いた。
徒然草を書いた吉田兼好は元は「卜氏兼好」だった。
神功皇后紀には、「表筒雄・中筒雄・底筒雄」の三神が后に「新羅討伐」を啓示する。この神は壱岐卜部・対馬卜部が仕えていたことを示している。 
kann


金首露王(キム・スロ)画(この絵の両肩には魚、ひじのあたりには龍が描かれている。)
○なんと首露王はインドの姫を后に迎えていた

許黄玉王妃(フォ・フォンオク)画



韓国ドラマ「鉄の王キムスロ」 フォ・フォオク役 서 지햬 ソ・ジヘ

■加羅国(任那)の伝説では、加羅国の建国説話では亀から出たの6つの金の卵が天から降ってきたという。(AD42年建国) その卵から生まれたという伝承は首露王が外来人であることを意味している。加羅族は「亀」をトーテムとしており、必ずといっていいほど亀石が発見されている。降りてきたのは亀旨峰の山上である。山上にはサークルの中央に石柱があり、さながらUFOの発着場のようである。亀はUFOで、首露王と王妃は魚型エイリアンだった。建国の王である金首露(きむすろ)王の后は、阿踰陀国(あゆだこく)の王姫・許黄玉(ふぉ・ふぁんおく)を迎えたことが記されている。(三国遺事>駕洛国記)



■亀旨峰の山上、ここに行ってみて驚いた!環状列石じゃないか!


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鷲ノ木遺跡環状列石
北海道茅部郡森町
外帯・内帯・中央帯の3重。外側の長軸約37m、短軸約34m
縄文時代後期前半(前2000~1500年)
国指定史跡


ペルー:南米の富士山と呼ばれるミスティ火山があるアレキパ地方の山上。
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同様なストーン・サークル(環状列石)がインドの南部カルタナーカ州、アーンドラ・プラデーシュ州、タイルナードゥ州に見られる。
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■金官伽耶国王系図 

首露王42-199
居登王199-259
麻品王259-291
居叱弥王291-346
伊尸品王346-407
坐知王407-421
吹希王421-451
銍知王451-492
鉗知王492-521
仇衡王521-532 

在位年数はスロ王が158年生きているのは三国遺事>駕洛国記のまま。彼だけ普通の人より3倍長生きした?
人間のDNAではなかった。


明日香村の亀石、飛鳥寺から徒歩10分


首露王陵(スロワンヌン)の亀石

 阿踰陀国(あゆだこく)を出発し、インドのベンガル湾を横切って到着したのは、望山島(マンサン島)である。マンサン島は韓国最長の川、洛東江(らくとうこう:낙동강)の河口、シベリアから飛来する渡り鳥が空を埋め尽くす有名な河口堰の西10Kmぐらいの場所である。石柱には「王山島」としかはっきりと見えないが「望山島」の望の王の上が欠けてしまったものである。


AD42年はインドではサンガム時代(BC200~AD300)であり、日本では弥生中期である。
望山島から100メートルほど山側に向かって緩やかな坂道を上ると維船閣(유주비가 현판롸 유수비)がある。

許黄玉(ふぉ・ふぁんおく)が到着した記念碑
維船閣(유주비가 현판롸 유수비)。
大駕洛國太祖王妃普州太后許氏維船之地(대가락국 태조앙비 보주태후허씨유주지지)と刻まれている。
*>上の写真は維舟碑閣であり、望山島、維舟巌、維舟碑閣の由來を調べてみると、三国遺事駕洛国記に記錄されている駕洛国の始祖金首露王の王妃となった阿踰陀国の許黄玉王女に関連がある。駕洛国記の内容を見ると、建武24年戊申年7月27日に九干などが「大王が降臨されて以來よい王妃が得られなかったので、臣下などをして娘の中で最もよい者を宮廷に呼んで王妃にしてください。」と言うので、王は「私がここに降りてきたのは天のみ心です。私の妻として王妃になるのも天のみ心だから、お前たちは心配しないでくれ。」と言い、ついに留天干に命じて軽舟と駿馬を持って望山島に行って待たせ、その一方で9つの村の長達(神鬼干)に命じて乗岾に行かせた。忽然と南西の海から赤い帆を上げ、赤い旗を翻して北に向かってくる船があった。許黄玉王女が兄の長游和尚と共に航海する際に船に石塔を載せてきたので石船とよぶという。留天などが先に望山島でたいまつを持っているので、先を争って上陸しようとした。神鬼が眺めていて、宮殿に駆けつけて王に報告すると、王はそれを聞いて喜んだ。三国遺事の記録を基に龍院の夫人堂を王女が渡來した所として、マルム島を留天干が待っている望山島へ向かって、チョクパク島から王女が乗ってきた石の船が引っくり返った所と見て、これを記念する維舟閣を立てた。維舟閣は隆煕2年に正面1間、側面1間の切妻屋根の木造瓦葺きで建築された。碑閣の中の維舟碑は、碑身が高さ1.75m、幅0.765m、厚さ0.35mの石碑であり、「大駕洛国太祖王妃普州太后許氏維舟之地」と刻まれている。(昌原市(チャンウォン)文化観光 遺跡地より)。現在の望山島は、海からかなり遠い河口にあるがAD45頃は海に面していた。伽耶も現在の鳳凰のあたりまでは海であった。西洛東江が本流であった事実、農所貝塚の位置などから金海国際空港はかつては海であった。


유주각 앞에 살치뒨의 쌍어분과 파형우늬(巴形紋) ゾロアスター教の>ブンダヒシュン創世神話のカラ魚は、加羅の名称に違いない。
双魚というシンボルはうお座において見られる。

Piscesとは【páisiːz】:英語音でパァィシィーズ主な意味は《天文》うお(魚)座(the Fishes).2 《占星術》双魚宮(the Fishes):黄道の第十二宮のこと。
驚くべきことに、なぜ金海市には魚のシンボルであふれているのだろう?

金海国立博物館周辺の歩道のタイル(巴形の双魚)
中央のシンボルはバビロンのシャマッシュのフォームに似ている。


*シャマッシュ:dud〕(ウトゥ)《太陽》【シュメル語】
dbabbar〕(バッバル)《白い》【シュメル語】
iluša2-maš〕(シャマシュ)【アッカド語】
牛の角をはやした冠をかぶった太陽神。

祭儀には巨石に太陽の象徴という車輪がつけれれる。これは維船閣の中央のシンボルと同じである。

金海市のダウンタウンから北東方向に「神魚山」がある。銀河山が古名である。伝承では西暦1世紀に創建され「西林寺」という名称だったと伝えられる。仏教が韓国に伝わる以前で1900年以上前になる韓国最古の寺である。首露王の王族である許黄玉の兄である長游和尚が創建したと伝えられている。仏教の伝来はチベットを経由した北伝と、東南アジアを経由した南伝とがあるが、韓国には372. 高句麗,仏教伝来,太学設置.漢学を教える. 百済,東晋に使節を送る. 384. 百済,仏教伝来(東晋の僧・摩羅難陀)であるので、この寺は初め<ミトラ教>であっただろう。



銀河寺(은하사 Unasa)の大雄殿の中を見上げると、神魚が彫られていた。頭は龍になっている。

「わたしはもと阿踰陀国の王姫で、許黄玉(姓は許<フォ>、名は黄玉<ファンオク>と申し、年は16でございます。今年五月、父王と母后がわたしに『夢に天帝が現れ、駕洛国(任那)王は聖なる人であるが、未だに王妃がいない。卿らの姫をつかわして后とせよ、と告げられたので、そのようにしなさい』と言われました。そこで、船に乗り、こうして参ったのでございます。」(朝鮮女人曼荼羅 成律子著より抜粋)

金首露王は「私は生れ落ちた時から神聖な王女がこのようにやって来ることを知っていました。だから臣下たちが王妃を迎えるよう薦めたが、今までこの時を待っていたのです。」と答えたと云う。
>
許王妃は2人の王女と10人王子を産み、の子供のうち2人を許氏を名乗らせた。このため、金海金氏と金海許氏の誕生は同腹の兄弟であった経緯から、この両氏の間の結婚はタブーであった。

インドから来たという神魚紋がこれ。

許王妃の神魚紋=阿踰陀国=Ayodhyaの紋章と同じであると言われる。(一般に見ることができない神秘的な画像)

この魚の名前は「カラ」=ササン朝ペルシャ語?加羅国のカラは魚の名前だ
双魚紋は駕洛(カラ)国の国章であった。金海トラベルガイドブックには古代の「バビロニア人」が、魚が人間を保護する英邁な存在として使っていた紋章であると解説している。
王女の故郷アユタ国の紋章の一つに双魚紋があり、ヒンズー寺院などにも見られるそうだが、金首露王陵の納陵正門にもこの紋章がある。一対の魚の絵。つまり「双魚(サングオ)」だった。その魚の名前がササン朝ペルシャ語(パフラヴィー語)で「カラ(Kara)」だ。この
ペルシャ語のkaraが駕洛(カラ)国の原名なのである。この魚は罪を洗い流してくれる信仰の象徴の意味があるという。Ayudha国の王女、許黄玉がインドからもたらした王家の紋章である。また、キム・ビョンモ漢陽大名誉教授はインド・ドラヴィダ語のミ=神、マナ=魚で任那(ミマナ)はやはり魚の意味であるという。この姫のバックボーンは古代のペルシャ語が祖語で、宗教はゾロアスター教であったという真相が見え隠れする。<キム・ビョンモ漢陽大名誉教授説ではドラヴィダ語の方言タミル語だとする>インド・ドラヴィダ語のミ=神、マナ=魚で任那(ミマナ)は神魚の意味があるという説は説得力があります。
このようなことから、藤井説では金官伽羅=任那(みまな)海洋民の神魚連合(ギルド)=伽耶ギルド連邦としています。

■カラ魚と白ホームの樹
白ホーム樹という、世界の建て直しの時に、不老不死の苗木を創造した。ところが、ガナーグ・メーノーグは、この苗木を破壊するために、フラークカルドの深い水の中に、一匹の蛙を作り出した。しかし、オフルマズドは、この蛙を遠ざけるためにカル魚を二尾、そこに創成した。彼らは、白ホーム樹のまわりを絶えず回っていて、この魚のどちらか一方の頭はいつも蛙に向けられている。彼らは霊食で、食を必要とせず、世界の建直しのときまで奮闘しているという。
世界創造神話「ブンダヒシュン」部分参照

ブンダヒシュン(Bundahishn)とは、「原初の創造」を意味し、中世ペルシアにおいて、ゾロアスター教の宇宙観の百科全書的な集成とパフレヴィー語で書かれた著作の名前でもある。イラン版とインド版がある。

パフレヴィー語とはどんな言語だったのか?
パフラヴィー語とは、中世ペルシア語の一種。3世紀から7世紀にかけてサーサーン朝ペルシアの公用語として、碑文、ゾロアスター教・マニ教の文献などに用いられた。インド・イラン語派イラン語西部方言に分類され、古代ペルシア語の直系である。しかし、古代ペルシア語にあった名詞や動詞の活用などは著しく簡略化され、発音・文法に関しても近世ペルシア語にはるかに近い。パフラヴィ文字はアラム文字の変形であり、解読は困難極まり、まだ十分ではない。
パフラヴィー語は古代ペルシア帝国(アケメネス朝)の公用語の一つで、楔形文字を用いた。アラム語も有力な公用語だった。紀元前1000年前後にアラビア半島から出現したアラム人は、メソポタミア、シリア全域に浸透し、話者人口とその活動範囲を一挙に拡大した。アッシリア帝国、新バビロニア、アケメネス朝ペルシア帝国などの大帝国でもアラム語が使われ、国際共通語としての地位を確立した。

*現代語からの倭語の正体はどうしたら明かせるのだろうか。秦の末裔が住み着いた加羅語の研究、およびその王族語が課題となる。慶州南道の古方言、日本の古方言(大分、岡山)が、客家語、ンド・ペルシャ系の言語が合わさった派生語として存在している既定できる。しかし、たいへん難しいことだ。インド・ペルシャ系の言語がドラヴィダ語属のタミル語だとは断定できないからだ。なにしろ、まず、はじめにフォ・フォンオクが使っていた言語を特定する方向性を失うわけにはいかないからだ。アラム語やタミル語、パーリ語などから突出して近似性の高い言語がでてくる可能性を探らなくてはならなだろう。倭人の言語はクレオールピジン語であるといっただけでは、説得性はあってもなんの証明にもなっていない。

*イエスが布教するとき庶民に語りかけた言葉はアラム語だったとされる。キリストとも関連していて興味深い言語といえるだろう。キリスト教徒のなかでは、ギリシャ語版ではイエスの真意がくみとれないのではないかと、アラム語への原点回帰を望む声がある。一方、トルコではトルコ語、クルド語、アラビア語、アッシリア語、アラム語の5言語でコーランの祈りを音読する。アラム語は死語になっていないのだが、問題のパフレヴィー語がアラム語と似ているかどうかは不明である。また、目下、この言語の派生語を特定できない。



首露王陵(スロワンヌン수로왕릉)の納陵正門にサングオ(神魚)の紋章がある。左にある、蓮の蕾の色が青、右はピンク色で、王と王妃を共に配したと思われる。
王陵の管理人の話では上方左右にある2つの目は動物の象の(코끼리コッキリ)で蓮の仏花のように見えるのは象の鼻だという。中央のストーパ上は2対の弓で、中垂直の棒は矢であるという。これが象?正直なところ高名が学者が苦しまぎれにこじつけたとしか思えない。


しかし、下の画像では鼻として描かれている。

首露王陵の門にあるサングオ(神魚)の一つ(この写真の実物はどこにあるのか不明)
ここでは、目は2つ、中央は鼻、神魚がいるあたりは口となる。目の下の三角形は目ではなく頬骨凹凸を示しているかのようである。頭が異様に扁平であり、目は爬虫類を思わせるが、鼻孔は人間のようである。蓮は耳飾りのようである。王妃の方は蕾がピンク色である。この色が違うところが、体色ではないと推定できる。怪物といえば、話は終わりだが、蛇型エイリアンでなかったかと思われる。蕾が手だとすると指は3本で、顔も体にも鱗に覆われていた。神のような存在の姿が描かれてとすれば、これは驚くべきことだ。

上の画像の中央が鼻であるというのはにわかには判別できないだろうが、下にMRIの断層画像を見てほしい。とくに、鼻柱が特徴的に一致する。画像右下の赤い線はスライスした位置である。


二番目の画像はほぼ眼球より奥である。頭部を切り落とさなければ分からない。



さて、スカートには銅鏡のような円盤が描かれている。ガウンが分かれている直下に目と鼻と口、頭とあごのラインも描かれている。目が真ん丸の異様な生物に見える。日本の土偶に似たところがある。


王妃画、トップから3番目の画像の部分拡大図。これは魚型エイリアンだろうか?

オアンネスは 両生類型エイリアン
頭がとんがり長い。目は丸く小さい。手は5本だが、足の指は2本.。体表面はダイヤモンド型のウロコに見える。肩幅がなく、腕は短い。鼻の下、唇が異常に長く垂れ下がっている。Oannesはフェニキアやペルシャの主要な神で、Dagonとか Odakon という名前で聖なる存在として崇められた。バビロニア人も教導した。半魚半人種族。
アッシリア-バビロニア-ペルシャ-スキタイ-ガンダーラ-雲南-四川-加羅に到着!



バビロニアの鉢に彫られたオアンネスの司祭

この画像左は魚型エイリアン・右は鳥型エイリアン。どちらもポシェットを左手に持っている。
このポシェットは必携の付属物のようである。彼らはこれを持っていないと命にかかわる疾病を起こして動けなくなってしまう。そんな欠陥を持っていたのではないだろうか。
地球環境に適合するための何か。静電気を放出させるための導電態だったと思える。

歴史的にはシュメール王名表で言われるところの大洪水が起こる前の時代、王に仕える非常に優秀で賢い宰相と、同じく王に仕える熟達した職人のことを指していたらしい。そして彼らアプカルルは、自分たちの高度な文化や伝統的な技術を、いまだ文明化していなかった人々に教えたという。


 なにか生命の樹の原型を彷彿とさせる工作物の幹は金属棒で、なにやら電気火花を出している。
電気放電であれば、相当高い電圧をかけているだろう。その上にフラワシを浮上させているようだ。
物体を浮遊させる実験をしているような感じがする。今日の浮遊マジックショーみたいだ。
人物のすべてが右手を上にして手をかざしている様が「さあ、皆さん、ご覧のとおり浮き上がりました。拍手喝采を!」といっているようだ。飛行物体、今日のドローンを自作している光景の様に見えてしまうのは可笑しいだろうか。

伽耶鉄器兵の鉄の兜のデザインがどうしようもなく似ている。オアンネスでも被れそう。ヘルメットは軽くて硬い素材がいい。鉄は重い。どうしてこんなに長いものが必要だったのだろうか?

■魚型エイリアン・オアンネス
シュメールの遺跡に発掘された粘土板に記された神話によると、「オアンネス」と呼ばれる海からきた「半魚半人」の生物は、シュメールの人々に農業、都市や神殿の建設、文字、法律、数学、芸術、それに秩序などを、人間の言葉で伝授したという。
 記述によれば、この生物は魚の身体を持ち、その頭の下には人間の頭があり、尾ひれとともに人間の足も持っていたという。
 この生物は水陸両棲類で、昼間は人間とともに過ごし、太陽が沈むと、海へ帰ったという。
 さらに、後のバビロニア時代になると、バビロニアの神官ベロッソスは、神殿に保管されていた楔形文字の文書を利用して、『バビロニア史』という歴史書を編纂したといわれています。それによると、ベロッソスはバビロニア文明の起源について、次のように記述していました。

 「バビロニアにさまざまの国の人たちが盛んに集まり、彼らはカルデアに住み着き、野獣のように無法な生活をしていた。一年目にエリュトレア海のバビロニアに接するあの地方から、名を「オアンネス」という動物が現れたが、その全身は魚の体であって、魚頭の下に人頭、また、人の足に類似した足が魚の尾の内側についていたという。

 その声も言葉もはっきりと聞き取れる人の声で、その再現図は今日にいたるまで保管されている。この『生物』は昼間は人々のなかにあって過ごすことを常としたが、昼間は食べ物を口にせず、あらゆる種類の文字、学問、科学上の識見を人々に授けた。

 都市を築き、神殿を建立し、法典を編むことを教え、幾何学的知識の諸原理を説明した。大地の種子を識別させ、果実の集め方を教えた。要するに、彼は人々の礼儀作法を柔和にし、その生活を人間並みにする上で役立ちうる一切のことを教えたのである。

 その時代以来、物質的なもので彼の教示に勝るものとしては、実質的には何ひとつ加えられてきていない。そして太陽が沈むと、このオアンネスはふたたび海中へ立ち去り、夜は深海で過ごした。両棲類だったからである」

 

Appearance of annedots according description of antique authors

The body of him was fish, and under the fish head there was the other, [human], below there were legs as though of (kind of) a man and fish tail [behind them]. His voice was human, and the tongue clear, and his image remained up to our time.
In the afternoon this Being usually talked with people, but did not eat at this time any food. He had given to people writing, sciences and arts. He had learnt them to build dwellings, to erect temples, to establish laws and to know the geometry bases. He had shown them seeds of the useful plants and has trained them to collect their fruits. In short, this Being had made all required that customs of people became softer and they could lead a civilised lifestyle. And his deeds (acts) were so comprehensive that since then and up to now anything essential had not been invented (devised) any more. After sunset this Being made for sea  again and spent all night long in its depths
because he was an amphibious ".
アイザック・プレストン・コリー著『古代拾遺』より)


アユディアのヒンズー寺院




■仏教の仏足石に双魚がいる!

仏足石には、千輻輪相に基づいた法輪のほかに、双魚紋(二匹の魚、繁栄の象徴とされる)や金剛杵、卍の文字が描かれている。紀元前543年、釈尊涅槃寂静から、ガンダーラ仏が作られた間、仏足石だけが信仰の対象だった。

■ヒンズー教のマカラ
首露王陵の門にあるサングオ(神魚)の上部は象だと説明されているが、象よりも鼻が短いマカラ(मकर〔Makara)がぴったりだ。神々の騎獣(ヴァーハナ)の一種で、インド神話に登場する怪魚。愛神カーマの旗標であり、ガンガー神、ヴァルナ神、カーマ神の乗り物(ヴァーハナ)とされる。カーマのシンボルであるマカラは門や装身具の装飾に用いられた。象のような鼻、とぐろ巻く尾を持つが、イルカやサメ、ワニの類ともされる。水を操る力を持つため、マカラの棲むとされる川や湖、海といった場所(マカラーヴァーサー)が崇拝の対象となった。また、大乗仏教の説話においては、これに遭遇した際には観世音菩薩の名を唱えれば難を逃れる等とされている。水神ヴァルナ(水天)は摩伽羅魚、摩竭魚などと漢訳された。

スヴァヤンプーナート寺院(カトマンズ)象のような鼻、とぐろ巻く尾を持つが、イルカやサメ、ワニの類ともされる。水を操る力を持つため、マカラの棲むとされる川や湖、海といった場所(マカラーヴァーサー)が崇拝の対象となった。

日光東照宮の木鼻のにある摩伽羅魚(マカラの漢訳が伽羅という文字である)

許黄玉(姓は許<フォ>、名は黄玉<ファンオク>の船の帆と旗はなぜ赤い?

