HOME-TOPへ

Since 4/1997
摩多羅神はどこから来たのか? 

第九章・・・・~ダビデの子孫~
○謎の酒船石(さかふねいし)


 奇妙な形の溝が彫られている。その形から何に使用したのか全く分からない。液体が流れるのに適した構造だが、何を流したのか、その用途は謎のままだ。水 銀朱の精練装置、酒を絞る槽、ゾロアスター教の秘薬製造施設など、さまざまな説が出されている。この施設が作られたときを同じくして、吐火羅(トカラ)国 (西サマルカンド周辺の国)の男女が飛鳥に滞在していた。斉明六年に乾豆波斯達阿(げんづ・はし・だちあ)が、数十人の人と帰国したと紀にある。彼らは、 「また再び大和に仕えたいので、妻を残して、その表(しるし)とします。」と、妻子を日本に残したまま西海に船出したと伝える。乾豆波斯達阿とは、ペル シャ人であることは波斯(ハシ)から分かる。飛 鳥(あすか)というのも、パルティア(ペルシャ)帝国の「アスカ朝」?から名前が由来しているのではないかとの説もある。作家松本清張氏は、この時代に多 くのペルシャ文化が飛鳥に入っていることを突き止め、酒船石はペルシャ系の石工が作ったものに違いないと主張している。ササン朝ペルシャが手痛い敗北をア ラブ・イスラム軍に被り、首都クテシフォンを放棄したのが637年で、以後アラブ・イスラムの拡大が続く。ササン朝ペルシャが滅亡したのが642年で、ペ ルシャ人の亡命流民とも取れなくはない。なんであれ、655年から始まる斉明天皇のときには、ペルシャ人集団が明日香に住んでいたことは間違いない。

*なんらかの箱型炉とドッキングしていたと考えらえる。全体はコンビナートであったが、他の構造物は消滅している。この石の遺跡だけを見ていると、その用途がわからない。しかし、溶解炉の一部だと考えると、溶解ポットの役割をもっていたとわかるのである。金属は溶解すると水よりもさらさらである。溶解点が低いとどろどろとする。鋳型に流し込むばあい、あるていど温度を下げて粥状にしたのであろう。こうした一連の流れを想像すると、鉄ではない何かの金属製錬の一部であるとするのが至当である。 *日本書紀で記述される外国の名称の語源は古代朝鮮語である。は波斯(ハシ)国を初めとして、7世紀(高句麗28代ポジャン王の頃)に朝鮮で使われていた各国の名称を参考にすると面白い。下記の国々は、高句麗と国交があった国々である。高句麗は属国とみなしている。

突厥(トルグォル) モンゴル東部
鉄勒(チョルルク) トルコ
契丹(コラン) モンゴル南部
尚州(サンジュ) 
亀(サ)茲(ジャ) 中央アジア
康(カン)国 ウズベキスタン
吐蕃(トボン) チベット
吐谷渾(トヨコン) チベット
高昌(コチャン)国 トルキスタン
林邑(ハムウップ) ベトナム中部
奚(ヘ) 沿海州
室韋(シルイ) 北満州
大佛臨(テプルリン)国 東ローマ帝国
スプ 東満州
>波斯(パサ)国 ペルシャ
大食(テシク)国 アラビア
倭(ウェ)国(グ) 日本
象州国 ベトナム

* 吐火羅(トカラ)国はトハーリスターン=大夏国のことである。中国史書でも吐呼羅国吐火羅国覩貨邏国な どと表記された。大夏をトハラと音訳されたことが大きい。この地域はバクトリアとも、トハリスタンとも言われる。武帝(在位:前141~87年)は張騫を 使者とした使節団を西域に派遣した。張騫は匈奴に捕われるなどして10年以上かけ、西域の大宛・康居を経て、ようやく大月氏国にたどり着いた。張騫による と、この大月氏国の都は媯水(オクサス川)の北(ソグディアナ)に在り、その川の南にある大夏を役属させていたという。大夏とはおそらくトハラの転写と思 われ、トハラ人もしくはトハーリスターン(トハラ人の土地)であると思われる。その大夏の都は藍市城といい、これがバクトラにあたるといわれるが、定かで はない。大月氏国に支配され、傍系のクシャーナ朝、エフタル、ササン朝ペルシャに支配された後、バスラの戦い(656年)でイスラム・アラブ支配になっ た。