 この姫が乗ってきた船が帆や旗が赤かった(茜色の旗)ということは、見過ごすことができない。帆と旗を赤く染めるためには大量の赤色顔料が必要である。いわゆるベンガラが豊富に使えることが必要条件となる。ベンガラの名称がインドの西ベンガル州を指すだろう。ベンガルを産出していた鉱山があるところが有力地になるだろう。また船の出帆場所は、インドのベンガル州であることは間違いない。このベンガラが鉄の生産と切っても切れない関係にある。それは赤鉄鉱と同じだからである。鍛冶屋の一族が東西に強い文明の影響をあたえているのではないか、このことの痕跡をさぐることは歴史の裏を見ることになる。
弁柄(べんがら)とは、かつてインドのベンガル地方産のものを輸入したために「べんがら」と名付けられた。ベンガラは赤色顔料であり、酸化第二鉄で、(赤色酸化鉄、酸化鉄)。やはり鉄の原料である酸化鉄と同じ原料である。鉄とベンガラが切り離せないほどの関係があることを知ると、鉄の一大生産拠点であっただろう。鉄は酸化鉄を還元(酸素をとる)ことによって造られるからだ。
顔料と染料は異なる。顔料は鉱物系で、染料は植物系である。茜色(あかねいろ)とは、本来薬用・染料植物であるアカネの根で染めた、沈んだ赤色のこと。暗赤色を指す。

神聖な王女が乗っていた船のバラストだった「婆娑石塔」、五層のストーパで、岩石は韓国にはない石であるという..
韓国にはない石であることは分析して証明されている。さらに、知りたいことはこれは酸化鉄を大量に含む鉱石のサンプルではなかったかという答えである。かすかに、赤い反射が見て取れる。

伽耶には洛東江の内側に鉄鉱山の遺跡が3か所あり、伽耶市中央に流れる海畔川沿いにいくつもの高炉まで鉄鉱石を運んだ。製鉄には水も必要である。倭国は5世紀まで伽耶の鉄を輸入していた。
1)密陽市に近い生鉄里(생청)
2)密陽市に生林里(생림)
3)神魚山の北側、梅里(상농)
伽耶の鉄は高純度で、これらの赤鉄鉱が上質であったと思われる。鉱山が周囲にあるという立地条件が揃っている場所を発見した技術は、実は土着の人に難しい。外から来たある種族が教えたとしか思えない。伽耶には今日まで神秘的な伝承が多い。鉱山を見つける特殊な集団は、日本では山伏たちだったように、伽耶でも特殊な専門技師がいただろう。

■山伏と酸化鉄

 弥勒信仰は聖徳太子(タイシ)信仰となって普及していった。この信仰は、なぜか大工や鍛冶屋など手工業者の信仰なのである。日本の山伏(やまぶし)たちは全国の山々を巡って鉄鉱石や辰砂(丹)を探索する任務があった。日本の山伏(やまぶし)たちは全国の山々を巡って鉄鉱石や辰砂(丹)を探索する任務があった。鉱山から鉱石を掘り出す専門の技師である。15世紀からは山師という言葉があるが、定住せず全国の鉱山のある土地から土地へ巡って仕事を請け負う。いわゆる「流れ者」「渡り者」の集団である。鉱石が発見されても、彼らがいなければ採掘はできない。このことを踏まえて、山伏たちが定住地をもたない流れ者で、鉱山のあるところには欠かせない存在だった。『史記』巻 貨殖列伝に「而巴寡婦清 其先得丹穴 而擅其利數世」、巴の寡婦清、その先んじて丹を得るも、しかしてその利を擅(ほしいまま)にすること数世とあり、辰砂を発見すると数代に渡って大儲けできた。この山伏たちが辰砂と鉄の純度を見分けることができる鉱山師で、採掘のために鉱山から鉱山へ渡り歩くという集団で、自ずと里人とは違う独特の習俗をもっていた。異様な装束で山を歩き回る彼らは天狗として畏れられた。里人にとって天狗とは山に出没する得体の知れないよそ者だった。

   
ホラ貝、烏帽子(えぼし)は鳥の神ガルーダから由来しているのだろうか。刀剣をさしていることから、武装を許されていた集団である。

■天狗(てんぐ)

天狗は迦楼羅天が変化したものともいわれる。カルラはインドのガルーダであろう。パーリ語ではガルラと言われる。加羅国の語源が「カル」魚か、ガルラ天狗かは実は微妙である。韓国語ではガはkの無声音で発音するので、「かるら」、さらに、「ル」音が連音化するとカラと発音されるだろう。加羅がガルーダである可能性も大いに残されている。迦楼羅はインドネシアでは国章となっている。ガルーダはインドに出てくる巨鳥で、金色の翼を持ち頭に如意宝珠を頂き、つねに火焔を吐き。蛇を常食としている不死鳥である。不死の聖水アムリタを神々から奪いナーガに与え、交換に奴隷となった母ヴィナターを救うという神話がある。ここに言う聖水アムリタが、不老不死の秘薬である。ここに不老不死のモチーフがある。そして、蛇の舌が二つに割れているのは、どうしてなのか、つぎのような経緯がある。「ヴィナータが解放されると、アムリタをクシャの葉の上におき、沐浴してから飲まねばならないと告げた。それを聞いてナーガたちが沐浴をしている隙に、インドラがアムリタを取り返してしまった。ナーガたちはだまされたことに気づいたが、もはやどうしようもなかった。ナーガたちはどうにかしてアムリタをなめようと、アムリタが置かれていたクシャの葉をなめ回したため、舌が切れ二股となってしまった(『マハーバーラタ』第1巻14~30章)。

   
関東の高野山の天狗像 大天狗と小天狗(カラス天狗) どちらも羽が生えている。インド人もびっくり。半人半鳥、こりゃガルーダ神じゃ!。高尾山は、山伏が修行をする修験道の山で、高野山薬王院にある。山伏の守護神とされるが物議を呼ばないのがむしろ不思議である。

■鞍馬山には大天狗が住むという。
 鞍馬山には不思議なものがかなり奉られている。インドのガーネーシャなども目撃したことがあるが、ヒンディーの神がどうしてこんなところにあるのか、15年前、当時はそのことがちょっと引っかかっていたが、首をひねるだけだった。牛若丸が鞍馬山に入山して、剣術を教えたのが天狗であるということぐらいしか知らなかった。さて、この天狗は鞍馬山僧正坊という名前で、鞍馬山魔王尊と呼ばれる。その本地は不動明王かと思っていたが、毘沙門天であるとのこと。日本書紀の舒明天皇(じょめい629-)の9年に大きな星が東から西に流れ、雷に似た音がしたのを僧旻が「あれは流星ではなく天狗だ」と言ったという記録が残っており、これが天狗の初見であるとされる。私見では天狗は欽明天皇(きんめい539ー)が守護神として崇拝していたのであろう。この信仰は、修験道に修練したのだ。天狗はその象徴であり、なんと猿田彦に比定される。山伏は天皇直属の家来で、こんにちの近衛兵だったのだろう。加羅国から一緒に渡来してきた武装集団だろう。鞍馬山は修験道の聖地であり、近頃パワースポットとしてにわかに人気がある。修験道は加羅系天皇の宗教儀式の原点であり、なんと、インド・ペルシャの神々をも本地とするらしいのである。

鞍馬山「奥の院魔王殿」本殿金堂前にある、六芒星(六角星)
「鞍馬山の縁起」となると、ちょっとケタが違う!!約二臆六千万年前、海底火山の隆起によって生まれた鞍馬山には、太古の昔より尊天の霊気が満ち溢れている・・と。そして、650万年前、金星より地上の創造と破壊を司る尊天(サナート・クマラと言われている)が、この地に降り立ったとされているのです!650万年前~!?サナート・クマラ!?(西田由美子ブログ参照)

Wikipediaでは、「サナート・クマラ」は、こんな風に書かれる。
不朽の智恵(神智学に端を発する聖典)では、サナト・クマーラは、1850万年前に金星から、地球のロゴス(地球の創造主、神)の、物質界における反映の任を司るためにやって来たとされる。・・・

なんとも、とんでも本をもはるかに超えた内容だが、サナート・クマラが金星から渡来した宇宙人だというのである。精神世界ではパワースポットで、もっとも強い気が噴出しているという噂である。サナート・クマラは、京都の鞍馬山祭神の魔王尊とされるが、実はサナート・クマラは、インド古代のチャーンドーグヤ・ウパニシャッドに登場する正統派の聖者であるという。なんでも、ヴェーダ・アヴェスター/チャンドーグヤ・ウパニシャッドにあるんだそうだ。

京都府京都市左京区鞍馬由岐神社例祭 京都三大奇祭の一つ。
護摩焚き、チベットで行われていたのが10月22日の新月の日。そしてそして…新月のその同じ日、鞍馬の火祭りが行われていた。写真はしめ縄切りの儀式

《噂では鞍馬山が本当にインド系の一派なような様相ですが、まったく歴史的に根拠がないとも言えないよね。650年に修行道の開祖、役の行者(えんのぎょうじゃ)などを勉強して、続きは、また出直しますね。》


■天狗とガルダが結びついたところで、山伏が火祭りを行うことから山伏の山岳信仰がゾロアスター教と関係が深く、かつ、ペルシャ伝来の鍛冶、タタラの原料である鉄鉱石を探す忍者だった様相が浮かび上がってくる。
ガルーダはインドネシアの国章だが、いたるところに像がある。ガルーダインドネシア航空(Garuda Indonesia)はよく知られている。『孔雀』朱雀はガルーダ鳥が元形である。朱雀は五行では火、方位では西、季節では秋、色では白である。


■鳥型エイリアンたちは蛇型エイリアンを難無くやっつける。蛇型エイリアンは制圧された!

カンボジア 大プリヤカン遺跡 2匹のコブラを踏みつけたガルーダ。

ガルーダ神(タイの寺院)こちらはこちらは長い蛇。
   
タイの王章(左)    インドネシアの国章(右 )

○双魚紋のルーツはなんとペルシャだ!



金官駕洛国王にインドから嫁いだ許黄玉(姓は許<フォ>、名は黄玉<ファンオク>の霊墓・許王后陵の神魚紋 首露王が降臨したという亀旨峰(くしふる)の遊歩道を歩いていくと首露王妃陵に出る。



この図の二匹の魚は、いったい何処にルーツがあるのだろうか。
魚の上には伸びた根が配されているので、何らかの草木であることは間違いない。これは一体なんだろうか?

韓流歴史ドラマ『大王の夢』第69話(2012年9月8日から2013年6月9日まで放送された韓国KBSのテレビドラマ)김유신・キム・ユシン)の死期の回想シーンで突然現れた軍旗。双魚紋であるところから伽耶軍のものと推測できる。但し、ドラマのワンショットなので歴史的に検証されているかどうかは不明。キム・ユシンの死は673年陰暦の7月1日。

■魚信仰は金海伽耶だけで、新羅には伝搬したが、百済や高句麗には全くなかった。
 古代文化がこれだけ残されている地方は朝鮮半島では例外と言ってもいいだろう。金海市のシンボルになっている。


海畔川に掛る橋のたもとにありましたね。チュッチュッしている。夫婦和合のご利益があるとか・・・!


金海国立博物館周辺の歩道のタイル(巴形の双魚)

■金魚のお供え

イランでは正月を正月(春分の日)を「ファルヴァルディーン」と呼び、もともと「フラワシの月」という意味であるという。正月は春分の日とされ、3月21日に行われる。新年になる瞬間は毎年6時間ずつ違い、今年の新年は何時なのか新聞やテレビで報道される。このときをノウ・ルーズ(新年)と呼ぶ。町中がはなやぎたくさんの大道芸や見世物がでる。正月明けの13日は特別の日とされ「シーズダ・ベダル」と呼ばれる。一斉に正月飾りをする。この正月飾りの中に、二匹の金魚を鉢に入れて飾る。二匹の金魚は世界のたて直しをはかる霊木「白ホーム」を守る「カラ魚」を想定したものであるという。正月になると、街には金魚売りの行商がでて、金魚を売り歩く。昨今はこれらの金魚は日本から輸入されているのだという。



イランの正月飾り 中央に水鉢の金魚
正月飾りには、水鉢の金魚・蝋燭(燭台)・ペルシャ語のSではじまるものを飾る。七つのSのつくものはハットスイーンと呼ばれ、サマヌー(小麦胚芽)・スイープ(りんご)・スーマック(香料)・サンジェド(ななかまど)・セルケ(酢)・スイール(にんにく)・サブゼ(麦苗)である。それぞれの曰くは省略するが、1月の7日の正月あけに食べる日本の七草粥(セリ・ナズナ・ハハコグサ・ハコベ・コオニタビラコ・大根・カブ)は、邪気を払い、無病息災を願う行事であり、どこか似ているところがある。
お盆には迎え火、送り火、精霊流しなど、火が付きもので、火と言えばやはりゾロアスター教だ。

切手・羊木臈纈屏風図(部分)に白ホーム樹が描かれている?


羊木臈纈屏風図

■白ホームの木を想定するものに、正倉院御物の羊木臈纈屏風(ひつじきろうけちのびょうぶ)がある。画面の上端に花喰鳥(はなくいどり)を、その下に樹木と樹間に遊ぶ2匹の猿を配し、中央に大きく巻き角をつけた羊を表している。羊の下方には山岳を配し、山腹に振り返る一頭の鹿を表している。羊はササン朝ペルシア風でエキゾチックな図様だが、山岳などは中国の伝統図様に通じる趣(おもむき)を呈(てい)している。画面の下端に「天平勝宝三年十月」(751年)の墨書がある。>実はペルシャの世界創造神話『ブンダヒシュン』の世界観をそのまま表現したものではないか、という説もある。私は、この画は新年を祝う意味があったのではないかと推測する。さながら、「明けましておめでとう」ということである。まず、イランの新年とは、地球が太陽の周期を巡り終わったとき、春分点が羊座に入ったときである。羊=正月で、新年をめでたさを表現したのであろう。文献参照:伊藤義教氏の「ペルシァ文化渡来考」

■ カル魚と白ホームの樹
白ホーム樹という、世界の建て直しの時に、不老不死の苗木を創造した。ところが、ガナーグ・メーノーグは、この苗木を破壊するために、フラークカルドの深い水の中に、一匹の蛙を作り出した。しかし、オフルマズドは、この蛙を遠ざけるためにカル魚を二尾、そこに創成した。彼らは、白ホーム樹のまわりを絶えず回っていて、この魚のどちらか一方の頭はいつも蛙に向けられている。彼らは霊食で、食を必要とせず、世界の建直しのときまで奮闘しているという。
>世界創造神話「ブンダヒシュン」部分参照

ブンダヒシュン(Bundahishn)とは、「原初の創造」を意味し、中世ペルシアにおいて、ゾロアスター教の宇宙観の百科全書的な集成とパフレヴィー語で書かれた著作の名前でもある

■フラワシの月とは
ゾロアスター教の暦で毎月19日はファルヴァルディーン日とされていて、フラワシを祀る日であった。そして毎年の年末の10日間は「フラワルウディーガーン」と呼ばれ、フラワシを祀る特別な期間とされる。フラワシとは、天・地・水・動物・植物等すべての存在にフラワシが宿る精霊だが「先祖霊」に転じている。これらフラワシがこの期間に一斉に地上に帰ってくる。ウラワシを迎えるために人々はお供えをし、火を焚く。火を焚くという行いは蝋燭に替わっているが、イスラム教になったイランでも連綿と続く庶民行事だ。フラワシはアヴェスター語でありインドに伝えられて盂蘭盆の起源となった。

*フラワシ (Fravaši)とは、ゾロアスター教における聖霊、下級神。

有翼円盤がゾロアスター教でいうフラワシ。左手に持つリングに注目。

アフラ・マズダ神ともフラワシ像とも呼ばれ、手の輪の中は炎が燃え、その炎は手を焼かなかった。
わが国正月の“注連飾り”は有翼円盤の変形と言われる。

歳神様(日本)一年を守り、豊作を叶える神。

日本の正月飾り*左端にあるのがしめ飾り。右はアフラ・マズダ神がミトラ神に渡した神権の象徴。

麦藁で作った素朴な注連縄(しめなわ

マイカーにもしめ飾り(インドのドゥルガ・プジャとそっくりだ!)

沖縄の注連縄(しめなわ)


注連飾り、門松を焚きあげ、炎と共に歳神様を送り帰す「とんど焼き」歳神はトンドさんとも呼ばれていた。
門松が終わった8日~12日の間に行われる正月行事。ゾロアスター教の火祭が起源のようだ。
関東で、「どんとやき」という日本の祭がかすかに記憶に残っている。炎の火柱がとても熱かったことを記憶している。どんな謂われのある祭りだったのだろうか? ゾロアスター教の火祭と日本の火祭と共通性はないだろうか?)これは大歳神を送り返す儀式である。大歳神は「アフラ・マズダ神」であると思われれる。


那智の火祭り 12の扇みこしには各々32の日の丸の扇がつけられている。みこしの12は十二か月を、扇の数は一か月の日数。31だと魔が入りこむ空間があるので、32にしてあるのだと云う。

鞍馬の火祭り 「
サイレイヤ サイリョウ」 意味の分かる方いますか?!?


久留米市 大善寺玉垂宮の鬼夜 三大火祭り
その他の有名火祭り 松明あかし(福岡県須賀川市)・向田の火祭り(石川県能登島)・お松明(京都府)・鬼すべ(福岡県太宰府)・鳥羽の火祭り(愛知県西尾市鳥羽町)・吉田の火祭り(富士吉田市)


岐阜市にある手力雄(てぢからお)神社の火祭り 全部花火の進化型(サイヤーの掛け声が聞き取れる)
■歳神は、フラワシにそっくり

毎年正月に各家にやってくる来方神である。地方によってはお歳徳(とんど)さん、正月様、恵方神(ゑほう)、大年神(大歳神)、年殿、トシドン、年爺さん、若年さんなどとも呼ばれる。門松(かどまつ)は歳神が来訪する依代(よりしろ)である。
古事記では大国御魂神(おほくにみたま) - 国土の神霊。国魂、大国主など別名。
*資料 Wikipediaより転写
大歳御祖神社 静岡県静岡市葵区飛騨一宮水無神社 岐阜県高山市などで祀られている。また、特に西日本で大歳神社・大歳様として田の畔の祠などに祀られている。
葛木御歳神社 奈良県御所市が全国の御歳神(御年神)を祭る神社の総本社とされる。大和神社(おおやまとじんじゃ)右殿でも祀られている。中殿に日本大国魂大神 八千戈大神、右殿に御年大神を祀る。
日本大国魂大神(倭大国魂神)以外の祭神については文献によって諸説あり、『神社要録』では左殿を須沼比神。『社家説』『元要記』では左殿を三輪大明神(大物主)・右殿を天照大神。『元要記一説』では右殿を稲倉魂神(ウカノミタマ)としている。

■大歳神はペルシャの王
 以上の考察は庶民の信仰から大歳神は、ペルシャから渡来したということが炙り出されてきた。恵方神というと、恵比寿様であろう。すると、応神天皇以前の古代王朝の系譜はスサノオだから、大歳神の王族である。祇園系、出雲系などの神社の祭りはいずれも民衆立で規模も大きく、非常に慕われている。非常に尊崇された大王・猿田彦もペルシャ人であろう。応神が扶余系の征服王朝だが、たかが数千にも満たない軍勢で、縄文以来、コメ作りを行って大人口の日本民族の宗教、言語まで消滅できなかった。国譲りの段では祖霊を祭ることを維持する条件で王権を譲っていることから、庶民の熱い信仰は日本では今日まで連綿と続くことができた。これが、古神道の低層にある真実だろう。日本語が古神道とともに、温存されたのは世界では異例のことである。もし、国譲りという妥協をしなかったら、民族が抹殺されたかもわからない。土着民族の存亡を、国つ神が国譲りで救ったのである。民衆はその御恩を忘れなかった。日本民族は事大主義を嫌う。源義経など、弱者や敗者に同情し、強いものより弱いものに同情して応援する気質は中国や朝鮮には見られない。だから、日本民族は静かで大人しい、感情を露わにしない特性は2000年来培われた民族の知恵なのだ。だから、太平洋戦争の敗戦後の民衆は耐える犠牲はだしても、暴動やテロを行うこともなかった。アメリカもこの国の整然とした敗戦国民に実は不気味な驚きを持ったのである。スサノオが追放された神であろうと、神社祭が反国家的行事であろうと、忠誠心の発露として祭りが盛大化したのだろう。

*10日正月だったペルシャ(古代イラン)では後半の初日・1月6日は「大正月」と呼ばれ“神が創造を終えた日”とされていた。人々はこの日を「希望の日」とし、この朝カナート(地下水路)から“若水”を汲み、その水で沐浴し、互いに水を掛け合って祝ったという。

 わが国で元旦の早朝、いまだ他人が汲んでいない井戸から若水を汲んで神に捧げ、雑炊を焚いたのと同じである。若水とは、生命の源である水を飲んだり浴びたりすることで、一年間の罪穢れを祓うとともに、新しい生命として再生するための聖水である。この正月を前後二分する習俗は、東大寺・二月堂の修二会(お水取り)にもみることができる。3月1日から2週間続く修二会は前半7日と後半7日に二分され、それぞれほぼ同趣旨の法要が繰りかえされる。前半最後のクライマックスが3月7日の“小観音”(コガンノン)出御である。この時、秘仏とされる修二会の主尊・大観音が小観音へと姿を替えてして堂衆の前に現れる。
 これは大観音が小観音として再生したことを意味し、古代オリエントで1月6日を神の出現日とするのと同じである。盂蘭盆(うらぼん)はインド哲学者の岩本裕さんがゾロアスター教の「urvan」(魂)が語源であるという説をだし、
お盆は仏教的な行事ではなく、実はゾロアスター教起源である可能性が高いという。それは、どちらも火祭を伴うからである。

■双魚紋のルーツ その2


首露王陵の門にあるサングオ(神魚像)の部分は蛇王ザッハークか?

さて、キムスロ王の門にあるもう一つの神魚紋は不思議な生き物が描かれている。まるで、恐ろしい火星人のようである。目と鼻がある、この化け物のような正体は、いったいなんだろう。(有力なのは頭が蛙、両肩はコブラ)

■蛇王ザッハークには両肩から蛇がついていた。そのヘビは人間の脳みそを喰う

 イラン建国叙事詩「王書」に書かれるアラブの王で、イランでは最も嫌われる邪悪な王である。ゾロアスター教では「三口六眼千術の魔物」と書かれる闇の王である。蛇王ザッハークが滅びたのちも、その子孫の王国は常にペルシャを脅かす敵として存在した。イラン人はいまだにこの蛇王のことを知っていて、パーレビ打倒のキャンペーンポスターにはこの魔王の姿が描かれた。イスラム一神教になったイラン人にも未だに意識の深層には神話の神がいまだに根付いている。その姿とは、両肩から二匹の黒い蛇が鎌首をもたげている。ペルシャで王の中の王と言われるのはジャムシード王である。ジャムシード王は、「ジャムの酒杯」という美しい杯を手にして、世の中のすべてが杯に映し出されるために、玉座に座りながら、あらゆることを正しく判断できたという。700年間国を治め、船を発明し、鉄の武器を作ったとされる。この王を倒したのがザッハークで、悪神アハリマンの呪いに落ちたのだという。悪神アハリマンが王宮の調理場に入り込み、鳥や獣の珍しい料理を作って王を喜ばせた。あるとき、ザッハークはこの料理師に褒美与えようと「なんでもを聞き届けてやろう」と言うと、悪神の料理師は、へりくだりながら「もしできますことならば、あなた様の両肩にわたくしが口づけすることをお許しください」と所望した。王は気軽に許すと、料理師はザッハークの両肩に口づけをした。その途端に、料理師の姿は悪神アハリマンとなり地下にかき消えてしまった。悪神アハリマンが口づけをしたザッハーク王の両の肩からは二匹の黒い蛇が鎌首をもたげていた。ザッハーク王は蛇を切り落とすが、その跡からまた二匹の蛇が生えてきて、まるで恐ろしい肩章のように二匹の蛇は離れることがなかった。ザッハークは嘆き、国中の名医に治療をもとめたが、その二匹の蛇は離れることがなかった。悪神アハリマンはこんどは名医に化けて、「王様、蛇は切っても殺そうとしても無益でございます。最善の方法は人間の脳を蛇にあたえて、害をおよぼさぬようにすれば、やがて蛇も死にましょう」と進言した。王は、それ以来、国中の人々を殺す残忍な王となった。ジャムシード王のイランを攻撃してジャムシード王はシナの海辺で捕えられ、のこぎりで切り殺された。ジャムシード王には二人の美しい娘、シャフルナーズ姫とアルナワーズ姫がおられたが、ザッハークはこの二人に自分の肩の二匹の蛇の世話を命じた。毎日、二人の人間の脳みそを蛇に食べさせなければなりません。「罪もない人を救う方法はないものかしら・・・」二人のうち一人は殺さずに、羊の脳を使うことにし、こうして死を逃れて山や砂漠に隠れてヤギや羊を飼ってひっそり暮らしたのがクルド族である。

■鍛冶屋のカーヴェの皮の前掛けというシンボルは日本の前垂れ

 ザッハークは「公正にして自愛の王であらせたまう。彼は真実を語り、正義によって国を統べたまう」という宣言書に署名することを諸侯に強要した。諸侯は王を恐れて次々と署名した。しかし、一人の老人カーヴェは「わしには18人の息子がいました。そしてただ一人を除いて皆あなたの蛇の餌食となりました。そして、一人残された息子にも順番が巡ってきました。慈悲があるなら、ただ一人の息子を助けてください」「わたしは偽りの宣言書には署名しません。あなたが自愛の王であるなら、なぜ私の息子がつぎつぎに殺されなければならなかったのですか」カーヴェは憤然と署名を拒否した。「みなの集、蛇の王ザッハークは魔物じゃ。わしらの命はわしらで守ろう。ザッハークを倒すと予言されたファリードゥーンをわしらの王にしよう!わしらの息子、わしらの仲間の仇を討とう」こうして、鍛冶屋の皮の前掛を槍の先に縛り付けて旗とした。この旗のもとに多くの兵士が集まって来た。この旗を「カーヴェの旗」と呼んだ。ザッハークの城はエルサレムにあった。ザーハックはインドにいたが、悪魔と人間の大混成軍を率いてエルサルムに戻ると、城には誰一人味方はいないばかりか、レンガや石がザッハークめがけて飛んでた。牛頭の矛を握りしめ、ファリードゥーンはザッハークに牛頭の矛を振り下ろすとザッハークの兜はくだけ、父のかたきとさらに一撃を加えようとしたとき、「殺してはなりません。彼をしばり、デマーヴァンド山に閉じ込めなさい。この者に死期はまだ来ていません。」と、天子の声がした。ファリードゥーンは獅子の皮をよって縄をない、ザッハークの手足をしばり、デマーヴァンド山の洞穴に幽閉した。偉大な王ジャムシード王の二人の娘シャフルナーズ姫とアルナワーズ姫は無事に救い出され、ファリードゥーン王の両脇に座して、美しいひとみとえみを浮かべ、「神よ、二度とこの平和が奪われることがありませんように」と祈るのだった。(資料部分要約)
 古代のペルシャ革命、蜂起したのは鍛冶屋集団だった。後のフリーメソンであるという説もある。


真名井神社の六芒星、伊勢神宮も灯篭石に見かける。この六芒星は鍛冶屋カーヴェの紋章と思われる。籠目紋ともいわれる。

■童謡「かごめ かごめ」は新羅建国を切望する民衆歌
日本の童謡歌、「籠目籠目 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?」
童謡かごめかごめの「籠目」は「亀」、鳥は「鶏林」のあてたものだろう。
『三国遺事』が伝える建国神話によれば、洛東江下流の弁韓地域を治めていた9つの村の長達(九干)は王の出現を待ちわびていたと言う。村長達は王の擁立を願って「亀旨歌(クジガ)」を歌った。すると、空から金の箱が降りてきて、その箱の中には6個の金の卵があった。それぞれの卵からは男の子がかえり、すぐに成人した。彼らは金官伽耶を中心とする連合国家の王達になったと言う。
*弁韓の族長は12であった。ここに9カ国とあるのは一説だが過渡期には10国になっているのであえて訂正していない。駕洛国成立時は6カ国に再編されている。 亀旨歌(クジガ)とは九つの部族長連合に王がいなかったので、いつ王が立つのであろうか。早く王を授けよという民衆歌で、「亀よ亀よ 頭を出せよ。出さぬのならば、焼いて喰うぞ」という内容である。
同内容の歌詞で、戦後、大阪でも歌われていたという。韓国語では亀はゴーとグーの中間母音で、天の香具山といったばあい、「加羅の香ばしい亀の山」という意味になる。

■かごめかごめ正訳

「籠目籠目 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?」
= 「伽耶よ、伽耶よ、伽耶のなかの斯盧(サロ)に、いつ王様が出るのでしょう。スロ様(亀)とソクタレ様(鶴)がすったもんだしています。はやく、サロ国に王が出来ますように」と、大意をつかめる。この郷歌は、新羅建国を願う庶民の歌だった。
*ソク・タレ:脱解尼師今(タレ・イサダム)が昔脱解(ソク・タレ)、その人。クソタレと間違えないように。後に新羅4代目の王となる。新羅初代の王はソクタレだと推測する。ソクタレ後節。

■亀=宇宙船にのって魚型エイリアンが降り立った場所は亀旨峰


■籠目紋の秘密を解く。籠目(かごめ)は直截に亀の甲羅にある。香具山の香具を「かご」と発音して、籠目と変態文字にした可能性もある。
見ての通り亀の甲羅は六角形。10干12支、五行の占盤だった。

■不思議なベンガラ(酸化鉄Ⅲ)の結晶構造は六角形


磁鉄鉱の鉱石 ベンガラを製造するには必要なもとの岩石


ベンガラは赤鉄鉱であり、溶鉱炉で磁鉄鉱を還元で酸素をあまり取り除かないで、800度ぐらいで焼くと出来上がる。したがって、ベンガラは製鉄の焼成法(空気中での加熱)では、良質の赤色顔料となる。 Fe3O4ベンガラは赤鉄鉱鉄の含有量70.0%。
他方、天然の赤鉄鉱を砕いて粉末にする製法のベンガラでは鉄の含有率は30%ぐらいであり、鉄の含有率が80%のベンガラは溶鉱炉を使って製造したものとしか考えられない。 磁鉄鉱より酸化的条件で,磁鉄鉱が酸化してもできる。粉末状だと赤褐色である。鮮やかな赤色の顔料を得るには高炉での還元のプロセスには高い技術が必要だ。鉄は極端な秘術とされ、決してその製法をまねされないよう、たった一人の鍛冶長にしか伝授しなかった。そうしたわけで、その製法をあますところなく知ることは不可能だ。ただ、言えることは酸素を完全に取り去ってしまえば鉄(Fe)になってしまうので、ベンガラで還元を終わらすには微妙なチューングを定数化しなければならない。より純度の高い鋼をつくるばあい、ベンガラを団子状に固めて可鍛鉄の替りとして、再度高炉で還元する方法がとられたのであろう。鉄鉱石から直接鉄を取り出すよりも、ずっと低温で不純物のない鉄が得られる。こうした2段式の溶鉱法をとると純鉄が得られる。純鉄はさびず、粘りけがあり、かつ硬質である。こうした製法であれば、ベンガラは副産物ではなく生産材である。想像しなくても、ベンガラが一次産品として、大量に在庫された可能性がある。ベンガラの日本での量産化は宝暦年間(1751年から1763年)に 鏡鉄鉱からつくれた。こちらはだいたい鉄の含有率は30%ぐらいに過ぎない。より古代、加羅国に鉄分80%の高濃度のベンガラが発見される謎も合点がいく。始めは、たたいて鍛える鍛鉄法であり、これは西の方で起きた製鉄技術であった。しだいに一般に鋳型でつくる鋳鉄法を併用した。鉄は溶解するのに1525度の高温を必要とするが、褐鉄鉱(赤土)から、わずか800度ぐらいで可鍛鉄を得ることができる。はじめは粗悪な還元鉄であるが、これを何度も火に入れ、叩いたり打ったりして鍛造する。これにたいして精練製鉄はタタラとよばれるふいごを持った高温精練法で、鋳型に流し込む。ベンガラを可銑鉄として使えば、800度程度の温度のタタラで、純度の高い鉄が生まれ、これを鍛錬すれば、ものすごい鋼(はがね)ができたはずである。
つぎにベンガラの結晶構造を見てみよう。

これは、磁鉄鉱上の赤鉄鉱接触エピタキシャル連晶 [Hematite on Magnetite (Contact Epitaxial Intergrowth)で、赤鉄鉱の結晶体を三次元コンピュータで描画したものである。
八面体であるが、磁鉄鉱の一面に亀甲紋(六芒星)を思わせる赤鉄鉱の結晶体がくっ付いている。この画像は実際の結晶をおよそ2億倍にしないと目に見える結晶模型にならない。世界もびっくり仰天!こうしたヘマタイト(赤鉄鉱)がハニカム構造をしていることをを古代人は知っていたのだ。驚くべきことに現代の個体物理学と同レベルの科学力があったとしか思えない。
赤鉄鉱(ヘマタイト)より得られる赤化鉄はFe2O3でコランダム構造とされる六方格子である。六方晶(hexagonal)系の構造をしている。

■万物の構造体は、たった5つしかない。

 般若心経に「照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。」にある、この「五蘊」とは万物の構成要素がたった5つの形で成り立っていることを意味する。すべての安定した結晶構造は5つの正多面体からなっており、その法則は明らかであるが、多面体の中は真空である。だから、五蘊皆空であり、宇宙法則だけが存在する。堅いダイヤモンドでさえ、合同な正多面体からなる凸面体であるが、その中身はからっぽである。しかし、無と思われる、そこには、それぞれの固有の波動がある。この波動は法則であり、かつ、それは根源的な宇宙エネルギーである。
 黄鉄鉱は真鍮色の光沢を、赤鉄鉱が赤いのは、それぞれ固有の波長を持っている証である。そこで、宇宙エネルギーは精妙な波動であるといえる。

 仏説・摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。般若心経




赤鉄鉱=三酸化鉄Fe2O3の結晶模型(2億倍)この鉄イオンの中心を結ぶと蜂の巣のような六角形になる。

赤鉄鉱のハニカム構造を分かりやすく表示した平面図

これはベンガラの結晶。これが正体である。豊受大神=稲荷大明神の鳥居は皆、朱塗り。豊受大神はベンガラの神、真っ赤かの姫神である。鉄の生産を行う鍛冶集団の象徴が東アジアではこの印亀(籠目)と呼んだのだった。籠神社や伊勢神宮の紋はダビデの星とも噂されている。
伊勢内宮に向かう参道にある灯篭の六芒星拡大

鞍馬寺不動堂


伊勢内宮に向かう参道にある灯篭の六芒星
拡大写真
これはペルシャ神話の鍛冶屋のカーヴェ一族の紋章であった。
カーヴェの皮の前掛けはフリーメーソンの皮の前掛けであり、しめ縄や相撲の回し化粧廻し(けしょうまわし)にも転じている。フリーメーソンも鍛冶集団であったのだ。

事実上フリーメーソンの本部と言われているスコットランドのエジンバラにあるロッジの壁にある図形。よくフリーメーソンはユダヤの秘密結社と言われるが、ユダヤ教の結社ではない。ペルシャの鍛冶屋カーヴェから発したのでゾロアスター教の秘密結社であろう。「自由博愛」などの、設立宣言文はゾロアスター教との対比検証が必要だろう。


イスラエル国旗
通称ダビデの星と呼ばれる。古代イスラエルの王(在位:前1000年~961年頃)ダビデはユダヤの王になったが、ペルシャ人であったろう。イスラエルの国旗が古代イランのカーヴェの紋章であることは、なんという皮肉なことだ。

兵庫県西宮市の市章(中央の文字は西だろうが、古代文字だろうか)



■馬韓とか辰韓ってどんな国だったのか。

 百済の建国以前はこの地域は馬韓と呼ばれ、馬韓の地に王が建ち百済になったが、北の扶余の王族から出ている。一方高句麗も扶余の王が立っており、高句麗王の担魯の一国が百済を立国したので、高句麗王族と百済王族は親類で同じ扶余族である。AD1世紀のころの朝鮮の地勢は次のようであった。辰韓は「阿残」(秦人)が主な民族である。新羅は辰韓の小国に華夏(漢族)の王がついて強大化した。以上整理して見る。
1:注清北・南道(扶余=後の高句麗)=貊族・扶余族(熊・鹿)
2:全羅北道(馬韓=後の百済)=阿人・韓人・貊族(熊・三足烏・鷹)
3:慶尚北道(辰韓=後の新羅)=穢人・韓人と胡族(龍)。
4:慶尚南道(辰韓)=倭人/阿人(亀)/穢人
5:吉林省(きつりんしょう)(扶余=後の渤海)=マルガル・扶余族<
以上、およそ3民族5大王に色分けできるのである。これらの色分けは民族という視点でのおおよその区分である。馬韓の南に辰韓があり、倭と同義に用いられている。辰韓と倭とはどう違うのであろうか。倭はおそらく辰韓(慶尚南道)と弁辰(北九州)を合わせて言うときに使われているのではないだろうか。なんであれ、百済の南に倭が接していると記録されているからである。『魏書』百済伝では、『夫餘之別種』百済は扶余の別種であり、『其衣服飲食與高句麗同』その衣服や飲食は高句麗と同じであると書いている。一方、辰韓については『辰韓王常用馬韓人作之、世相係、辰韓不得自立為王』と書かれ、辰韓は百済の領有地であり、辰韓は王を立てることができなかった。この意味は亡命者ばかりで神格化できるような王がいなかったからだと言える。新羅はこのとき、辰韓の一国で「斯盧国・新盧国」サロ国であったので、馬韓、辰韓、長蛇(高句麗)というような地勢図ができるのである。高句麗を「長蛇隔路、以沉于海」と『魏書』百済伝にあり、百済と高句麗は同じ扶余からでているが、高句麗は非常に乱暴な国(高麗不義、逆詐非一)で、戦が絶え間なかった。このへんの歴史は一般の韓国人はまず知らない。教科書に書いてないからだという。ちょっと、ネットで風穴を開けないと朝鮮の古代史は一般の人には理解されないようだ。

■駕洛国の民族は百済とは異なっている。

『三国志魏書』辰韓伝では、「其言語不與馬韓同、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。相呼皆為徒、有似秦人、『非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿、謂樂浪人本其殘餘人。今有名之為秦韓者。始有六國、稍分為十二國。』とあり、(伽耶は秦人)であるが、燕や斉ではなく、楽浪にいた阿残と呼ぶ。東方人は自分を『阿』いう民族で、楽浪人(ナンナン)の残余の民であったと言っている。阿人は中国系渡来人で上品で風流を好む。別名箕子朝鮮とも言われる。阿人は朝鮮のワイ・コマの民ではない。辰韓とも秦韓とも言うのは、このためである。馬韓とは言葉が異なっていた。始めには六国あり、十二国に細分化した。この民は楽浪人と同じで、「阿残」という。別名、秦人であった。金官加羅国は王を立て独立したが百済から割譲された土地であった。さて、もともと伽耶にいた阿人は、たくさんの船をもっていたので日本に逃避できた。安曇氏らおよそ五つのルーツをもち、この部族集団は一様に海神と三女神を奉じる特徴がある。



■三国時代の前、楽浪国は龍をトーテムとしていた

漢江と鴨緑江の間、その肥沃であった両流域に楽浪国(낙랑국 ナンナングツ)があった。漢の楽浪郡の支配が長く、漢から独立していた期間は短かった。楽浪郡の場所はずっと西土にちかく、分割されて帯方郡ができた時も、漢江流域より北鴨緑江の周辺あたりまでとみなし得る。楽浪国は後漢の冊封を受けた王国で、楽浪郡・帯方郡の中に埋もれてしまったが、王が実在した国家があった。
朝鮮民族主義者たちはこれを捻じ曲げて檀君王倹を始祖とする貊族だとするが、とんでもないプロパガンダだ。それはもともと中国の趙(ちょう)や韓、大燕国らの亡命民なのだ。そのなかに入れ墨をした南方の江南種族もいたのだ。そもそも王は龍をトーテムとする。伽耶は亀と魚をトーテムとする。豊かな土地のゆえか礼節のある行き届いたの国家だった。楽浪国はおよその人口は30万人、王の名は「崔氏」だった。前37年、高句麗は楽浪国を制圧。すぐさま後漢が奪還したが、その後、この地域が楽浪郡に接収された。ピョンヤン郊外の楽浪土壌が楽浪郡治跡だとされている。この地域を支配することは富国策の要であった。高句麗が隋・唐と歴戦しなければならなかったのは楽浪国を滅ぼしたことから始まったと言えるだろう。5世紀になって高句麗はこの地に遷都した。南平壌城、平壌(ピョンヤン)ある。
その後公孫燕の帯方郡の中で楽浪国は属国ながら異質な国だった。「旧民がしだいに出てくるようになった」、この旧民が公孫の帯方郡が創設される前の楽浪国人なのだ。BC346に百済が一時占拠、BC553新羅・真興王が侵略と、この地の争奪は三国の国力が充実したときに行われている。中国から見れば「楽浪郡の故地」である。朝鮮3国からは同時に中国との交易権を得るという利権がある。逆に言えば、中国の離間策どおりに朝鮮は合従連衡をしたという、うがった見方ができるだろう。