*ペルシアΠερσία Persiaは、現在のイランを表す古名。書記では波斯(パサ)・波斯国(パサグ)。波斯と書いてペルシャを意味するのは朝鮮古語である。日本書紀が百済官人の手になることが明瞭だ。パルティアは、パシャと聞こえるだろうから、朝鮮古語で読めば、現代のペルシャとほぼ同じ発音である。

そこで、ペルシャ人であれば、キリスト教ネストリウス派の可能性もある。635年に景教の伝道団が唐の都長安に入り、太宗が布教を許可し、中国各地に寺院 が建つようになった。このリーダーが阿羅本と呼ばれるペルシャ人である。彼らは東方に東方にと布教を進めてきたから、東の日本に布教に来た可能性は高い。 飛鳥に十字架の痕跡があれば面白いのだが。バクトリアといえば、、ゾロアスター教である可能性が高い。吐火羅(トカラ)国の集団は飛鳥で何をしていたのだ ろうか。彼らが、ペルシャ人で、かつ、オアシス国家の灌漑施設を作る技術を持っていたとしたら、この亀形石遺構に結びつく。また、その周辺で見つかった奇 妙な須弥山石、道祖神石、亀石、猿石などの石造遺物の謎に迫ることができる。須弥山石と道祖神石は、内部を直径3センチぐらいの菅ををくり貫いて、噴水施 工されている。噴水を楽しむ施設というのは、仏教遺跡にはほとんどない。それだけ、異質な文化を感じさせる。また、これらの石の加工物は一見して仏教のモ チーフとは異なる飛鳥独特のものである。このことが、なおさらペルシャ人集団ではないかと思わせる。オアシスの住民なら石材を使って水路を作ることならお 家芸だろう。ともかく、仏教遺跡の大半は百済工人が造営したとしても、これらの噴水石材施設は百済人(くだらびと)とは思えない。別格なのである。猿石な どの面は西域の伎楽面に似ているので、西域人とも言われている。



飛鳥に残る不思議な、猿石 (レプリカ)
Saru Ishi
これは石神から出土した猿石 奈良県文化財研究所 飛鳥資料館 
 猿の顔に見えるので、猿石(さるいし)と呼ばれているが、実はれっきとした人間像である。手に持っている物が十字架のように見える。
Jyujika中央部十字架に見える部分の拡大
このような石の像は、西域の突厥人(とつけつじん)やキリギス人に石人像を作る風習があった。下の写真のように石人であって、猿ではない。飛鳥の猿石は、 おそらく日本で死亡した同胞の石人だろう。もし、胸の上に持つ何かが、十字架であれば、これは西域から来た景教徒の石人に違いない。


突厥かキリギス人が残したモンゴルに残る石人(500年頃か?)手に持っているのは盃(さかずき)だ。

人頭石の一つ
Saruishi
高取城の猿石 一番、お猿さんに見えるが、これも石人と見る。はじめ欽明天皇陵にあったとされる。高取城にあるのは蘇我氏の破壊工作か?


○酒船石(さかふねいし)の謎

 斑鳩宮も明日香宮も建物の礎石はびっしりと一面に敷きつめられている。明日香を「石の都」というにふさわしい。1999年、年の瀬に斉明天皇の両槻宮 (ふたつきのみや)の東側の小丘の麓から亀の形をした石水槽が発掘された。だが、この亀形石の用途が謎で、さまざまな憶測がなされた。
Kameishi一説では、近くの謎の石造物「酒船石」(さかふねいし)から、この亀石に流水していたのではないかと言われていた。(75m)
しかし、亀形石、小判形石と並ぶ後ろに湧水施設が発見された。大部分の水はこの井戸から湧いた水が亀形石に注ぎ込まれていた。そこで言えることは、酒船石 から水が注がれていたのは間違いであることが判明した。では、いったい酒船石からは何が引き込まれていたのだろうか。


○亀石と酒船石は一つの施設だった!

 東に神仙の青山あり・・・文字どおり宮の東側は聖所にふさわしい。この丘こそ、石山丘(いしのやまおか)で、この天宮(両槻宮)の東側にあたっている。 朝廷と貴族は唐と同等の高い文化を見せつけるために明日香宮を造った。そのため、明日香は、唐を見習った移入文化の都で、その根本は道教だった。亀は道教 の重要な聖獣である。そもそも皇帝が道教を奉じると、仏教が弾圧されるという図式は中国では何度も起きている。唐の情勢もけっして皇帝が仏教を外護してい たわけではない。玄奘三蔵が印度から帰国したときが645年。玄奘はいったんホータンに入り、そこから太宗の入唐許可を待った。運良く許されたというのが 本当らしい。玄奘三蔵が帰国したこの年、日本では蘇我入鹿が暗殺された。
このときの天皇が皇極天皇で、皇極元年は日照りの続く干旱であった。さまざまな雨乞がなされたが効き目がなかった。蘇我蝦夷が寺々で力を入れさせた仏教の 請雨祈祷も、小雨を見ただけだった。ところが、皇極天皇が自ら跪(ひざまづ)いて天を仰いで四方礼拝したところ、たちまち大雨となり五日間天下を雨で潤し た。多くの農民は「至徳天皇」と称讃した。皇極天皇、降雨祈祷で仏教の祈祷に勝ったのだ。跪いて四方礼拝する祈祷は道教四神に向かって行う。玄武・青龍・ 朱雀・白虎である。玄武は北 ・青龍は東・朱雀は南・白虎が西である。天武・持統天皇陵,牽牛子塚(けんごしづか)古墳(斉明天皇陵ともいわれる)、天智天皇陵(京都山科)、束明神古 墳(草壁皇子陵とされる)、中尾山古墳(文武天皇陵)などは他の古墳には見られない八角形の形をしている。これらは四神崇拝の道教の宇宙観の表れと見るべ きだろう。


■皇極は百済の王族「宝皇女」だった

 いったん弟の軽王子に譲位したあと、軽王子=孝徳天皇が崩じると(実は死んでおらず、出家して行基と名乗り81歳まで生きた)、大化改新を見て10年後に再び斉明天皇として即位した。(これを重祚/ちょうそと言う)
もともと百済の武王の娘で「宝皇女」と呼ばれていた。母は新羅・真平王の三女・善華(ソンファ)姫である。舒明天皇に嫁がせたことになっている。日本と同盟して新羅に対抗するための策略 であった。30代百済王・武王(むわん)は600年~641年在位であるので、ちょうど、推古天皇の退位する時期と重なる出来事である。推古天皇は山背大 兄王を天皇にしようと思っていたが、蘇我入鹿を暗殺し、天皇と実権を中央化しようと画策した。武王(むわん)は百済滅亡の危機にあって、どうしても日本の 軍事支援を得ようとしていた。武王が送り込んだのが宝皇女で天皇に即位した。天智天皇のときになって、百済復興のために救援部隊を送ったが(白村江の戦 い)失敗に終わった。百済は、それなりのことを達成したわけである。だが、唐羅の軍事力は百済に優っていた。26代の新羅王・真平王(ちんぴょんわん)は 花郎という精鋭の兵を鍛えていたが、貴族の子弟を仙道の結社のような組織をつくり、兵数と訓練度が百済を圧倒していたのである。なんであれ、百済救援の軍事出兵は斉明は船出を前に崩御、次の天智天皇によって実行された。このことから、一応百済王の念願が成就した。百済のタカラ皇女が日本の天皇になったことは、その諡号『天豊財重日 足姫』アメ・トヨ・タカラ・イカシヒ・タラシ・ヒメにもタカラの諡があることで明らかだ。タラシとは、垂迹の意味に思われる。垂らし、つまり渡来一世と捉まえることができる。ここで、天皇の諡号でタラシがあると、それは朝鮮の王族が渡来するなり日本の天皇になるという意味となろうか。軽王子は武王がなくなった後、義慈王に追放された善華(ソンファ)姫の男子で宝王女と同母弟(書記の通り)である。皇極2年には日本に到着した。名を「行基」と云う。
ところで、おくり名の「天豊」で百済の王族を表すことが判明した。「豊」の一文字は百済王族であるイニシャルである。