■伽耶は魚と亀をトーテムとする阿人
伽耶は辰(秦)は楽浪人の残余であり、秦人に似ているが「阿人」であるというのである。新たに分かったことは、ソウル一帯の楽浪人(ナンナン)が、旧来、辰韓の骨格をなす民族であったということだ。
なんであれ、日本に大量に移住したのが「阿」族であるとすると、すでに中国と戦った経験があり、多数の戦利品を奪い、中国の文物を吸収してしているという側面を付け加えはならない。

■馬韓は龍をトーテムとする部族連合国

馬韓は辰王がおり、月支国の王がなっていた(魏氏)。後漢書では目支国(モクチ)とする。目支国は漢江流域から南側で馬で数時間の距離、牙山(アサン)よりやや南側にあった。そこから全羅南道までまで、54国の小国からなり、最たる小国である駟盧国(シログ)、監奚卑離国(カメピリ)などは、僅か2,000戸にすぎなかった。馬韓を新興国百済(346年)とは一緒にはできない。百済王は、「百済の民(貊族)と馬韓の民」の共立王だったのだ。漢の始め(BC)楽浪郡は遼東部にあったが、漢江地域に移動した。真番郡・臨屯郡を廃止して、楽浪郡・玄菟郡にした。以前の真番は楽浪郡になったのである。その後、西海(ソッヘ=黄海)に面して中継貿易が富をもたらした楽浪郡だけが残り、他の県はまもなく廃止された。このうち玄莬郡は、貊族の抵抗でBC75年に遼東地域(第二玄莬郡)に追い出された。これを第二玄莬郡と言う。貊族の集団は消奴(ソノ)族と言われた。百済は部族的には貊族であり、貊族・貉族は穢系部族の部族名で、貊族は熊をトーテムとし、濊は虎をトーテムとした違いがある。百済は消奴(ソノ)部の召西奴(ソソノ)が卒本を脱出して建国したので、百済の王族と民は扶余と称してもは貊族である。召西奴(ソソノ)は国祖母と呼ばれ崇拝されている。貊族は日本書紀では「籠毛」と書かれる。


後の、平氏と源氏の旗色がどこから由来するのかピンポーン。*(新羅が中国の冊封から離れたのは則天武后が「雞林州都督」を廃して新羅王に譲渡する形で行われている。百済には「熊津都督」があった。都督には漢人の代官がいた。《日本の国号が「日本」となったのも時を同じくして、則天武后の時。そのとき始めて「筑紫都督府」が閉鎖されたんでしょう。太宰府と言うのは日本の別称。則天武后は悪女の評判だけが高いけど、冊封を解くなんて立派。外官の官僚が利権を失って怒ったんじゃないかな。抵抗勢力を抑え込む力があったのだ》

■馬韓の鉄

 神功皇后紀の「谷那鉄山」(こくな)はどこだろう。「神功皇后紀」46年条で、百済の肖古王が斯摩宿禰(しまのすくね)の従者である爾波移(にはや)に「鉄鋋(ねりがね)40枚を与えた」とある。また、神功皇后摂政52年に9月に「七支刀一口・七子鏡一面」が送られている。この時、日本から来た千熊長彦に賜った。「源は谷那(こくな)の鉄山で、その河口は徒歩で7日かかるほど長い川となっている。この水を飲み、この山の鉄をとって、倭王に献じる」これは、百済が谷那(こくな)の鉄山を馬韓から略奪したということで、西暦360年頃になるだろう。

谷那の鉄山はかなり大きな河(郁里河=現・南漢江)の水源にあたるソベク山脈の月山岳の周辺にあったのだろう。この地域は馬韓の国の一つであり、百済という小国が馬韓の数国との戦争に勝利してこの谷那の鉄山と鍛冶場を占領したのだ。その経緯から、戦勝記念として、谷那の鉄で七支刀を作った可能性が高い。さらに、日本との鉄を交易を独占するとの宣告だったのだろう。要するに鉄の交易を日本に保証する意味をこめて、七支刀や鉄鋋を賜ったのであろう。また、百済肖古王が谷那の鉄山に侵攻した混乱で、伽耶は鉄の入手が困難になり、危機に陥ったのであろう。
伽耶からみれば、洛東江の上流にもあたる谷那の鉄が遮断されると、金官伽耶盟主国の王は財力を失い、伽耶の連合が脅かされることになる。このときから、伽耶の鉄の質が落ちたのだろう。谷那の鉄山は馬韓の王、次に百済王、次に新羅王の支配と替わった。伽耶は馬韓と対立しては鉄が届かない。その後、百済に忠信をしめして、新羅に反抗した。伽耶には鉄鉱石がなかったためだろう。しかし、212年に伽耶は新羅に王子を人質を差し出している。伽耶が窮地に陥ったのは、馬韓王がしだいに追い詰められ、枕弥多礼国(チンミタレグ)現・全羅南道の光州まで逃げ込んだ。新羅に人質を出したのは、百済を牽制する意味だろう。肖古王から(166-214)近肖子王(346-375)の南征で滅亡するまで、およそ120年間、馬韓の王統は続いていたと見なければならないが、百済と新羅との国境争いは、この鉄山の争奪戦であった様相が見えてくる。


上記、谷那の鉄山のあった場所。弾琴台土城(だんきんだいどじょう・忠清北道忠州市)

ここは、加耶琴(かやきん)の名手で、加耶から新羅に亡命して国原(こくげん)に安置された于勒(ウロク)が、新羅の真興王12(551)年に召し出されて王の前で演奏したという伝承が残る場所である。この真興王(チヌンワン)は新羅が大発展した時代であり、ここが最後には新羅領になったのである。



(西日本新聞 2011年3月24日 朝刊)


伽耶琴(カヤグム、가야금)伽耶国の嘉実王のもとで楽師・于勒により開発・演奏され、後に伽耶国が新羅に統合されたことに伴い、于勒とその弟子たちによって改良・完成され受け継がれた韓国を代表する絃楽器のひとつである。日本にも奈良時代に新羅から伝わり、新羅琴と呼ばれて貴族の間で演奏されたと言われ、現在も奈良県の正倉院に保存されている。


《伽椰琴/カヤグムの音色を楽しんでください。》 有名な女優・イ・ハニ [女優であるが、国楽を得意とする。2007年 5月29日 、メキシコのメキシコシティで開かれたミス·ユニバース2007大会で4位に上がったし、 2008年の国際美人コンテスト専門のオンライン雑誌「GB」は、「ミスグランドスラム2007」で世界1位美人に選定した。音国楽高等学校 (卒業)
ソウル大学校音楽大学国楽(学士)
ソウル大学大学院国楽(修士)
特技として特技:伽椰琴/カヤグム(伝統弦楽器)、パンソリ(伝統的民俗芸能)、踊り、歌;]

石上神宮の七枝刀(チルジド)の謎
ナナツサヤノタチ 左の剣は、奈良県天理市の石上神宮(いそのかみじんぐう)の神宝剣、百済から贈ら_れた七枝刀(ななつさや‐の‐たち)は古代世界につながっている。

表面四年五月十六日丙午正陽造百練七支刀出辟百兵宜供供侯王永年大吉祥

《表面》泰和4年(369)5月16日の丙午正陽に、くりかえし鍛え抜いた七支刀を造った。おびただしい軍兵をしりぞける
(に足りる霊力をもつ)。これは侯王に供するにふさわしいものである。某々作。

裏面先世以来未有此刀百済王世奇生聖音故為倭王旨造傳示後世

《裏面》先の世以来、かつてこのような刀はなかった。百済王とその世子は、聖音のもとにその生を寄りどころにしている。故に倭王の為に造った。伝えて(後)世に示さんことを。

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■この剣は誰から誰に渡されたのか?

この刀は明治六年(1873)に発見されたとされている。定説では百済の肖古王が372年に倭王に献上したものであるとされるが、ほんとうは近肖古王(在位346-375)である。
日本書紀 神功皇后 摂政52年 
治世51年春3月、百済王はまた久氐氏を遣わして朝貢した。そして皇太后は皇太子と武内宿禰に語って言った。 「わが親交する百済国は天の賜り物です。人為によるものではない。見た事もない珍しい物などを、時をおかずに献上 してくれます。私はこの誠を見て常に喜んで用いている。私と同じように後々までも恩恵を加えるようにお願う。」 この年、千熊長彦を久氏らにつけて百済国に遣わし言った。 「私は神のお示しに従って往き来の道を開いてきた。海の西を平定して(定海西)百済に与えた。いま誼を結んで長く寵賞しよ う。」 これを聞いた百済王父子は共に額を地にすりつけて拝み言った。 「貴い国の大恩は天地より重く、いつの日までも忘れる事はないでしょう。聖王が上においでになり、日月のごとく明か です。今私は下に侍って堅固なことは山岳のようで西蕃となってどこまでも二心を持つ事はないでしょう。」

治世52年秋9月10日、千熊長彦は久氐氏と伴だって百済にやって 来た。そして七支刀一口、七子鏡(ななつこのかがみ)一 面、及び種々の重宝を受け取った。 「我が国の西に河があり水源は谷那(こくな)の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行き着きません。 まさに、この河の水を飲み、この山の鉄を取り、ひたすら聖朝に奉ります。」 そして孫の枕流王に語って言った。 「今、我が通うところの海の東の貴い国は、天の啓かれた国である。だから天恩を垂れて海の西の地を賜った。これに よって国の基は固まった。お前もまた誼を修め、産物を集めて献上する事を絶やさなければ死んでも悔いはない。」 それ以降毎年相次いで朝貢した。ここに谷那の鉄を聖朝(倭国)に奉じると言っているのが、ことさら重要な点である。百済はなぜ谷那(クンナ)の鉄を倭国に供給する約束をしたのだろうか。鉄資源として、谷那(クンナ)の鉄が最良質であることは理由としては当然であるが、この鉄山が目支国(馬韓の辰王の一国)の領地にあったのを、百済・近消古王がが奪ったため、倭国は鉄を絶たれるのを恐れたと考えられる。

①海の西はどこか。海は西海。百済から見ると遼西のことである。今の中国/遼寧省である。定海西を加羅の4国譲渡だと見るのは、日本から見ての話だが、そうではない。
②七支刀は谷那(こくな)の鉄で造られている。
③孫の枕流王(チムニュアン375-385)に語ったとある、当の王は近肖古王(クンチョゴワン)である。第 13代王/近肖古王・第14代/近仇首王・第 15代王/枕流王(チムニュワン)であるので、枕流王の祖父は近肖古王だ。
上記3点から、七支刀を送ってきたのは近肖古王(クンチョゴワン)で、受け取ったのは、書記では神功皇后となる。 日本書紀からはそう見える。
④宮崎市定著「謎の七支刀」では、宋の泰始四年(468年)の解釈をしたが、誰が贈ったのか割り出せば、これは、370年頃としなければならない。

驚くことに、書記によれば、神功皇后が馬韓全域を百済に与えたお礼に、近肖古王とその太子は谷那(クンナ)の鉄山で造った七支刀を贈り、西播となって倭王に忠誠を誓ったと云う内容になる。

*趙(ちょう)は、戦国時代に存在した国(紀元前403年 - 紀元前228年)で、戦国七雄の一つに数えられる。国姓は趙。首府は邯鄲。もともとは、晋の臣下(卿)であった。紀元前228年に秦に滅ぼされた。



■百済系門閥の意地

 百済王が娘を倭王に嫁がせた姫は、「手白髪命・古事記」またの称号は「手白香皇女・書記」、百済の武寧王(ムリョンワン)が「継体天皇」に嫁 がせたのが「手白髪郎女」である。

506年に大連・大伴金村らが越前に赴いて探した応神五世を擁立した。従って、継体天皇は西暦実年で百済記と同じ で、史実として信憑性が高くなる。継体は、ようやく即位19年後の526年、大倭(後の大和国)に都を定めることができたが、その直後に百済から請われて 救援の軍を九州北部に送った。しかし磐井の乱(いわいのらん)、527年(継体21)新羅と結んだ磐井によって九州北部で磐井の乱が勃発した。「手白髪郎 女」(タシラカノイナツメ)、さぞかし心労したことだろう。父の危機を救わんとする心情である。

雄略天皇紀5年条に、「百済の加須利君(蓋鹵王)が雄略天皇に池津姫を嫁がせるも、石川麻呂と不義が発覚して焼き殺される。この失策を挽回しようと、弟の 軍君昆伎王を倭国に人質として潜入させる際、一婦人を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来 たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王である」としている。雄略天皇紀5年は、461年とは正確である。武寧王の生 年は武寧王陵墓誌から462年と判明している。継体天皇6年-7年のいわゆる「任那四県二郡の割譲」は武寧王54歳で領土拡大を実現したことになる。

 そして皇極が倭国の天皇になったということは百済国の担魯が見事に達成されていることにびっくりする。百済系の蘇我氏は一族の姫を代々後宮に入れて虎視 眈々と陰謀をめぐらしていた。推古天皇の跡継ぎに田村皇子にしたまではよかったが、まさか武王が刺客を送ってくるとはおもわなかった。皇極の側近であった カンダルが急速に台頭した。カンダルは中臣鎌足であり、藤原氏の祖である。

埼玉稲荷山古墳」出土鉄剣は百済語


埼玉稲荷山古墳」出土鉄剣

埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣。115文字からなる金象嵌(きんぞうがん)」の銘文が記されていた。
(表文)
>辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意冨比[土危]其児多加利足尼其児名弖巳加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
>(裏文)
>其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉根原也

この剣は、百済で製造され日本に送られてきた品である。

①「斯鬼宮」は漢城のこと。(日本書紀では尉礼城・(百済)の国/磯城嶋金刺宮とは関係がない)」
②辛亥年七月中記乎獲居臣・・・・・辛亥年七月中(西暦471年)余都(文周王)記す
③祖王:上祖名意冨比垝]・・・・・・・・・上祖名はオオヒコ=百済後東扶余初代・尉仇台 男大迹王(おおどのおう)、『古事記』では袁本杼命(おおどのみこと)と記される。
1:其児多加利足尼・・・・・・・・・・・・其の児タカリノスクネ
2:其児名弖巳加利獲居・・・・・・・・・・其の児名はテヨカリワケ
3:其児名多加披次獲居・・・・・・・・・・其の児名はタカヒジノワケ
4:其児名多沙鬼獲居・・・・・・・・・・・其の児名はタサキワケ
5:其児名半弖比・・・・・・・・・・・・・其の児名はハテヒ
6:其児名加差披余・・・・・・・・・・・・其の児名はカサヒヨ
7:其児名乎獲居臣・・・・・・・・・・・・其の児名はオワケノオミ=この刀を作った本人

世々為杖刀人首奉事・・・・・・・・・世々杖刀人の首(おびと)として奉事を為す
来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮・・・・・今に至りて蓋鹵王が斯鬼にある大王の寺(政所)に居られる時

時吾左治天下令・・・・・・・・・・・・・吾天下に(号)令し治むるを左(たす)く時
作此百練利刀・・・・・・・・・・・・・・・此の百練の利刀を作る
記吾奉根原也・・・・・・・・・・・・・・・吾(系譜と事跡の)根原を奉りて記す也

上祖名意冨比垝・・・・・・・・・上祖名はオオヒコ=百済後東扶余初代・尉仇台
獲加多支鹵大王・・・・・・・・・百済代21代蓋鹵王のこと。
乎獲居臣・・・・・・・・・・・・・・・オワケノオミは余都、蓋鹵王崩御の後、王位についた文周王・のこと。

『三国史記』百済本紀』

二十一年,秋九月,麗王巨璉,帥兵三萬,來圍王都漢城,王閉城門,不能出戰,麗人分兵爲四道夾攻,又乘風縱火,焚燒城門,人心危懼,或有欲出降者,王窘不知所圖,領數十騎,出門西走,麗人追而害之

 二十一年(475年)秋九月、(高句)麗王巨璉(長寿王)は三万人の軍隊を率いて、王都の漢城を包囲した。王は城門を閉ざし、(城を出て)戦うことができなかった。高句麗軍は、軍隊を分けて、四つの街道を通って、挟み撃ちにした。また風に乗じて火を放ち、城門を焼いたので、(城内の)人たちはあやぶみ懼れ、あるものは(城を)出て降伏しようとする者もいた。王は追い詰められてどうしてよいかわからず、(ついに、)数十騎を率いて(城)門を出、西方に逃走した。麗軍が(王を)追撃して、これを殺害した。
出典-『三国史記』百済本紀/蓋鹵王21年 井上秀雄訳

*「斯鬼宮」 漢城(ハンソン)百済(BC18年-AD475年)、蓋鹵王が最後をとげた城は漢城だが、風納土城(プンナプトソン)遺跡だということは考古学的裏付けがない。諸説るようだが、漢城がソウルの周辺域にあったことは認められる。
*継体天皇は男大迹王(おおどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(おおどのみこと)と記される。上祖「意冨比垝]・・・・・・・・・上祖名はオオヒコに似てはいるが、開祖にあたる尉仇台のことである。継体天皇は武寧王と同時代であるが、武寧王をモデルにしていたのだろうか?



1873年(明治6年)、熊本県玉名郡和水町(たまなぐんなごみまち)にある江田船山古墳から、全長61メートルの前方後円墳で、横口式家型石棺(せっか ん)が検出され、内部から多数の豪華な副葬品が検出された。この中に全長90.6センチメートルで、茎(なかご)の部分が欠けて短くなっているが、刃渡り 85.3センチメートルの大刀(直刀)があり、その峰に銀象嵌(ぎんぞうがん)の銘文があった。字数は約75字。

治天下獲加多支鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也
すべて百済語で書かれている。中国が名付けた尉仇台は百済では男大迹王(おおどのおおきみ)であった。
<訓読>
天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、八月中、大鉄釜を用い、四尺の廷刀を并わす。八十たび練り、九十たび振つ。三寸上好 の刊刀なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。刀を作る者、名は伊太和、書するのは張安也。

獲加多支鹵大王は百済代21代蓋鹵王のこと。蓋鹵王は諡号であり、諱は慶司である。雄略記では「加須利君(かすりのきみ)である。中国では、斉としている。百済本国では、獲加多支鹵大王と言っていたkとになる。     百済語が消されたいえば、これほど確かな証拠はないわけだ。そうすると、百済で書かれた文書は、みな日本に渡ってきた渡来人が残したものにしか残されていなのだろう。



■文字はどんなものだったのか。辰韓では「無文字、刻木為信」は、文字はなく、木に刻みを入れて通信に使うと書いている。これは、漢字ではなく、楔形文字(くさびがたもじ、せっけいもじ)を使っていたのだろう。そこで、古代ペルシャ楔形文字あろうことが推察できる。これはアルファベット、表音文字である。 ベヒストゥン碑文:FA'>بهستونは、アケメンス朝ペルシャの王ダレイオス一世、自らの即位の経緯とその正当性を主張するレリーフを刻んだ巨大な磨崖碑。イランのケルマーンシャーにある。

■北海道小樽の手宮洞窟の楔形文字
北海道小樽の手宮海岸洞窟の文字様彫刻物は、明治11年榎本武揚によって見写され東京帝国大学に送られた事によって一般の注目を集めた。当時の広島高師の教授で後に大阪外語学校の校長となった中目覚氏は古代トルコ文字と断定し「我は部下を率い、大海を渡り……戦い……此の洞窟に入りたり」と解読した。古代トルコ語と対照解読したようで、これはメソポタミア派生の楔形文字であることには間違いないようである。発見当初の時代のかった学者の判断をそのまま踏襲すると、文字とは見なさないばかりか、その遺跡価値も見通せなくなる。ようするに日本古代に印欧語が入ってきているというバックボーンをもたない限り、不明な絵であると判断してしまうようだ。ただ、碩学の大阪外語学校の校長となった中目覚氏が文字であるとして、解読に成功したことは偉大なことであるが教科書の主流学者からは無視のようである。どうも外国で発表しないと注目もされないらしい。「手宮洞窟保存館」が設立されて修復保存されている。

フゴッペ丸山洞窟の彫刻
1950年余市町の手宮文字発見の場所と程遠からぬ所に、新に約200の文字らしい彫刻が雑然と刻されている洞窟が発見された。人物像のほとんど2本の角をもっている特徴がある。

■ヲシテ文字は縄文時代の文字ではない。

この文字は母音の5つが、気・風・火・水・土の五行の哲学があるとされ、池田満氏が40年かけて研究した実在の文字である。氏の対比対象で古事記と日本書紀の共通の原本であると立証されている。偉大な研究にケチをつけるつもりはないが、古事記と日本書紀が扶余の歴史をたどるものなのだが、気づいていない。古事記と日本書紀などを読んでから作られていると言わざるを得ない。表音文字で五十音の倭語をあてる発音方式だから、揶揄すれば、ハングルのような機械文字である。日本で発見されたことになると古代朝鮮語が日本語と極めて近かったということにもなってくる。なんと、日本語のルーツはますます分からなくなってくる。末子音のないカタカナ表記で読んで、意味が分かるような古代書はほとんど偽作だといえる。契丹古伝などはその典型的な偽書だ。


■殉死制は突然消滅した >辰韓では貴人が死んだとき生口(奴隷)を一緒に葬る殉死という儀式があった。魏志には「女王死し、大いに塚を作る。殉死するもの百余人」とあるのもその内にあるのだろう。殉死が実際にあったことを示す大成洞古墳群は伽耶にある。ここでは、貴族を中央に置き、足元や左右の周囲に奴婢の棺が置いてあった。人骨の保存状態がよく、埋葬の人物像がよくわかる形で考古学価値が高い。が、この殉死が行われなくなったのは、古墳が作られるのと期を一にしているのだが、それは突然起こったと想像されるのである。埴輪に置き換わるのは大きな思想変化があったと見なければならないだろう。それは、4世紀からの仏教の浸透とともに、王が壮麗な墳墓を作ることを禁じ、みずから大墳墓を作るな、と命じた7世紀に至る過程にいたる途上なのだろう。殉死となるのは奴婢であるが、奴隷制の崩壊過程には、死生観の変化を見過ごしてはならない。「あの世でも何不自由ない暮らしをさせたい」「地獄の沙汰も金次第」という旧制が覆り、「いかに正しく徳を積んだか」(八正道)になったがためである。仏教思想は根底的には慈悲、博愛である。奴隷制を根底から揺るがしたのであろう。

■頭蓋骨を扁平にする >新しいヒーローが大蛇をやっつける神話は古事記でもある。また、蛇信仰から来るのではないかと思われる習俗がもう一つある。生まれた子供の頭を扁平にする風習はいったい何だ? 『三国志魏書』弁辰伝 >弁、辰韓合二十四國、大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸。其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之、世世相繼。辰王不得自立為王。土地肥美、宜種五穀及稻、曉蠶桑、作縑布、乘駕牛馬。嫁娶禮俗、男女有別。以大鳥羽送死、其意欲使死者飛揚。國出鐵、韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。俗喜歌舞飲酒。有瑟、其形似筑、彈之亦有音曲。兒生、便以石厭其頭、欲其褊。今辰韓人皆褊頭。男女近倭、亦文身。便歩戰、兵仗與馬韓同。其俗、行者相逢、皆住讓路。弁辰と辰韓の合計二十四国(ただし、上記には辰韓は十一国しか記載がなく、難彌離彌凍国は両者に重複する)、大国は四、五千家、小国は六、七百家、総計は四、五万戸である。その十二国は辰王に属している。辰王は常に馬韓人を用いて擁立することが代々継承されている。辰王は自ら王に立つことはできない。 土地は肥沃で、五穀や稻の栽培に適しており、多くの蚕や桑があり、縑布を作り、牛馬の車に乗る。妻を娶る婚礼あり、男女の別がある。大鳥の羽を死者に送る、その意は死者が天空に飛揚することを望む。国は鉄を産出し、韓、濊、倭など皆、これを採りに来る。諸貨の売買には皆、鉄を用いる。中国で金銭を用いるがごとくである。また二郡で供給する。 風俗は歌舞、飲酒を好む。瑟があり、形は筑に似ており、これを弾く音曲がある。子が生まれると、石に頭を押し付け、扁平にすることを欲する。今、辰韓人は誰もが扁平な頭をしている。男女は倭に近く、全身に刺青もする。歩兵戦に慣れており、兵器は馬韓と同じ。その習俗は、路上で行き交えば、皆、道を譲りあう。

『男女近倭、亦文身』はさらに重要である。男女、つまり、一般人は倭に近く文身(入れ墨)をしているというのである。辰韓にも入れ墨をしている民がいたという一文は大きい。久米連が加羅の武将だが、入れ墨をしていたと古事記にも書かれる。この久米氏が加羅国の武人であったとしても入れ墨をしていたことと矛盾がないのである。 他方、秦の賦役を逃れてきた秦人はこれらの入れ墨の風習はない。秦人と入れ墨をしている種族は異なり、雑居混在していたというのが辰韓の状態だろう。
弁辰の風俗は、すなわち九州(日本)の風俗と同じくすると言っても過言ではない。その中で、「兒生、便以石厭其頭、欲其褊。今辰韓人皆褊頭」とあるのは、いったいどういうことなのか。
■鹿児島の遺跡にあった変形頭蓋

この頭蓋変形(とうがいへんけい)は、赤ん坊のこのまだ接合しきっていない頭に圧力を加えながら育て、その変形状態で接合を起こさせ固定することを意味する。ウィキペディアによると、「日本の弥生時代終末期(3世紀)において限定的ではあるが、確認されている。鹿児島県南種子町所在の史跡「広田遺跡」出土の人骨である。墳丘墓や古墳はなく、海岸砂丘に造られた墓地であり、第一次調査(1957年から59年)では、157体の人骨が確認されている。広田人は、北部九州の弥生人と比較しても低身長であり、男性でも平均154センチ、女性で平均が143センチである(北部九州の弥生人は、男性で平均163センチ、女性で152センチ)。日本全国でも類例がない特異な習俗を有しており、上顎の側切歯を一本だけ抜歯していたり、後頭部が偏平である。いわゆる絶壁頭と呼ばれるものであり、広田遺跡で出土する頭蓋骨の後頭部の全てが扁平であることから、意図的に頭蓋骨を変形させる習俗があったと考えられており、日本列島では広田人以外に例がなく、大きな特徴となっている。」
*ボールドにしてあるのが、縄文人の特徴と考えられている。 >■子が生まれると、石に頭を押し付け、扁平にすることを欲する。今、辰韓人は誰もが扁平な頭をしている。という記録は、異彩をなっている。これは、幼児の頭が柔らかいうちに、頭に石を押しつけて平らにしたということだ。
頭蓋骨を外科手術のようなもので、こうした頭蓋骨を変形さるのは何のためなのかはよく分からない。

■この変形頭蓋ががたくさん出るのがマヤ文明である。マヤ文明は蛇神を仰ぐ。マヤ文明ではヘビ神ククルカンという名で崇拝されていた。アステカ神話の文化神・農耕神、ケツァルウコトルである。マヤの遺跡からはたくさんの頭蓋変形が見つかっている。ヘビに子供を喰われないために子供の頭蓋変形を施したのか、あるいはその逆でヘビに献げるために施したのか判明しない。マヤでは高官、神官の身分のある層ほど頭蓋変形が多いという。であるならば、自分の身がヘビに献じられることが「不死」を得ることができる・・・というような信仰が根底にあったのだろうか。
>
■倭にはへびをトーテムとする古信仰の残滓がある。それは縄文遺跡に色濃いということは言える。古代にヘビの文化を読み取ることができ、かつ、原子レベルの科学、天文知識など高度な文明を築いていた種族であったと推測できる。古代文明から現われるオーパーツの謎は「アンビリーバボー」で終わっていいのだろうか。これがヘビをトーテムとする種族(神々と呼ばれていた)であったのではないか。これらの種族を神話の中で実体的とらまていく、あるいは、古代のバックボーンとして意識に入れて、改めて神話を読み直してみる。すると意外なことが分かってくるだろう。 八岐大蛇の段などは、異種族のスサノオが、なんとへび文化の奴隷たちを解放した話であった、と、リライトすることもできる。また、スサノオが救世主の如く崇拝されたのだろうなど・・・いままでの定見とは少しは違った見方ることができるようになる。参考サイ「蛇の目ってなんぞや

■日ユ(王統)同祖論

ここで、日ユ同祖論は結局なりたつことが分かる。源流、それはペルシャだ。
ここで結論づけた私の日ユ同祖論は、種族が同祖というわけではなく、王(統治者)が同祖だということである。
ダビデ王、始皇帝、キンスロ王がペルシャから派生したという意味で、日ユ王統同祖論と言い換えた方がいいかもしれない。そこでは、それぞれの地域の文化的共通性があるとしても、それぞれの部族固有の土着文化の上に浸透したので、文化、民族自体が同源というわけではないのである。その支配の期間はまちまちであるので、地域間の文化浸透度には温度差がある。さらに、階級の高い階層だけにしか共通性が残らない。

■王の墳墓、埋葬品などに共通性があるかどうか、グローバルな比較考古学が発達するほかないだろう。文化史や神話学がした例は「トロイ遺跡」の発見であろう。比較考古学は文化史も自ずと含まれるはずだ。吉村作治先生は日本のインディージョーンズのようで、非常に好きな学者。ますます活躍を祈りたい。(吉村作治公式サイト)文科省はもっとドリームな企画にも予算をつけろと言いたい。神話にはなにがしかのリアルを含んでいるのである。
身分の高い層の埋葬形式に共通性があっても、民族全体の同一性を意味しないのは当然のことだろう。言語的には、母語は異なるという前提にすると、派生語だけに共通性を見いだすことになる。共通の音韻語が100以上あればかなりの何らかの共通性を思考すべきであろう。

■ソシモリという山

古代大伽耶国の首都である高霊は現在の韓国慶尚北道に位置するが、高霊にはその昔「ソシモリ山」と呼ばれていた。その山が実在した。現在の加耶山である。「牛の頭」の韓国語読みこそ「ソシモリ」だったという説がある。その山が「牛の頭の山」と呼ばれたのは、加耶山麓の白雲里という村の方角から見た時に、山全体が大きな牛が座っている姿に見えたことに由来するらしい。この白雲里には「高天原」という地名があったと言う。これは偶然だろうか? 古代日本の神々は「高天原」にいたと伝えられているのだが、此処こそ古代日本神話の舞台である。糸山半島にも可也山がある。

■アユダ国っていったいどこなの?

インド南東部に位置する、オリッサ州(Orissa)。「Wikipedia」で調べてみると・・・
鉄鉱石を初めクロムや石炭などの鉱物資源が豊富に存在することが判明するやいなや、アルセロール・ミッタルなど大手製鉄企業が進出してきた。

鉱物資源の宝庫なのです。そして、カラ国もその昔はそうでしたよね。

 この地方は古代、カリンガ国があった場所。カリンガ国を「Wikipedia」で調べてみると・・・

カリンガ国は強大な海洋王国であり、スリランカやミャンマー、タイ、ベトナムなどの東南アジアと、海路による交易が盛んであった。スリランカ、ミャンマー、インドネシアには、カリンガ人の集住区も存在していた。マレーシアでは現在でも、インド人のことを「カリング」と呼ぶ。
紀元前二世紀ごろ、クシャーン朝の台頭によりアヨーディヤの上流階級(僧侶や王族たち)が国を逃れ、中国の揚子江流域に移住。けれどもそこから(内乱で?)再び逃れ、揚子江を船で下って海に出て、海流に沿って朝鮮半島(韓半島)に至ったのではないかという仮説がある。

漢陽大 김병모 · 金秉模教授推定経路[<http://blog.daum.net/_blog/BlogTypeView.do?blogid=0Fkmr&articleno=73&categoryId=57&regdt=20091218154921>]


海の回廊渡海説(許黄玉が乗っていた船のバラストだった「婆娑石塔」をみると、相当な大型外洋船である。海の回廊は紀元前にすでに貿易船が盛んに行き交っていた。貨物船で運ぶ方が多量の物資を運べる利点がある。お姫様には夫婦二組の家臣と二十人あまりの召使、錦織や刺繍した布、綾の絹と薄い絹、沢山の服、金銀、宝石、宝飾品、おもちゃなど、数え切れない物産を運ぶには船の方が適している。さらに紀元前モヘンジョダロで方位磁石が発掘されており、羅針盤がすでに使われていた。古代人の海洋渡航能力はこの章の終末を参照してください。

斉明天皇の三年書記には「覩貨邏国の男二人、女四人、筑紫に漂い泊れり」とあり、トカラ国の人間が日本に入国したことが書かれている。紀元前1世紀ごろの西域諸国の一つ。安息国(パルティア)の東側である。現在のトルクメスタン南部とアフガニスタン北部の周辺地域。
*吐火羅(トカラ)国はトハーリスターン=大夏国のことである。中国史書でも吐呼羅国吐火羅国覩貨邏国などと表記された。大夏をトハラと音訳されたことが大きい。この地域はバクトリアとも、トハリスタンとも言われる。武帝(在位:前141~87年)は張騫を使者とした使節団を西域に派遣した。張騫は匈奴に捕われるなどして10年以上かけ、西域の大宛・康居を経て、ようやく大月氏国にたどり着いた。張騫によると、この大月氏国の都は媯水(オクサス川)の北(ソグディアナ)に在り、その川の南にある大夏を役属させていたという。大夏とはおそらくトハラの転写と思われ、トハラ人もしくはトハーリスターン(トハラ人の土地)であると思われる。その大夏の都は藍市城といい、これがバクトラにあたるといわれるが、定かではない。大月氏国に支配され、傍系のクシャーナ朝、エフタル、ササン朝ペルシャに支配された後、バスラの戦い(656年)でイスラム・アラブ支配になった。


紀元前1世紀ごろ
*ペルシアΠερσία Persiaは、現在のイラン>を表す古名。書記では>波斯>(はし)・>波斯国>(はしこく)。波斯と書いてペルシャを意味するのは朝鮮古語である。たとえば、『大食国』とはアラビアのことであるが、朝鮮古語である。日本書紀が百済官人の手になることが明瞭だ。


■そして言語の面から見てみると・・・

カリンガ文字は、ブラーフミー文字から派生したもので、カリンガ国において用いられていた。この文字は、ドラヴィダ語族の言語の一種を表記するために使われていたと考えられ、したがってカリンガ国においては、ドラヴィダ語族の言語の勢力が強かった可能性がある

■フォ・ファンオクが来たというこのアユダ国とは、マウリア王朝時代にガンジス川左岸にあったという。Ayudha Pujaという祭のAyudhaのことだろう。ベンガル海を東に向かい、マレー半島に行きつく航路だ。このフォンオク王姫が海路でインドから釜山近郊の望山島にやってきたのが事実とすれば西暦50年前後のこととなる。この姫はドラヴィダ語の一つを喋っていた。「船に乗って、海をわたってきました」と語っている。インドから船で航海することが紀元一世紀に現実に可能だったのだ。海の道(海のシルクロード)が紀元1世紀ごろには、大量の人と物を移動させることができたという傍証となり、古代における海洋移民が大きく浮かび上がってくる。
こうして加羅の外洋船技術はインド・ベンガル地方からもたらされた。後、遣唐使などに使われた新羅船などの技術はインド渡来技術であった。
紀元前からドラヴィダ(達羅毗荼)はアーリア民族(ヨーロッパ語族)のインド侵入で南インドに押し込められていた。ドラヴィダ種族は独自の文化(ヒンズー教)と言語を有しているアジア種族である。ドラヴィダはケララ州などのアーリアの直接支配の薄い南部の州でドラヴィダ文化が残ったので、マガダ国に滅ぼされアユダ国はインド南部に移動したのではないだろうか。


■加羅国王キム・スロは倭國の王でもあった!

「三国遺事」駕洛国の条
昔その国には9人の族長すなわち干(かん)がいた。国の名も君臣の区別もなく、人々は井を掘って水を飲み、土を耕して住んでいた。ある春の日、亀旨峯(くじぼん)から異常な気が漂うので人々が集まった。突然、天から「新しい国づくりをする。王をその地に降ろす。」というお告げがあった。そして間もなく金の卵が下りてきて、そこから生まれた子の中の一人が金首露王である。『高天原』はペルシャで、天下ったのは、鉄の出る『クジフル』なのだ。古事記の『天の』がつく呼称はすべて加羅のと直訳して問題が無い。

 もともと、住んでいた種族は多部族を襲撃して殺戮や略奪をするようなことはない素朴な農耕民族だった。そこに、天降した建国当事者はインヴェーダーである。[エイリアンたちは数種類存在が確認できる。伽耶国に来たエイリアンは、爬虫類型エイリアン。火を与えた、つまり鉄器を作る鍛冶技術を教えてからは、人類の闘争本能に歯止めが利かなくなったためが、エイリアンは一斉に姿を隠した。人間の姿に近い長頭エイリアン、ギリシャの神々も去った。最近、1947年7月8日、アメリカニューメキシコ州ロズウェルで墜落した円盤およびエイリアンの死体をを回収した。グレイと言う種類だが、特徴的なのは指が3本である。これは、日本の縄文埴輪の指の本数と同じであるので、グレイは本物と言える。]
つまり、天孫降臨といった場合、はっきり言えることは外来者である。なぜなら、加羅王は非常に高度な錬金術や薬学知識を持っている。技術力が桁違いに違うからだ。
 駕洛の建国王金首露は、インドから南海道を渡航し海から上陸したペルシャ系の王族である。
首露王には王妃許との間に2人の王女、10人の王子があったという。この王朝の子供たちは7人は金氏と名乗り、2人は許氏と名乗ることにした。金官金氏は男王の姓、と金官許<フォ>氏は后の姓である。7人は金、2人が許<フォ>と名乗ったことになる。これは中国の姓制とはまったく異なるのも興味深い。

 長男は王位をつぎ、二男は許<フォ>氏の祖となり、三男は予備の王となったが、残り7人は外で自分で国を作れということで、日本に渡った。王の宗族(そうぞく)が治める国邑を「担魯」といい、これは、本家と分家という関係である。本家と分家はもちろん連合をつくるわけだ。加羅語でクンチブというのは、本家、宗家という意味だそうである。分家が外国に領地をつくるばあい、本家はクンナラ(本国)となる。日本に「担魯」を造った王子で、首露王家の分家とし日本に降臨したのは、ニニギノミコトであろう。
「筑紫の日向の高千穂のくじぶる嶺に天下りまさしめき。ここは、韓国に向ひ、笠沙の御崎を真来通りて、朝日のただ刺す国、夕日照る国なり。故、ここはいとよきところ。」(古事記)古事記では、「久士布留岳」である。確か、首露王が降臨したのは「亀旨峰」は、クジボン→クジフルである。

■クジフル岳とは、どこか?
 