■鬼道が浮かび上がる

 さて、石山丘(いしのやまおか)の石垣造りは、鬼道の祈祷を行うための聖所だった。この斉明天皇が禊(みそぎ)を行う秘密の聖域として、この施設は貴族 すら足を踏み入れることが出来なかった。少数の采女(うぬめ)だけを伴って密かに鬼道祭司を行った。このため、その場所は山に囲われ、あまり目立たない場 所にある。そこで、鬼道では不老長寿、仙人になると不死が得られる。そこから、亀形石に水銀(みずがね)を蓄えることは不良長寿の儀式だったと思われる。 水銀は酒船石から供給されていた。酒船石は、風炉から出た水銀を分配する台石で、水銀(みずがね)を生成した直後に下の小判形石と流れこむように設計され ている。水銀は粒となって敷石(しきいし)の溝を転がるように流れ落ち、湧水と合流して、小判形石に流れ込む。そして、水銀は小判形石の底に大きな塊と なって溜まる。水銀は赤い水の中で、きらきらと光を反射して映えた。そして、亀のプールは、輝く水銀の上を流れた赤い水を口から飲み込むようになってい る。こうして、亀の水桶は不死不死の聖域を現出する。下の写真では、亀の口の端は、はっきりと赤みを帯びており、さらに亀形石の底に水流の渠(みぞ)も赤 い線条痕が残っている。これは、水銀の材料である辰砂も混在して流れていたことを示す証拠である。辰砂土が亀の口にも注ぎこまれていた。
KameGataIsh_Head
南側、亀の口、水流が流れ入る先端から、後方の流水にかけて赤い。
この写真では、亀形石の底に辰砂が流れた痕跡をはっきり残している。赤い条痕がそれである。この赤い色こそ水銀を蒸留したことの証拠になるだろう。この写 真は亀形石の底部が乾いていた状態で撮影されたせいだろう。これほど鮮やかに写ったのは奇跡としかいいようがない。上方の方形に積み上げられた煉瓦状の石 積みが、新たに見つかった湧水施設。湧水施設からは、継続的に一定量の水が流出していた。石は花崗岩。


首露王陵(スロワンヌン수로왕릉)の亀石
亀石は金官伽耶国の象徴。王の降誕は6つの亀の金の卵。皇極(斉明)天皇は滅亡した任那駕洛国の再興を祈願し、同時に本国百済の滅亡をなんとか防ごうという瀬戸際外交をするために天皇に自ら即位したと思われる。

水銀は辰砂という赤土から造られる。その部分が今も赤い痕跡が残っているのはそのためである。斉明天皇は、おそらく、不死身になろうと、この亀形石の中央 に身をかがめて禊(みそぎ)を行ったのだろう。高齢になった斉明天皇は、吉野まで行幸することなく、宮のかたわらで祭祀を行えるようにしたのだろう。この 水銀を生成する酒船石からは、決して儀式を覗けないように周囲を石垣で囲んだ。こうして、酒船石(さかふねいし)と亀形石とは、一体の施設であった。そう 考えないと、その全貌が見えてこない。

 斉明天皇は、鬼道祭祀を自ら行う巫女的な性格を帯びていた。水銀は仙域を作り、聖なる場所となる。呪術を自ら行う女帝ならば、ただ、水だけを流したと は、どうしても考えにくい。水銀が流れていれば、その貴重性から、唐の使節も、「おお!」と、びっくりするだろう。ただ、言えることは、逆に「水銀を流し て、どうするの?」 と、言いたかったのは労働にかりだされた人夫だったのだろう。この女帝すこぶる人民の不満をつのらせた。後に、「狂心渠」(たぶれこ ころのみぞ)と揶揄された渠(みぞ)は石材を運ぶための水路で延べ工夫3万人を要して掘られた。天理市石上山(いそのかみやま)から香具山の西までの間 で、およそ二百隻(ふたももふな)の運搬船がこの水路を利用して石を運んだのである。この石垣造りでは、およそ延べ7万人が働いたと紀に書かれる。両槻宮 は別に天宮(あまつみや)とも呼ばれ、天帝(天道)からくる名称で道教に因(ちな)む号である。天宮(あまつみや)というからにはその壮麗さは並ではな かっただろう。
 そもそも、日本に影響を与えたのは仏教と儒教であるというのは誤りで、仏教以前に最も影響を与えたのは最初に渡来したインド・ミトラ教である。また、西 暦紀元前三世紀にすでに道教は、その方士「徐福」が渡来している。新羅の善徳女王も降雨を仏教寺院で行ったが、さっぱり雨が降らず、神に変えて祭祀をした ところ、たちまち降雨をもたらしたという伝承がある。