金海国立博物館の入口左側から遊歩道があり、散歩で行ける。200M位の登れば頂上である。
キン・スロ王が降臨したとされる山
*亀旨歌(クジガ)と同じ。クジは亀フルは邑で亀邑と訳せる。

 
■『漢委奴国王』と刻文があった福岡市志賀島(しかのしま)の金印 天明四年(1784)二月二十三日,筑前の国那珂郡志賀島の或農民から黒田藩に届け出があった。この農民の名は甚平衛といい、耕していた田畑を耕していたところ大きな石ぶつかった。甚平衛の作人であった英治、喜平の二人が大石を2人がかりで持ち上げるとその下から金印がみつかった。見つかった場所は、地図を参照すると海べりで、海岸からほど近い畑である。甚兵衛の作人であった秀治,喜平の二人が。この農民の名は甚兵衛といい、海べりの耕していた田畑から金の印章を発見した,というものであった。この農民の名は甚兵衛といい、耕していた田畑から金の印章を発見したというものであった。 志賀島の金印とは、一七八四年に福岡県の博多湾に突き出ている志賀島で、島の甚兵衛という農夫によって偶然に発見された「漢・委奴国・王」と書かれた有名な金印である。志賀島は、海族・安曇(あずみ)族の本拠地であった。中国の史書・後漢書『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自橦稱大夫 倭國之極南海也 光武賜以印綬」

印の銘文は「漢委奴国王印」とある。読みとしては「カンヰヌグオ」
「かんの・わのなの・こくおう」は教科書にもある通説。
「かんの・いとこくおう」と開くのは青柳種信の「後漢金印略考」
中国語では奴をトとはよまないので、イヌ国と読むべきである。
伊都国はイトであって、音借文字として委奴は相応しくない。
魏氏倭人伝では単に「奴国」がある。「狗奴国」も同時に表記されている。
では、中国での認識では「奴国」に王がいたというのが前提とすべきだろう。
委とは「如墨委面」の委で、魏になって倭に置き換えられ、「わ」の音になった。
従って、「かんの・わのなの・こくおう」で通説には疑問はないが、
「かんの・なこくの・わおういん」と読むべきである。
なぜなら、中国からすれば、小侯の奴国王を全域の委王として爵するのであって、その支配領域は委国である。
、より正確には「かんのなこくのおういん」だろう。

後漢の光武帝が建武中元2年(AD57年)に奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされる。このAD46年に倭の王はキム・スロ王が立ち、奴国は金官駕洛国に滅ぼされた。
この金印は福岡市の東南にある春日丘陵にあった。熊野神社に王墓の上石と呼ばれる支石墓があり、奴国王墓だったと推定される。鏡・銅剣・銅鐸・銅矛など8本が発見された。奴国は銅を武器としていた。鉄の生産には至っていなかった。加羅国は鉄剣をもって侵略。いわゆる銅の国を鉄の国が制圧したのである。男子は殺戮されたか、奴隷として加羅国に捕らわれた。奴国滅亡前に、金印を奪われまいとして王は金印を逃す算段をした。

なんであれ、金印を乗せた船は 博多湾で難破し志賀島(しかのしま)で座礁、そのまま金印は海の中に落ちたと推理できる。金印公園がある海辺の畑で二人で抱える程の石の下で見つかったのだが、2000年前、当時その場所は海底20mであった。金は比重が重いので砂の下に潜り込んでしまった。実は金印は初めから海中に眠っていたのである。下に、当時の海の状態を示す地図(糸島地方の地形略図)を見れば、すぐに気づくことなのだが、金印の諸説で発見場所が当時海底であったことを指摘した説がないっていうことは不思議に思える。



■金管駕洛国と九州北部の甕棺は同じである。 甕棺墓は朝鮮からの墓制で、青銅器時代の始まりと共に盛んになり、後に朝鮮南部地方で支配的な墓制となる。全羅南道羅州郡(ちょるらなんどらじゅぐん)、嶺安郡、咸平郡、光山郡(りょんあん、はむぴょん、ぐぁんさん)などに多く分布している。日本では福岡県、佐賀県など北九州一帯で数多く見られる。
 とくに「金海(キムヘ)式甕棺墓」と呼ばれる墓制は、朝鮮の「コマ形土器」から変化した「甕」を棺として用いたもので、「金海」に代表される朝鮮西南沿岸地方のものが北九州一帯の墓制のモデルとなった。」
市飯倉遺跡、板付遺跡には、金海貝塚の甕棺出土のものと同じ様式のものとされる細型銅剣、銅鉾、銅戈などの青銅器が副葬されていた。また、佐賀県唐津市宇木汲田遺跡の甕棺からは多鈕細紋鏡(たちゅうさいもんきょう)が出土している。参考になるのは、金海国立博物館には後漢から送られてきた銅鏡が展示されている。

こちらは後漢から贈られた。220年、曹操の子曹丕により、献帝は禅譲を強要されて、後漢は滅びた。したがって、卑弥呼の鏡よりも少なくても20年以上古い。

卑弥呼に下賜された銅鏡は100枚だが、それをはるかに超える数の三角縁神獣鏡が出土している。弥生中期から銅の精錬、その成形する鋳型などがあったので、複製することはいともたやすくできたのだ。

 日本の甕棺墓は、構造や埋葬方法が朝鮮のものと同じで、そこに副葬される細形銅剣や多鈕細文鏡をはじめとする青銅器類も朝鮮固有の系譜を引くものである。」引用文献  権 仁燮著 朴 鐘鳴監修『朝鮮と日本の関係史 善隣と友好の歴史』

*上記の一説で、甕棺墓がコマ形土器の変種であるというのは疑問。甕棺は銅の精錬技術があれば可能だった。が、須恵器となるとより高加熱であるので、鉄器の生産技術があった駕洛こそが原発点であろう。駕洛国王金首露をモンゴル系騎馬民族としか見ないのは間違いである。また、新羅の金細工加工はスキタイ人の技術を継承している。伽耶で発見された人骨は半数が南方系であり、倭人と見なければならないところがある。甕棺墓は金海を真似たのではなく、伽耶に居住していた倭人の墓制そのものだったのである。前原市大字志登の志登支石墓群では、志登支石墓群では、支石墓10基、甕棺墓8基が発見されている。支石墓は朝鮮半島南部の全羅南道、慶尚南道に集中している。福岡県前原市の伊都歴史資料館に行くといい。糸山半島は伊都国と比定できるが、糸山半島全域から見える可也山は糸島半島の西にあり、。「糸島富士」「筑紫富士」「小富士」とも呼ばれている。標高365mの小富士はカヤサンである。この「可也山」とは「伽耶山」の変体文字であろう。

*九州の甕棺について
九州の甘木歴史資料館に行ってみると、この甕棺とその出土した遺跡が分類され、細かく展示されている。朝倉市には平塚川添遺跡は弥生中期から古墳時代までの環濠集落がある。縄文時代の遺跡は弥生時代の遺跡よりも50メートルから100メートル高い山の中腹に位置していることから、時代とともに川の水位も下に下に下がっていることが分かる。いまから、8400年前、海面は130m突然上昇した。それまで農耕は発展し、それに伴い人口は増大していた。鉄器も製造されていた。いったい何が起きたかは分からないが各部族はおよそ移動は1000年間にわたり断続的に続いた。神話とは、この8400年以前の人類の記憶をまとめた伝承である。
こうした地球的規模の大変動の影響が縄文遺跡と弥生遺跡の高度差だ。海面の変化はおよそ100mである。


古代は現代より川の上流まで海が入り込んでいた。志登は港であった。朝鮮式山城は逃げ込んで防御するという目的で造られるので、高須山か王丸山が地勢としては有力地となろう。

こうして、8400年前に海が130メートル上昇し、2000年前、海の水位は30メートルぐらい下がったものの、鉄器時代は依然として現代より100メートルは海が高い。川沿いに九州の内陸まで入り江が奥深く侵入していたことを示す。糸島半島は島であって、博多湾と唐津湾は海でつながっていた。地質学では、これを糸島水道といい、海峡であったようである。すると、五島列島から黒潮にのって、唐津湾から糸島海峡を通過して博多湾に行く方が安全な航路となる。雷山川の河口が堆積によって糸島水道がふさがれたと推測されるが、前原が博多へ行くハブ港だったと考えると加也山が指標となったろう。現在の地図より、海岸線を内陸部に委縮させてみないといけない。
九州歴史資料館(大宰府 九州博物館を坂道を徒歩で下ると立派な建物がある。)などでも、甕棺が弥生期の埋葬遺物であることを目にすることができる。この甕棺は人体を屈折させて、足から先に納棺するがかなり大きい。すでに素焼きなみの高火力を持っていたのであるが、先のインダス文明における甕棺も同様な火力を持っていたのだろう。それは、1060度だ。

*伽耶六国 
・①金官伽耶国>
・②阿戸羅伽耶<安羅伽耶>
・③大伽耶
・④小伽耶
・⑤星山伽耶
・⑥古寧伽耶洛国

* 六国制は九部族長制を排し、キム・スロ王が新設した。
国邑(クグプ)・・・狗耶国の中心集落
*涜盧(トンノ)・・・弁韓(ピョナン)12国の1つ。現在の釜山(プサン)の東【草冠に來】(トンネ)=金官伽耶国の前称=日本や中国とも交易した海洋貿易国家
*浦国 金海から西60kmの現在の馬山に伽倻連盟の中で浦上八国の一つ。第10代奈解尼師今(ネヘ・イグサム)の14年(209年)に、浦上八国(慶尚南道南西域の伽耶諸国)に攻め込まれた加羅(金官伽耶を指すと考えられる)が新羅に対して救援を求めてきた。新羅の介入で収まったが浦上八国の乱という。
*弥烏邪馬(ミオヤマ)国・・・弁韓(ピョナン)12国の1つ 現在の高霊(コリョン)=大伽耶=意富伽耶
*安邪国=安良國=安羅伽耶(交通の要衝地であることを利用して、洛東江の西部及び海岸地域の中心勢力に成長/日本府があった地域)

*日本書記 欽明23年正月記では任那が新羅に滅ぼされたと記す。任那には加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・卒麻国・古嵯国・子他国・散半下国・乞湌国、稔礼国の計10国があったと記す。

日本書紀 神功皇后49年では、比自ホ(ひしほ)・南加羅・喙国(とくのくに)・安羅(あら)・卓淳(とくじゅん)・多羅(たら)・加羅の7国を平定したとある。 卓淳(とくじゅん)は今の大邱(テグ)の古地名である。大霊の大伽耶に近いので、卓淳(とくじゅん)は大伽耶の東側に隣接する新羅領とみるべきだろう。さらに、比利(ひり)・ 辟中(へちゅう)・ 布弥支(ほむき)・ 半古(はんこ)の西側4国が降伏し、百済王は大いに喜んで、自らを西蕃とし日本に朝貢することを誓ったと記す。

多羅国(たら)は朝鮮慶尚南道陜川の地とされる。安羅伽耶であろう。任那では、最後まで残った国の一つである。

*『三国志魏書』弁辰伝では12カ国と記録する (辰韓の族長時代は)已柢国、不斯国、勤耆国、難彌離彌凍国、冉奚国、軍彌国(弁軍彌国)、如湛国、戸路国(瀆盧)、州鮮国(馬延国)、斯盧国、優由国:
*弁韓(ピョナン)・・・朝鮮半島南部の12国の部族国家の総称 *注:斯盧国は300年後に新羅となる)この辰韓時代には、斯盧国・新盧国で、他の諸国ともに、百済王を王としてた。斯盧国・新盧国は後の新羅に拡大する。辰韓のうち、10部族は加羅国に終結するが、斯盧国・新盧国は、後の新羅の前身で小国の一つであったが、王が漢人で加羅とは一線を画してした国である。

*『三国志魏書の東夷伝 辰韓』樊濊、次に殺奚あり、次に邑借あり。已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁(辰)樂奴國、軍彌國、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戸路國、州鮮國(馬延國)、弁辰狗邪國、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國(馬延國)、弁辰瀆盧國、斯盧國、優由國あり。合わせて二十四國
弁辰を冠する国名が12国ある。この12国が加羅国に連合された。弁辰=倭人の国。
加羅王が立って、6国のなかの金官伽耶国は、弁辰瀆盧國が改称したものである。



■任那加羅国は半分は倭人であり、倭人邑があった。

 『其名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓』  要約:そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、 これを秦韓とも呼んでいる。
 ところで、中国は、加羅国(朝鮮南部)を倭と見ていた。また、安羅伽耶には日本府(やまとのみこともち)があった。加羅国はAD562年に新羅が併合したとき、滅亡し、大半の加羅人が日本に亡命したと言われている。
しかし、加羅滅亡といっても、金官伽耶の王族の多くは新羅の金城に連れ去られた。新羅王家である慶州金氏と区別して金官伽耶国の金氏は金海金氏と呼ばれる。新羅王家は金官王家を貴族として待遇し、寛大な優遇策を取った。金海金氏は現在、韓国最大の本貫(氏族集団)となっている。これが新羅の策略だとする百済の主張はもっともである。鉄の生産、交易権を手中にすれば、新羅が強大となり脅威になることが予想できたからである。金官駕洛国を復興しようという欽明天皇が百済と同盟したが、宗家が新羅の手の内にあるので、欽明・舒明天皇は宗家のいる新羅にお伺いをしなければならないジレンマが生じた。日本の天皇は新羅を武力制圧することに躊躇した。こうして、はっきりとした態度が取れないうちに、新羅の国力が増大してしまった。こうして、日本に天皇、欽明の加羅国再興の念願も単純には行かなかった。


■『三国志魏書 東夷伝』の弁韓・辰韓は日本列島の倭人部族国家を指す。
 弁辰条に『國出鐵韓濊倭皆從取之』では、弁韓には鉄がでているが、韓、濊、倭は鉄をに取りに行っていたと、読めるのである。辰=金(cim)と読み替えることができる。王は弁韓(慶尚 南道金海市)におり、そこは鉄を生産している拠点である。日本列島にいる倭人はここから鉄を運んできていた。

■辰韓も12カ国の部族国家からなっていた。その中の一国、斯盧国(サロ)が、漢人の王を立てて先に分離対立したのち、鉄の高炉を手にしてから周辺部族国を制覇して、AD356に新羅(しらぎ・シルラ)になった。新羅建国は356年なので、地政学的に辰韓と新羅は一致する。今の慶州市に王宮があった。




■アマテラスも鉄を金官伽耶からとりよせていた!

日本列島はAD6世紀まで伽耶国に鉄を依存しており、列島では鍛錬遺跡はあっても、製錬高炉はなかった。このことを前提にして次の古事記の表記を解釈する。
古事記の天の石屋戸(いはやと)の段では、『天の石屋戸』『天の安川』『天の堅石』『天の鐵(マガネ)』『天の金山』『天の香山』『天の朱櫻(ハハカ)』と天(あま)の文字がたくさん連続して出てくる。

天の石屋戸=加羅の洞窟(紫水晶洞窟か?)
天の安川=洛東江(慶州南道の最長の川)
天の堅石=加羅の鉄鋌《あらがね》(鉄の延べ棒、短冊形の鉄素材)
天の鐵=加羅の鉄(鉄がキーワードとなる)
天の金山=加羅の鉱山(洛東江の東にある勿禁邑《ムルクムップ》鉱山・磁鉄鉱鉱山か?)
天の香山=加羅の伽耶山
天の波波迦=加羅のヘビ矢
以上、石屋戸は日本ではなかったことになる。神代の話はすべて韓土の神話であるとすれば、天照大神もまた日本に居なかった。びっくり!

■「弥生時代鉄器出土地地名表」 鉄器の出てくる遺跡の回廊の終点、朝倉郡甘木にあった。なにしろ7万戸ある大集落があり、群を抜く鉄の消費地であったのだ。人口にすると100万人になる。(一戸15人に数える)ここが軍事拠点であれば鉄剣や矢じり、農耕具を作っている。鍛冶場に鉄という原料を供給していたのは、伽耶国である。鉄の延び棒は、貨幣としても使われていたらしいが、鉄の塊を叩いては焼き入れして刀剣をつくっていたのである。鉄の回廊が甘木市を終点にしている。古代アジア最大の人口をもつ最強の国だったろう。


「国立金海博物館 展示物」 伽耶の鉄鋋(てっせん)、金と同じぐらい価値があったらしい。天の堅石=加羅の鉄鋌《あらがね》とは、まさしくこれであろう。(鉄の延べ棒、短冊形の鉄素材)

■『後漢書』辰韓伝では加羅国の民の言語は変わっていたことを記す。

『其名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓』
要約:辰韓(慶尚地帯)を秦韓と呼ぶのにはわけがある。人々が弓を弧、賊を冠、酒を行を酒を觴、人々は互いに徒と呼び合っている。これらの言葉は秦に似ている。
要約⇒『馬韓・高句麗とは異なった会話をしている。あたかも秦人のように発音するので辰韓を秦韓とも呼んでいるのである。』 

 以上まとめると、辰韓を秦韓とも言う訳は秦の言語を使っているからだという。弁辰(弁韓/辰韓)は扶余出の高句麗と百済とは違うである。「弁辰は辰韓と雜居し」とあるので、行ったり来たり往来していているのである。そこで、結論としては、倭人と秦人が雑居していたということなのである。そこで、倭人と秦人は区別無く「倭人」として称されたのである。では、秦人とは、始皇帝と同族の民であり、もともとイランの方から来た民である。風俗習慣が馬韓(扶余族=いわゆる北方モンゴル人)とは違い、言語も異なっていたのである。その言語とは大和言葉としてピジン化したということなる。ここに、倭人のルーツの一つが秦、ペルシャ系の民族であり、他方は入れ墨をしている海人民族(安曇など)ということで、混血民族化したのである。そこで、伽耶国は滅亡したが、加羅王族はそっくり日本列島に引っ越してしまったので、辰韓の言語および風俗習慣は日本列島だけに残されることになった。韓土には倭人文化は遺跡でしか残されていない。そこで、日本に文化的に秦の前身である古代ペルシャの影響が色濃く残っているとしても不思議ではない。駕洛国は金スロが王位についたときにつけられた国名である。とすれば、金スロが王位につく、それ以前から鉄の製造は行われていたのであって、金スロが鉄の製造法を伝授したのではないということを知らなくてはならない。

■加羅国と百済は人種が異なっていたという事実

『弁辰合二十四國、大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸。其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之、世世相繼。辰王不得自立爲王。』
以下背景を理解した上で、要約する。
弁辰と辰韓は併せて24カ国になり、そのうち大きい国は4000~5000戸、小さい国は600~700戸である。全部合わせると40000戸~50000戸である。辰韓(金官加羅国)の王は慶尚南道金海市に宮を置き、 いつも馬韓人(朝鮮扶余族)を奴隷とし、使役につかっている。王の地位は代々世襲しており、誰でも自ら望んで王位につくことはできない。この辰韓の一小国であった斯盧(しろ・サロ)国が、新羅(しらぎ・シルラ)に名を代えて発展していった。

■『三国史記』新羅本紀で倭人の侵犯は辰韓と弁辰の連合国だったから倭人と書いた。
  
倭の襲来は287年、289年、292年、294年、295年と頻繁にあった。これらの攻撃は水陸から実行されたが百済に駐留していた倭軍がしかけたのである。この説はおおかたの韓国でも通説になってきつつある。
年; 月;  記述内容;
 287年  4月 倭人襲一礼部縦火焼之 
 287年
 5月 聞倭兵至
 292年  6月 倭兵攻陷沙道城
 294年  夏 倭兵来攻長峰城
 295年  春 倭人犯我城邑
285年、慕容廆(ぼようかい)によって扶余(西百済)は全軍が撃破される。
286年武帝、詔を発して扶余を復興。扶余の生口(奴隷)の売買を禁じる。
304百済・汾西王(298-304)が楽浪太守の刺客に殺される。
年表の時代は百済の動乱期だったのですね。遼西に百済は消耗戦を強いられているのです。



百済にある前方後円墳。日本の倭軍駐屯地と一致する。
とすれば、倭人は百済から新羅襲撃をしかけたと考えるのが矛盾がない。
実は韓国では前方後円墳が見つかった時点で
「前方後円墳の起源は朝鮮、日本に教えてやったのは朝鮮」
としたかったようだ。
前方後円墳というのは日本独自の形と言われてきたからだ。
ところが調査するうちに日本より新しく5~6世紀に作られていて、しかも日本人の墳墓らしい、と。
これはつまり、朝鮮を日本人が支配していたということの証明になりかねない。
墳墓というのはその地の支配者しか作れませんからね。あわててブルトーザーで壊してしまう有り様。違いが一目でわかる軍装だったのだろう。倭人、倭兵の襲来と書く。

ここで言えることは百済は倭に自国防衛を要請していたのだろう。
松鶴洞1号墳は対新羅最前線基地だったろう。
韓国ではドグマが歴史を歪めている。それは・・・

日本列島を土人の国として下目線で見るドグマがこれである。

■任那(みまな)という意味はドラヴィダ語では宗主国になるという。

 王がいる金官伽耶を任那とし、ほかに5つの伽耶国に主を置き、6国の総称として大駕洛国または伽耶国と称している。倭の宗主国は任那であり、そこではドラヴィダ語が公用語だった。倭王は倭地内のそれぞれの小国家の王のことを言う。倭国王は国邑群の王とは異なり、すべての国邑群を統括する王である。倭国王と倭王が違うことを踏まえると面白いことが見えてくる。紀元6世紀まで列島には倭王はいても、倭国王はいなかったのである。
古事記には「大倭豊秋津島」(おおやまととよあきつしま)とある、この地図上の領域は、韓半島と日本列島を含んだ広域の概念である。組み合わせないとトンボの形にはならないからだ。倭地という地政学上の領域は、大倭豊秋津島に一致し、日本列島だけではなく、任那加羅を一体と見なければならない。そこで言えることは、倭国の底層的言語がドラヴィダ語であったというのは、加羅語が支配的言語だったというこで、これにはインド人もびっくりである。ここに、倭人という基底的な民族は、おもわぬ様相を帯びてくる。
古事記には「大倭豊秋津島」(おおやまととよあきつしま)とある、この地図上の領域は、韓半島と日本列島を含んだ広域の概念である。組み合わせないとトンボの形にはならないからだ。倭地という地政学上の領域は、大倭豊秋津島に一致し、日本列島だけではなく、任那加羅を一体と見なければならない。そこで言えることは、倭国の底層的言語がドラヴィダ語であったというのは、加羅語が支配的言語だったというこで、これにはインド人もびっくりである。ここに、倭人という基底的な民族は、おもわぬ様相を帯びてくる。<br>