○神仙祖霊祭祀の復古

 蘇我入鹿が暗殺されたのは、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の大極殿である。(乙巳の変645)
書記の記述をみると、現場には4人がいたことになっている。蘇我倉山田石川麻呂、馬子の孫の大兄皇子、殺された入鹿、そして皇極天皇である。倉山田石川麻 呂が国書を奏上中に、潜んでいた刺客が飛び出して殺したのである。刺客は大兄皇子が手引きしたと言われている。このへんは日本書紀がドラマのシナリオのよ うに詳しいのが謎である。

「鞍作(くらつくり(入鹿))は、天宗(きみたち)を尽くし滅ぼし、日位(ひつぎのくらい)を傾けむとす。豈(あに)天尊を以って鞍作に代えむや」(中大 兄皇子(なかおおえのみこ)紀24皇極6月)。ここで言う鞍作(くらつくり)とは、蘇我入鹿の代名詞である。

蘇我入鹿は林太郎鞍作で、林氏は百済国人、木貴の後裔であると所伝される。蘇我の祖は百済文周王の時代(475年)に倭国に来た木羅斤資将軍(モクラコンシ)である。木羅斤資は父は百済高官、母は新羅人だった。高句麗に攻められて危機に瀕したため新羅に援軍を求め文周王ともに、木羅斤資将軍は新羅に行った。その後、新羅から南に行ったきり、しばらく戻らなかった。百済将軍が日本に来た理由は密命をもって来た可能性はあるが、倭国の援軍を引き連れて帰還したのだろう。三国史記では、「南に行けり」といった短い記載のされかたしかない。その木羅斤資が木満致(き・まち)である。木満致(き・まち)の娘が仁徳天皇の妃となり、「葛城」の姓を賜った。蘇我氏は百済の木氏で、日本で葛城氏となり、後に蘇我氏に分かれたのである。7代の馬子の時に最大の実権を握った。

*木羅斤資将軍(モクラコンシ) 日 本書紀では百済記に曰く、として神功皇后記に載る。「沙至比跪」(葛城襲津彦)を将にして新羅攻めにいったが、新羅の二人の美人に誑かされて、どうしたわ けか加羅国を撃ってしまった。加羅の六村長は人民を伴って百済に逃げてきた。加羅国の銍知王の妹「既殿至」は大倭に来て天皇に訴えた。天皇は怒って百済の 木羅斤資将軍(モクラコンシ)と「沙沙奴跪」を遣わし、加羅国を現状に復した。卓淳に集結した百済軍は新羅を征圧したあと、伽耶7国から唐津までを攻略し て、なんと伽耶7国を百済の属国にしてしまった。ここまでの話は日本書紀の話である。

しかし、実際には日本軍の出る幕はないのだが、日本で兵を集めたようである。その経緯は蓋鹵王の命で「昆支=蓋鹵王(がいろおう)の次男・弟君」は高句麗 の攻撃に対処するために新羅に救援(羅済同盟)を求めに出ており(『三国史記』百済本紀・蓋鹵王紀幼名慶司)では木劦満致らとともに南方に逃れている。『日本書紀』では昆支は筑紫の各羅嶋(かからのしま)で連れてきた妻が出産、一児を授かった。。嶋君(せまきし)と名付けられ、後に百済に戻された。これが後の武寧王であると言われる。

昆支は河内の飛鳥戸神社(あすかべ)に祀られている。文周一月後、新羅の兵10月に新羅の兵1万が出兵した時には、既に漢城は陥落して蓋鹵王は高句麗によって処刑されていた。文周は直ちに王位について熊津(忠清南道公州市)に遷都した。解仇(かいきゅう)を兵官佐平(軍の最高職)、弟の昆支(こんき)を内官佐平(政務最高職)に任命した。長兄の文周王は百済兵官佐平解仇(かいきゅう)のクーデターで殺され、傍系の三斤王が王についた。三斤王の子・東城王は解仇(かいきゅう)の傀儡で、実兄文周王の仇(かたき)である。昆支は三斤王を打倒(暗殺)して第二子の末多王(またおう)を王位につかせたものと思われる。これが、東城王である。昆支には五人の王子があり、倭にいたとされる。 武寧王は名前が斯摩、あるいは「隆」とも言った。牟大王の二番目息子だとあり、蓋鹵王か昆支のどちらかが実父か判明しないが、武寧王の父は牟大王とも称したようである。