 書記の推古天皇条では「任那は小さい國なれども、天皇の附庸なり。なんぞ新羅にたやすく有むや。常の随に内宮家(うちつみやけ)と定め、願わくは煩ふことなけむ。」とあり、任那は天皇の内宮家であるとしている。書記の孝徳天皇条でも、「始め我が遠皇祖の世に、百済の國を以て、内宮家としたまふこと、光絞の綱の如し」とあり、遠皇祖とは金首露であろう。金首露が王となった後も、任那の地域の王は百済王であった。つまり、日本と任那と百済は三本の綱のように結びついた関係であるから、新羅が簡単に任那を滅ぼすわけにはいかないだろうと言うのだ。継体天皇の時、伽耶国のうち、4県を百済に割譲した。欽明天皇の世になって割譲を許した大友大連金村はとても悔やんで、病に伏した。天皇はこれを罰せず、金村をねぎらった。そして、「速やかに任那を建てむぞ」と百済の聖王(523~554)に割譲した4県を任那に返すように交渉したが、失敗に終わった。「新羅が任那を滅ぼそうとしている。任那が滅んでしまったらどうしようもないだろう。今は、兵を蓄えて、力を合わせて新羅と戦おう。「任那の國と我が百済と、古よりこのかた、子とも弟ともあらむことを約(むす)べり。」と、同盟関係を強調した。任那日本府(は安羅国内にあった。天皇は津守連(つもりむらじ)を派遣したが、言葉が訛っていてよく通じなかったとか、百済が日本府(やまとみこともち)の執事(つかさ)と任那の執事を呼んだところ、より身分の低い官を送る失態をしたとか、日本府の臣が新羅を撃ったが、いままた、百済を撃とうと謀っていると疑いをもたれたり、さんざんな様で、聖王が正しいと書いている。書記の記述者が百済文人であるのでこのへんは眉唾である。なんであれ、継体天皇から欽明天皇までの天皇の王家は加羅国なのである。日本書紀によると、加羅国第10代仇衡王(きゅうこうおう)は529年4月来日したことが書かれている。加羅滅亡の3年ほど前である。この時は継体天皇23年であるが、欽明即位は531年(百済本記)とされる。仇衡王が渡来してそのまま天皇に即位したと思われる。任那から列島に(倭国)王が移ったのである。この時、多数の加羅国倭人が列島に移住したのである。主に、丹波に集中した。


■万葉集巻一第二歌は加羅国を忍んで歌われた

高市岡本宮御宇天皇代 [息長足日廣額天皇]
天皇登香具山望國之時御製歌
山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜A國曽 蜻嶋 八間跡能國者

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島大和の国は

欽明天皇の次の代、舒明天皇が歌ったとされる。天の香具山(金海のクジフル)に登って、そこから眺めた景色である。「国原は 煙立ちたつ 海原は鴎立ちたつ」は、鉄高炉の煙が立ち上り、洛陽江干潟にはカモメが飛んでいる。(渡り鳥で有名な洛陽江干潟:金海空港からタクシーで20分)といった情景なのである。蜻蛉とは大倭秋津島と同じであるが、どうやら日本列島の外瀆だったようだ。



       

欽明天皇陵(在位は、531年~571年)に隣接する吉備姫皇女王墓に4体の猿石左から順「女」「山王権現」「僧」「男」と呼ばれている。

■欽明天皇が即位前に「父が熱愛していた伽耶」といったり、詔のなかで新羅を「君父の仇」と呼んだり、遺言で「新羅からの任那の奪還」といったりしている。欽明天皇は、即位前から死ぬまで百済が伽耶を取り戻すことを願っていた。 欽明の倭風諡号は「天国排開広庭天皇」(あまのくにおしひらきひろにわすめらみこと)で、新王朝を開いたとも受け止められる称号である。>父=継体天皇 母=手白香皇女(たしらかのひめみこ)で、加羅宗主国が新羅に滅ぼされたのち大和に移動、天皇に即位したのであろう。

欽明天皇は571年に亡くなり、欽明の皇子たちは、敏達天皇(30代)、 用明天皇(31代)、推古女帝(33代)、崇峻天皇(32)と次々と天皇になる。厩戸皇子(聖徳太子)のように欽明の遺言どおり、新羅討伐のため再三兵を九州に集結させ、伽耶の復活を図ろうとした。

吉備姫皇女は蘇我氏が嫁がせた蘇我堅塩姫と欽明天皇の娘で、皇極天皇、孝徳天皇の母、天智・天武天皇の祖母である。稲目は、蘇我小姉君も欽明天皇の側室に入れた。皇子や皇女を産ませて、朝廷の屯倉開発にも携わり、渡来してきた賢人たちをも自分の派閥に組み入れ、蘇我氏権力を確固たるものにした。彼の死後、後を継いで大臣となったのが、息子の馬子。吉備姫皇女王墓に4体置かれているが、もともとは欽明天皇陵にあったものだろう。それが、田んぼにうち捨てられたのは蘇我氏のしわざであろう。加羅系のにおいがする石物は、蘇我氏に消されたのだ。

■継体天皇は百済王族

 欽明天皇が百済王族なら、その父継体天皇は?という疑問がでるだろう。継体天皇は後の百済の武寧王の弟である。武寧王は日本にいた時「斯麻」という字名だった。王墓の碑(忠清南道光州市・熊津)には「寧頭大将軍百済斯麻王」と記されることも傍証となる。日本には百済から人質として来たというのが大方の見方だが、和歌山県隅田八幡神社の国宝「人物画像鏡」の銘文では、「男弟王が意紫沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて・・・・中略・・・・白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る」とある。意紫沙加の宮は忍坂宮に開くことができ、宮にいた男弟王とは継体天皇である。明らかになるのは、継体天皇の兄は斯麻であり、百済に行って武寧王になっているということである。武寧王の娘が「手白髪郎女(てしらかみのいなつめ)」であり、古事記では継体天皇の后で、欽明天皇の母として収まっている。欽明が継体40歳に生まれた子である。つまり、娘ほどの年の差があった。父・継体天皇と欽明天皇はは伽耶王族である。


■鉄は古墳時代前期の方が優秀だったという事実

 日本では6世紀半ばから全国的に製鉄が盛んになった。(清水欣吾「古代技術の復権」小学館参照。)大規模製錬の遺構が炉の跡がはっきり分かり、製錬滓(せいれんかす)もたくさん出る遺構が出てくるのが6世紀になってからだ。弥生期の鉄くずはみな小さく、リモナイト(赤土)から取り出したものである。6~7世紀まで鉄は加羅国に頼っていた。加羅国も倭国であったから、加羅国で生産したものは国内産である。これは輸入したとは言えないのである。しかし、加羅国が532年に滅亡すると鍛冶職人はどっと列島に亡命したと考えられる。扶余族は戦に勝つと敗戦国の金品略奪を欲しいままにするので、奴隷になるより同じ倭地に国内移動するほうがずっとよい選択だったからだ。
渡来人にはもちろん主力の鍛冶職人が多数いたのであろう。日本で鉄の生産が大規模になったのは6世紀半ばだというのは、こうしてうなずけるのである。鍛冶職人が集結したのが丹波である。ところが、Feの含有率が高い良質の赤鉄鉱が日本にはなく、鉱石を加羅から持ち込んでいるうちは高純度の鉄が生産できたが、それが尽きると砂鉄を利用したタタラ吹き製鉄を用いることとなった。6世紀中ごろ以後、おしなべて鉄の不純物が増えたのは加羅産から日本産になったということだ。(鉄の品質が落ちたということではない)
*仇衡王 父は鉗知王、母は淑・王妃は金桂花、息子に金奴宗、金武德、金武力がいる。

■畿内の製鉄遺跡と九州の製鉄

 京都府竹野郡弥生町・丹後半島にある遠所遺跡(えんじょいせき)は6世紀後半に始まる製鉄遺跡と推定されている。製鉄炉としては最古級であるが、原料から生産まで一貫した「たたら工房」が見つかっている。鍛冶遺跡もある古代製鉄コンビナートであった。窯跡は8基ほど横並びに整列しており、量産効率を高めるノウハウが見て取れる。原料の砂鉄は出雲から海路で運ばれている。鉄含有量が最も多い砂鉄は出雲産だからで、地元の砂鉄とははっきり違う。この地方の蜂山町扇谷遺跡からも鍛冶滓がでており、始まりは5世紀末に遡れる。製鉄が王権と密接なのは金管伽耶に見るまでもなくこの製鉄所を直轄するのは王である。鉄は金と同等の価値をもち、任那では貨幣として使用していた。それは財政基盤となっていることを意味する。鍛冶集団が渡来した経緯は、応神紀に韓鍛(からかね)その名を卓素という者が来朝したことと、敏達(583)では、新羅より鍛冶工を招聘したある。
卓素は今の糸島市・旧前原あたりに定住した。雷山川の河口である。福岡市西区の元岡遺跡が28基の製鉄炉が並列した製鉄コンビナートである。用いた砂鉄は大原海岸で採掘した。とまって考えるに砂鉄を利用している製鉄法は7世紀に伽耶からの鉄せんが途絶えた後から生まれた技法で、伽耶の鉄鋋(てっせん)を溶解する鋳型式工程では箱型炉が先にあっただろう。後漢書弁辰伝が伝えるように1世紀から韓・濊・倭はこぞって弁辰の鉄を買っていたのである。卓素がこの糸島の志登周辺で製鉄を始めたのは、ここが天然の港で伽耶の鉄鋋を陸揚げするのに適していたからだろう。また、砂鉄であっても、大原海岸の砂鉄を船で今津湾を登って着けることができる。糸島地方の図と弥生時代鉄器出土地地名表を対照すれば、およそこの5章の志登神社と高祖神社の大きさが見えてくる。応神が渡海して到着したのがここだからである。

欽明の倭風諡号は「天国排開広庭天皇」(あまのくにおしひらきひろにわすめらみこと)で、>新王朝を開いたとも受け止められる称号である

山王権現
欽明天皇陵に隣接する吉備姫皇女王墓に4体の猿石がある。奈良県高市郡明日香村の梅山古墳(現:欽明天皇陵指定)西に隣接する吉備姫皇女王墓内にある奇石である。「女」「山王権現」「僧」「男」と呼ばれる、3つは後ろに天邪鬼の様な顔があり、「鬼石」とも言われる。定かではないが、猿石は元禄15年(1702年)に、梅山塚(現在の欽明天皇陵)の南側の田圃より掘り出されたという。622(推古30)年、明日香の動乱の結果、様々な巨石が投げ捨てられたとようだ。加羅系渡来族ーインドペルシャ系の遺跡群が破壊されたのは、なんらかの政変があったのだろう。山王権現はペニスが浮き彫りされており、石人像とはあきらかに異なり、道祖神の石神信仰にもつながる。


奈良県明日香村からハイキングルートで約2時間、高取城跡の二ノ門手前にある猿石。欽明天皇陵から運ばれた一体であるとも、石垣にするため明日香村のから運ばれてきたとも伝えられている。

益田の岩船

高取城跡にはこんなへんな大石がある。奈良県橿原市の橿原ニュータウン内、白橿南小学校の西の丘陵(岩船山)の頂上付近にある益田の岩船が壊されて、ここに運ばれたものだろうか。これほどの巨石を3D加工する技術もさることながら、ここに運んだことも驚きである。はいずれも蘇我氏がやった仕業だろうか。仏教派がこれらの巨石の背後にあるインド・ペルシャゾロアスター教色を忌み嫌ったからだろうと推察する。

酒船石 これを作っていた皇極天皇を百済人が凶人呼ばわりしていた。蘇我氏が邪教の祭器だとして、移動してしまったのであろう。


■猿石のルーツはハヌマン?
ヒンドゥーのハヌマン神
>ハヌマンはラーマーヤナ叙事詩のなかに登場するラーマの忠義な家来。空を飛び、無双の怪力を持つ猿神。ラーマ王子を助け、魔神と戦う正義の戦士である。インドでは別名バラジとも呼ばれ、厄除けの効力が強く、知らないうちにかけられてしまった呪いを解く効力があるともされている。

人気のあるハヌマン。タイラコーンのハヌマン衣裳(右)ラーマの妻シータ(左)

*阿踰陀国 AYUDHYAはカルカッタの北西部にあったという説がある。飛鳥にもある「猿石」は、なんと猿王ハヌマンの象徴だった。猿石の謎が解けたようだ。飛鳥の亀石もアユダ国に由来があるのだろう。ところで、Ayudhaの音からは、Ayudha Pujaはヒンドゥ教の伝統的な祭り(ドゥルガ・プジャとも呼ばれる)が連想される。このAyudhaは武器と言う意味で、インドの古典『バカバッド・ギーター』に出てくる勇者アルジュナが隠されたドゥルガの武器を見つけた吉祥にあやかることから起きた。最強の悪魔を倒した最終兵器女神ドゥルガに感謝をささげる。今日ではAyudha Pujaの日は家の玄関にスイカを半分に割ったものをおいたり、車、バイク、農具、扉、パソコン、身の回りのありとあらゆる道具に顔料を付け、線香の煙、炎で炙られ、祈りが捧げられる。
普段使用しているあらゆる道具に感謝する。人々は夜、手にスティックをもって、ダンスを踊る。一つの輪にではなく、数人ごとに輪を作って踊るが、、日本の盆踊りに似ている。カルナタカ州、アーンドラプラデーシュ州、ケララ州、タミルナードゥ州の南インドで10月に広く行われる。

*補足 プージャはヒンディー語で神の意味。When is Ayudha Puja 2012 Date – Well, Ayudha Pooja in 2012 will be celebrated on Tuesday, 23rd of October.
*「Ayudha Pooja」で検索すると、たくさんの動画(YouTube)が見ることができる。

■蛇神のルーツ

 蛇が神として崇められたのは、インドである。インドにはアーリア民族の侵入いぜんメソポタミヤ系やオーストラリア系など無数の先住民族がいた。サングオに描かれる両肩から出ているのはコブラである。この王はアラブ人だったと言われる。この王族はエジプトのコブラを崇拝していた可能性が高い。これらの古代インドはアーリア人以前の時代である。紀元前8000年以前、そこにはアーリア人がもたらしたヴェーダなどはまだなかったわけで、もちろんヒンディー語ではなかった。アーリア人がインドに武力をもって侵入し、先住民を支配した。アーリア人は先住民を「黒い肌の者」とし下層階級とした。カースト制度はバルナといい、本来「色」という意味だという。およそ、紀元前900年まえにヴェーダが大成されたとするので、先住民族の文化はかなり破壊されたと思われる。

 大野晋著「弥生文明と南インド」岩波書店2004年刊参照 弥生時代の北九州の土器の表面に付けられている記号文 (Graffiti) に、何百という全く同形の記号が共通に存在する。BC1000年。すでにペルシャ・インドアーリア文明が転移していないだろうか。

大きな意味で、樹木崇拝、蛇神信仰、牛の崇拝、性器崇拝(男根石)、女神信仰などで、これらは考古学が判断したものであって、日本と共通のものがあれば文明転移が証明できるはずである。


縄文
期の棒. 住所, :長野県佐久穂町


諏訪 ミシャグヂ神を表す男根石


大分県国東 伊美別神社



ミーソン遺跡๘ヒンドゥ~教の寺院跡のシヴァリンガ

下の台座は子宮。この子宮は日本の前方後円墳の形とよく似ている。
リンガの形状はヒンドゥー教シヴァの寺院で崇拝されるシヴァ神が性交している象徴である。(女性器を内側から見た状態)。インド人の象徴のなかに亀の上に象が乗りその周りを蛇が囲っているというものがある、インドヒンドゥー教のリンガの思想は 上記環状列石の思想をよく表している思想と思える。
 シヴァ神は破壊を司る神だが、リンガとヨーニに表されるように性交により新しいものが農産されるという世界観である。ヘビは降雨をもたらし、五穀豊穣につながる根本祭祀なのだろう。


環状列石 秋田県大湯遺跡 これもシヴァリンガか。同様なストーン・サークル(環状列石)がインドの南部カルタナーカ州、アーンドラ・プラデーシュ州、タイルナードゥ州に見られる。インドドラヴィダの遺跡は大きな塊石で石室を伴うものもあり、墳墓であった様相もうかがえる。蛇の思想的背景から「永遠の命」あるいは「再生」を得るための墓石でもあったとするのが至当だろう。
亀旨峰山頂
■なぜ、蘇我氏の破壊にあったのか?  
 これらの遺跡はそうとうエロっぽいからだろう。つまり、道祖神のようにセックスを象徴する石像と根底は同じだからである。仏教徒にとって、これは相当な目障りになるだろう。インドではヒンドゥー教が仏教を圧倒したが、日本では7世紀に仏教がインド的なるものを排除してしまった経緯になるだろう。ルネッサンスが西欧の古代回帰だとすると、日本のルネッサンスはここに降り立つような気がする。なかでも修験道はペルシャ・インドの古代思想が現代に引き継がれているという意味で、なんたる奇跡だろう。

■テヘランのマレク博物館のコインにある大型軍船

このコインはアケメネス朝アルタクセルクセス二世(紀元前404―358)を示しており、裏側には4つの連帆をもつ大型船が描かれている。古代ペルシャ帝国で使用されていた軍船である。三段櫂船で、片側12連装、金属製の盾を並べて防衛しているようすが見て取れる。ギリシャの軍船と帆のデザインが違うだけでよく似ている。一櫂幅を2,5mとしたら、なんと全長30m以上である。どうやら古代文明の航海技術についてイメージを変えなければならないようだ。参照サイトLINK
さらに紀元前モヘンジョダロで方位磁石が発掘されており、羅針盤がすでに使われていたと推測されている。




シルクロードと海の回廊 貿易船が盛んに行き交っていた。貨物船で運ぶ方が多量の物資を運べる利点がある。

■ペルシャインドの神話が古事記のベースだ。
インドでは神話や物語はヴェーダ以前は、長い歴史を持っている。タミル語のような言語による文学作品は2000年以上にさかのぼるという。
また、ドラヴィダに根強く残る神々がヒンズーに取り入れられたとしたら、悪神は先住民族の神々であり、英雄的な善神はアーリア人の神々であったと考えられる。アーリア支配民族は先住民をカースト外におき、悪魔の眷属に見立てている。こうして奴隷に堕したドラヴィダ種族は「海上ルート」で脱出するほかなかったであろう。そして、古事記の上巻の話は実は駕洛国や扶余で起きていた出来事だという日本人もびっくり!なことが生じるのである。

■古代船のイメージ

弘法大師行状絵図
新羅船といわれる。蒙古船とそっくり。蒙古船は高麗が製造したものだが、朝鮮式造船のスタイル。<平安時代の船の研究より


京都府丹後半島の弥栄町のニゴレ古墳 全長82.5センチの船型埴輪 帆の様子は分からないが外航可能な構造である。これは金海伽耶の外洋船と同じか




3800年前のエジプトの復元船
古代の船の建造技術は紀元前2世紀にはエジプト、ギリシャ、ペルシャなどが圧倒的に高い。商船が行き交うような港港に船の技術が瞬く間に伝搬したに違いない。



■インド公認言語22言語
◇〇アッサム語   1500万人
◇〇ベンガル語  6700万人(バングラディッシュを含む)
◆ディダイイ語(グダ語)少数
■ゴンド語    200万人
◇〇グジャラート語 4300万人
〇ヒンディー語  1億8000万人
■〇カンナダ語   3500万人
◇〇カシミール語  240万人
◇コンカニ語   150万人
■コタ語     1000人以下
■〇マラヤーラム語 3400万人
◇〇マラーティー語 6500万人
◇〇オリヤー語   3000万人
◇〇パンジャーブ語  2600万人
■ラージャスタニ語 2000万人
◇〇サンスクリット語 現在は死後
◆サンターリー語  400万人
◇〇シンド語     インド170万人 パキスタン800万人
■〇タミル語     6600万人
■〇テルグ語     7000万人
■トゥル語     120万人
◇〇ウルドゥー語   6500万人

以上の22言語のうち、◇はインドーヨーロッパ語 ■はドラヴィダ語 ◆はオーストロアジア語<〇のある15言語は文字に使われる。 ■インドの先住民  イラン北西部からインドに侵入してきたアーリア人の前に、広くインドに全般に住んでいた先住民はドラヴィダ民族の祖先であると考えられている。ドラヴィダ語族はインド共和国の総人口の25%を占める民族で、紀元前3500年頃、地中海海域からイラン高原を経て、インド亜大陸に入ってきたと言われ、インダス文明を興隆させたのはこのドラヴィダ人であることが考古学上明らかにされつつある。その後、紀元前1500年頃にインドに侵入したインド・アーリア族がヴェーダ語・サンスクリット語を持ち込み、今日のヒンドゥー語、ベンガル語になる。
○パーリ語と経典の正体

パーリ語で書かれた偈(韻文の形式)の歴史は紀元前3世紀ころまで遡る。さらに、パーリ語で書かれた経典の散文やその注釈は、5世紀~6世紀以後にまで及び、その後も今日までスリランカ・セイロン島を中心として、パーリ語を使用した新しい文献がある。
ただ、パーリ語といっても特定の文字があったわけではなく口語としてあったので、伝播したそれぞれの地域の文字で書き留められてきた経緯がある。ここが重要なところで、これでは現代のクレオール言語の定義に当てはまらないのではないか。話し言葉しかないのであるから原語は録音器がなければ再現できない。それなのに、どうしてパーリ語なのか、それは、伝搬国の文字を使ったのである。例えば、タイ語はタイ語で音写して聖なる言葉として発音をそのまま扱って、意味はタイ語で翻訳を足したということである。こうして、パーリ語というのは庶民が語っていた一地方の未成熟な言語であったのである。

○パーリ語雑学
 パーリ語は、バングラディシュのベンガル語(話者2億人)の祖語と言われている。また、スリランカ・ミャンマー・タイ・インドネシアの各語におよそ30%ぐらいの単語がパーリ語源である。
パーリ語はペルシャ・インド系のアーリア語属である。こうした強い伝搬力は仏教の伝来と期を一にするのだろうか。
インド本国ではサンククリット語とともに死滅した言語であり、もっぱら伝承国に潜んでいるのは何故だろうか。タイ語にはパーリ語源の単語が数多くあり、それが仏教語に多い。パーリ語が独自の文字を持たないので口伝(詩文形式)で伝わった。タイに伝われば、それをタイ文字で成書された。一方に原タイ語があって、パーリ語音が侵入したのである。それというのも、パーリ語源のタイ語の綴りはどう発音していいのか即座にはわからないことが多いからだ。発音が規則通りでないことが多いのである。また、パーリ語源の綴りにはよく、ガーランと言って黙音符号が語末につくことが多い。この符号がついている文字は発音するな、という意味で使われる。こうした黙音符号が付くのはたいがい外来語で示している。原タイ語の方ではr音がなかったはずである。なぜなら、lでしか発音していないタイ語話者の方が多いからだ。お隣のラオス語になると、l音も発音されない。タイ人はチャช ช้างが言えるがラオス人はサຊ:ຊ້າງとしか使わない。先のアルファベットはchoo chaangで日本で言えば、かるたのように「象さんのぞ」といった覚え歌と同じで、象の頭に使う文字チョーですよ、という暗唱句である。チョーチャーンという。これがラオス人は発音しにくいため、ソーサーンとなり、という文字はない。反対に、ラオス人はニュຍ:ຍຸງという発音を持つが、タイ人はニュという発音がない。蚊がよい例でラオスではニュングであるが、タイではユングである。
こうして、両言語を大きく見ると言をタイ人はパーリ語をかなり正しく発音する努力の跡があり、ラオス語はかなり省略したり、子音変化がみられる。同じタイ語族であっても、外来語の吸収の仕方は、自分たちのもともとの母語に乗っけるので、発音や長短がパーリ語そのものと異なってくるのである。簡単にいえば、お国ことばになまって、取り込まれるのである。これがアジア言語のクレオールピジン語の特徴だろう。
どうしてこんなことを長々と書いたのは、パーリ語が南伝仏教経典(原始仏典)で主に使用される言語だったこと。
中期インドにおけるアーリア系言語であり、一般庶民が使う俗語の一つ(プラークリット)だったとされること。
サンスクリット語が「洗練された言語」と対比して、「土着の、粗野な言語」を意味すること。
この言語は一般に定動詞表現が中心であり、語順が一定して動詞が文末にくるということである。なんと、これは日本語の文法と似ているではないか。

■漢訳経典の例外的特徴

中国語ではこれを意訳と音写を取り混ぜて経典に仕立てた。例えば「空」というのは「スーング」の訳語としたわけで、これでは誤訳だったとしても分からないのである。ここに今でいえば超訳に違いないのだ。翻訳者が意味語をあてる以上、十分な理解力と直観がなければできない相談である。漢訳経典は漢訳であるために日本の仏教を学問仏教にしてしまった。ようするに漢訳経典は訳者の考えた真理に変更されるので、訳した時からおのずと偽教といっても過言ではない。パーリ語が口語である以上、文字を知らない人々にも分かる易しい言葉を使っていたのであり、哲学的なことは一つも書いてないはずである。だから、今日、どこかの宗派が「仏教哲学」なんていうのはかなり危ういのである。哲学なんかじゃなく、物語、詩などとほとんど同じなのである。

15世紀からのいわゆる琉球王朝では、公文書は漢字ひらがな交じり文で書かれた。「琉球國由來記」では薩摩藩から流刑になって来た僧が和文を教えたので、和文ができるようになったとあり、ひらがなを使用するようになったのは室町時代のこと。「学問世の先生」と呼ばれ、渡嘉敷島に「学問の神」として葬られている。しかし、ひらがなが書けるようになったのが、たった一人の僧侶から広まったとは。文字とは後天的学習で容易に伝搬するものらしい。要するに、発音される口語が母語としてベーシックにあれば、文字はくっ付けるだけの話なのだ。

ハングルが1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が「訓民正音」の名で(훈민 정음)の公布した。これも室町時代であり、文字は国家が制定すればすぐに普及するものである。それらはアルファベットだからで、子音記号と母音記号を組み合わせるだけで成り立つのでそれほど難しいものではない。しかし、反対に外国語を母語とする人にとって発音の基礎がないとテキストからの学習は至難で、ネイティブから直接訓練を受けないと上達は難しい。

パーリ語が固有の文字を持たず、母語でない国でそれぞれの国の文字で表記されるというのは稀な言語である。サンスクリット語とともに現在話者のいない死語であるが、ベンガル語や仏教国の言語なかで生き続けているという意味で不思議な言語である。こうしたことから、日本語がこのパーリ語からそうとう影響を受けているのは間違いないと思われる。

『日本語の起源 新版』のほか、大野晋(おおの すすむ)は『弥生文明と南インド』を著し、この書では言語のみならず総合的な文明の移入、朝鮮語を加えた三者の関連といった点を重点に論じている。紀元1世紀半ばにインド、阿踰陀国(Ayudha)の王妃がやってきていることはインド人もびっくりである。ドラヴィダ語が加羅国の公用言語になっていたとしても可笑しくない。現在の韓語とタミル語の言語対応は1800と言われ、日本語では約350である。大野晋説は、西欧比較言語学からはこじつけとして批判されるが、西洋医学が漢方法医薬のを批判するに等しい。アジア言語はピジン化するときに、必ず母国語になまるのである。長母音が短母音になったり、子音の変化があったり、末子音が脱落したり、はたまた文法がSVOがSOVになったりさまざまで、きれいな法則性などに当てはまらなくてもいいのである。タミル語が頭子音を同じくする単語が多いことは、驚くべきことである。
加羅国語がドラヴィダ語であったことを証明したソウル大学文学博士 姜吉云(カン・ギルウン)氏は言語学者として「文献に表れている加羅宗主国の駕洛国語はみなドラヴィダ語と対応すると喝破している。「倭の正体」(三五館2010年発行)。と、言うことは弁辰だけは言語が北方モンゴル語ではなかったとことを踏まえなければならない。

*クレオール言語(クレオールげんご)とは、意思疎通ができない異なる言語の商人らなどの間で自然に作り上げられた言語(ピジン言語)が、その話者達の子供によって母語として話されるようになった言語を指す。 ■タミル語とは?

ドラヴィダ語は、サンスクリット語と並ぶインドを二分する言語であることは知っておいたほうがいいだろう。ドラヴィダ語族に属するタミル語・テルグ語・カンナダ語・マラヤーラム語・トゥル語・コーダ語などの言語を母語として使用する人々をドラヴィダ語族という。タミール語はドラヴィダ語に属する一つの方言で、南インドのタミル人の言語である。インドではタミルナードゥ州は公用語としている。また連邦レベルでも22の指定言語のひとつであるほかスリランカとシンガポールでは国の公用語の一つにもなっている。タミル語はおよそ7500万人。主として南インドとスリランカで話されているが、またパキスタン、ネパール、そして東部及び中央インドの特定の地域でも話されている。 ドラヴィダ語族の話者人口は 2億人を越える話者を持つと言われている。
加羅語とは、ドラヴィダ語と共通語が600以上あり、さらに共通することは、タミール族のトーテムは「亀」である。任那加羅国の神話も「亀」である。驚くべき共通性がある。

■タミル語も日本語も膠着語

タミル語の特徴は、基本はa, i, u, e, oの五母音であり、それに長短の別と二重母音(aiとau)が加わることで計12の母音を区別することになる。子音は有気音と無気音とを区別しない。他有声音(日本語で言う濁音)と無声音(同じく清音または半濁音)の間の対立もない。ただ単語の先頭や同子音が重なった場合に無声音、単語の中途、同系の鼻音の後などに有声音で発音される傾向がある(これらの点は日本語の連濁と相似である)。タミル語は他のドラヴィダ諸語と同じく膠着語で日本語と同じである。文法的にはSOV(主語+目的語+動詞)なので、日本人には親しみやすい。また、詩歌(サンガム)には、五七五七五七……七、五七五七七、五七七の音節を持つものがある。係り結びもある。タミル語に日本語が親近性がかなり見いだせる。そこで、大野 晋(おおの すすむ)は日本語とのタミル語との多義語の間には偶然以上の合致を多く認めている。加羅王室の宮廷語がドラヴィダ語だったので、日本語がドラヴィダとピジン語化した確率が高いのである。
タミル語で翻訳すると意外な意味が出ている。
例えば、倭迹迹日百襲姫(やまと・ととひ・ももそ・ひめのみこと)は、タミル語では、「ヤマトのtoto(ヘビ)霊を崇拝する姫」という意味になるという。余りにも、ずぼしの訳である。この姫は蛇神のお告げをする巫女だから、偶然の一致とは言い難い。すでにある日本語の単語は既にピジン化した後の語彙であるとすると、音韻対応しているだけで十分な証明ができる。タミル語が日本に影響を与えたことが、文化的な交流を証明できなかっただけの話である。例えば、タイ語は30%がパーリ語とサンスクリット語がカンボジアを通してタイ語化している。日本語は韓国語よりも音韻体系がずっと崩れている。アーリア系のペルシャインド系の音韻の影響を受けていない。謂わば古ドラヴィダ語、インド土着語的な言語が日本語化したと考えられる。

■ドラヴィダ語族もたくさんある(ウィキペディアから)
南部ドラヴィダ語派
タミル語 (தமிழ் ; tamiḻ ; Tamil ; タミル・ナードゥ州)
カンナダ語 (ಕನ್ನಡ ; kannaḍa ; Kannada / Canara ; カルナータカ州)
マラヤーラム語 (മലയാളം ; malayāḷaṁ ; Malayalam ; ケーララ州)
トゥル語 (ತುಳು ; tuḷu ; Tulu ; カルナータカ州南部)
トダ語 (Toda ; ケーララ州北東部)
コータ語 (Kota ; ケーララ州北東部)
バダガ語 (Badaga ; タミル・ナードゥ州西部)
イルラ語 (iruḷa ; Irula ; ケーララ州北東部)
コダグ語 (ಕೊಡಗು ; koḍagu ; Kodagu / Kodava Thakk / Coorgi / Coorg ; カルナータカ州南部)

中南部ドラヴィダ語派 [編集]
テルグ語 (తెలుగు ; telugu ; Telugu ; アーンドラ・プラデーシュ州)
コンダ語 (konḍa ; Konda ; アーンドラ・プラデーシュ州北東部)
ペンゴ語 (Pengo ; オリッサ州中部)
クーイ語 (kūi ; Kui ; オリッサ州中部)
クーヴィンガ語 (kūvinga ; Kuwi ; オリッサ州中部)
マンダ語 (manḍa ; Manda ; オリッサ州中部)
ゴーンディー語 (gōndī ; Gondi ; マハーラーシュトラ州東部) マンドラ方言 (maņḍlā ; Mandla)
マリア方言 (Maria / Abujmaria)
チャンダ方言 (Chanda)
アーディラバードゥ方言 (Adilabad)
コーヤ方言 (kōya ; Koya)


中部ドラヴィダ語派
コーラーミー語 (kōlāmī ; Kolami ; マハーラーシュトラ州東部)
ナイキー語 (Naiki ; マハーラーシュトラ州東部)
パルジー語 (Parji ; オリッサ州南部)
ガドバ語 (Gadba ; オリッサ州南部) オッラーリ方言 (Ollari dialect)
サルール方言 (Salur dialect ; 以前はポーヤ語 (Poya) と呼ばれ、独立しているとみなされていた。)


北部ドラヴィダ語派
ブラーフーイー語 (brāhūī ; Brahui ; パキスタンとアフガニスタンの一部)
クルク語 (Kurukh / Oraon ; ビハール州、西ベンガル州、マディヤ・プラデーシュ州の一部)
マルト語 (Malto ; ビハール州の一部)

以上の諸言語のうち、インドおよびスリ・ランカ外に中心地をもつ言語は、ブラーフーイー語のみである.


■タミル語と対応する「動詞」
アガム(崇む)、アク(明く)、アソブ(遊ぶ)、アツム(集む)、アフ(合ふ)、アラフ(洗う)、アルク(歩く)、イク(行く)、イフ(言う)、イム(忌む)、イル(射る)、ウク(浮く)、ウツ(打つ)、ウヤマフ(敬う)、オソル(恐る)、カガム(屈む)、カタル(語る・騙る)、カル(刈る)、クネル(曲る)、コフ(乞ふ)、サカユ(栄ゆ)、サバク(捌く) >■タミル語と対応する「形容詞」
アツ(厚)、アハ(淡)、アヰ(イ)(藍)、アヲ(青)、イカ(如何)、オホ(大)、カラ(辛)、クロ(黒)、シロ(白)、スクナ(少)、ツヤ(艶)、ハヤ(早)、ヒロ(広)、フト(太)など。 >
■タミル語と倭

 相当数の単語が、母音で始まり、母音で終わる。稲作に関する基礎語彙は朝鮮語よりタミル語の方が圧倒的に多い。朝鮮語の語彙の語頭の音素は日本語とほとんど一致しない。琉球語と比べて、朝鮮語が日本語と類似性を持たないと言われるのはそうした理由からである。朝鮮語よりもタミル語が近似性が高いのである。

 ドラヴィダ人が南インドから海の道に沿って、加羅国をハブにして、日本を吸収して、倭国となっていたのである。このトランジット海洋民族は江南に移住。これを第一次移動、加羅、北九州に第二次移動、移住定着した。その後、しだいに日本に全部移動した。これを移動ー第三次移動とする。こうして日本にほとんどが定着した。それは相当数のドラヴィダ語者が日本に移動したことになる。それを証明するのは、九州筑紫一体の甕棺埋葬である。無数に出土する甕棺は伽耶国とインド南部と共通である。また、部族はというと、それに該当する部族は「隼人」である。隼人が加羅渡来人であれば、ドラヴィダ語を母語としていた可能性が高い。そうだとすると、AD200頃以降、九州王朝の宮廷近衛兵が隼人族であることを考え合わせると、隼人の言語が王宮言語に影響を与えたことは否定できない。

 命令語は軍事組織の中では重要である。それらは、動詞群に集中するので、軍隊用語はまさにドラヴィダ語に対応しているかどうか判定できる。音韻対応から歴史を紐解く、こうしたアイディアは、つねにガレージ発明と同じであるが、どう波及するかは定かではない。
それは、次のようなことが背景にあるからである。

その一は、隼人とは大和倭人は通訳を必要としたということ。
その二は、百済、新羅は通訳が必要だったが、加羅だけは倭人と通訳を必要としなかった。

以上の、二つの傍証から考えられることは、加羅倭人と九州隼人が同部族であるか、極めて類似する部族であった言える。そこで、半島の三汗が、すべて朝鮮語であったという現在の地政学からの判断は間違いで、加羅は特有の言語を持ち、それは九州倭人とほぼ同じだったということである。このことの意味は大きく、日本語の語源説に風穴を開けることになるだろう。

■語り部の役割
特徴的なことは、インドには口承伝承という広いバックボーンがあって、何世代にもわたって語り継がれると言われている。語り手はプロもいれば、素人もいる。現代でも、プロは地域の有力者に頼まれて渡り歩く。家の中に小舞台をつくって夜を通して「ラーマーヤナ」などの物語を演じてる。また、吟遊詩人は何世代にも渡って家業としている。家業といっても、代々その職業を連綿と続ける身分であって自由はない。親から子へと口承される。それは、民衆の識字率が極めて低いので、暗唱という手段しかなかったことも大きい。それらはマハラジャの賛歌であったり、娯楽的歌謡として伝承される。

■女神ドゥルガの神話
>インド神話の女神。シヴァの妃パールバティの化身。ドゥルガは「近づき難い」の意。もともとは彼女に敵対する悪魔の名であり、悪魔を倒した時、記念してこの名を名乗った。マヒシャによって天界が占領されてしまった時、神々が反撃にでるため、力を集中して吐き出した、憤怒の炎の中から誕生した。

その姿は十本の腕を持つ美女で、マヒシャスラ討伐のため、シヴァの三叉戟、ヴィシュヌのチャクラム、アグニの投げ槍、ヴァーユの弓、ヴァルナの法螺貝、インドラのヴァジュラなど様々な武器を与えられた。

ドゥルガ神


その昔、世界にはマヒシャスラという悪魔がいました。
破壊の神シヴァは、たった一人の女性がマヒシャスラを倒すことが出来るようにしておきましたが、悪魔は、全く気にせず余裕でした。マヒシャスラは、全世界に恐怖をはびこらせ人々を虐殺、神の領域にまで攻撃し、天上界をも支配しました。

神々は、屈辱的な敗北を喫し、ブラフマー神のもとに身を寄せました。ブラフマー神は神々を引き連れ、シヴァ神とヴィシュヌ神に会いに行きました。そして、ブラフマー神、シヴァ神、ヴィシュヌ神は三位一体となり、力を合わせて一人の究極の力を持つ女神ドゥルガを作り上げました。

美しい女神の顔はシヴァ神の輝きを持ち、彼女の10本の腕はヴィシュヌ神から作られ、ブラフマー神が彼女の足を形作りました。死の神の力が彼女の髪をつくり、月の神の力が乳房を、雷の神の力が腰を造りました。海の神が腿に、大地の紙が尻に、太陽の神がつま先に、ガンガー川の童神たちが手の指に、保健の神が鼻に、生き物の神が歯に、火の神が眼に、日の出と日没の神が眉毛に、風の神が耳に力を与えました。

更に神々は、悪魔を倒すために彼女に武器や法具を与えました。シヴァ神は三叉の矛を、ビシュヌ神は鏡(チャクラム)を、海の神は巻貝と輪縄を、火の神(アグニ)は投げ槍を与えました。風の神(ヴァーユ)からは弓を、雷の神からは稲妻を、また彼の白象のベルを貰いました。死の神は剣と盾を、構造の神からは斧と甲冑を与えました。山の神は彼女に兜と宝石と乗る獅子をプレゼントしました。その他にも、ドゥルガ神は、いろいろな神から衣服や呪いの道具、蓮の花冠などを与えられました。
美しい女神ドゥルガ。戦闘態勢に入りました。悪魔たちは、戦々恐々としています。
悪魔マヒシャスラは、全くドゥルガに敵いません。窮地に立たされました。彼女は戦隊を組織し、混乱している悪魔たちを容易く打ち負かし、捕らえました。マヒシャスラは、最悪の状況に怒り震えました。彼はおぞましい野牛に姿を変え、彼女の戦士たちに向かって突進しました。多くの戦士がマヒシャスラの角に突かれ、尾に打たれて殺されました。ドゥルガの獅子が彼に立ち向かいます。マヒシャスラが獅子と戦っている隙に、ドゥルガは、輪縄を彼の首に回しました。

マヒシャスラは、獅子の姿になって逃げようとしましたが、ドゥルガの放った彼女の獅子によってゆく手をさえぎられました。次に彼は人間の姿になって逃げようとしましたが、ドゥルガの弓矢が顔をかすめ、出来ませんでした。更に彼は巨大な象になって逃げようとしました。彼はその牙でドゥルガの獅子を打ち倒したものの、彼女の剣によって牙を細かく切られてしまいました。

悪魔は野牛の姿に戻り、山の中に隠れました。そこで、角を使って岩をドゥルガに投げつけました。ドゥルガは保健の神から貰った神秘の果汁を飲み、マヒシャスラに立ち向かいました。彼女は足で悪魔を蹴倒し、ひとつの手で頭を押さえつけ、もう一本の腕で持った三叉の矛によって串刺しにし、他の手を巧みに使って剣をマヒシャスラに突きつけました。ついに彼は死に絶えました。一度は無敵を誇った彼の軍隊の残党も、恐怖におののき逃走しました。

*参考:スリランカのほぼ南端にMATARAという都市がある。Southern Province, Sri Lanka


----《11章に続く》----

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