蓋鹵王は即位後早い時期に宋に遣いを送り、自身の身内や高官十一人への爵号授与を願い出た。十一人の内訳は余紀、余昆、余暈、余都、余乂、沐衿、余爵、余流、麋貴、于西、余婁。このうち長子余紀が文周王になり、余混が461年に来日した昆支である。

百済余紀(文周王)は新羅に救援を、余昆(昆支)を倭国に援軍を要請に行ったというのがのが真相だろう。昆支(こんき)は 河内で倭の兵(百済渡来人)を集合、自ら進軍したが、高句麗に攻略された後だった。そのため、倭軍は、伽耶国を攻撃、比利・辟中・布弥支・半古の四邑を百 済に割譲させた。任那の4県が百済に服属したこの事件は、百済の謀略であり、宗に対しては倭王として奏上したのであろう。倭の五王は百済王であることが見 え隠れする。

蓋鹵王(がいろおう)の子供のうち 余昆はおそらく461年に来日した昆支だとされる。書紀によれば昆支は蓋鹵王の弟だが、三国史記は彼を蓋鹵王の次男とし、後には文周王の補佐も務めた。余 昆は昆支の長男と思われ24代の東城王になる。昆支は蓋鹵王の血を引き、文周王とは兄弟になると見る。蓋鹵王は即位後早い時期に宋に遣いを送り、自身の身 内や高官十一人への爵号授与を願い出た。十一人の内訳は余紀、余昆、余暈、余都、余乂、沐衿、余爵、余流、麋貴、于西、余婁。このうち、余姓を持つ者は子 供か兄弟である。
「以行征虜將軍左賢王餘昆」(宋書百済伝)にあり、457年頃の話である。余紀(23代文周王)の弟余暈((琨支)が日本に来たのが木羅斤資将軍である。木羅は百済八姓の一つである。余暈=琨支=斤資=斯摩宿禰(日 本書記)の等式が成り立つ。『乃ち其の弟軍君(崑攴君なり)に告げて曰く「汝、日本に往でて天皇に事えまつれ」という。(雄略五年)』書記は出来事の年 代、時の人名をモザイクのようにばらばらに書いており編纂された様子がない。蓋鹵王(可須利君かすりのきし)其の弟軍君は昆支(こんき)である。蓋鹵王は 嘆いてこう言った。「娘を倭王に嫁がせたが、百済のことをすっかり忘れてしまった。もう政略結婚はこりごりだ。いま、蓋鹵王の側室で妊娠している女性を嫁 せるから、琨支よ、一緒に日本に行ってくれ」、これは倭王(欽明天皇)との政略結婚が効を失っているので、しっかり百済を支えるようにとの密命をあたえた のである。妊娠している婦の名前は分からないが、産み月に当たっていたので、もし子供が産まれたら、その子を「速やかに国に送らしめよ」と命じた。筑紫の 各羅嶋で子供が産まれたので「嶋君」と云う。昆支は船に乗せて嶋君を送り返す。この子、なんと武寧王に即位。武寧王は故に「斯麻王」 (書記では)と書く。蓋鹵王の弟、昆支はなんであれ何らかの企みをもって日本に来たのである。昆支は朝廷に入ると蘇我と名のった。宋書が倭王を天皇ではな く、大王を記録したのであろう。実権をもつ覇者だとすると、宋書に言う倭王は百済王族の中に見いださなければならないだろう。大倭朝廷に使えた後の名前は 葛城襲津彦。蘇我氏の祖である。この琨支には5人の子があった。昆支は兄を百済王に持つ百済王族の出で朝廷にがっちり食い込んだ。

日本書紀 神功皇后49年では、比自ホ(ひしほ)・南加羅・喙国(とくのくに)・安羅(あら)・卓淳(とくじゅん)・多羅(たら)・加羅の7国を平定したとある。 卓淳(と くじゅん)は今の大邱(テグ)の古地名である。大霊の大伽耶に近いので、卓淳(とくじゅん)は大伽耶の東側に隣接する新羅領とみるべきだろう。さらに、比 利(ひり)・ 辟中(へちゅう)・ 布弥支(ほむき)・ 半古(はんこ)の西側4国が降伏し、百済王は大いに喜んで、自らを西蕃とし日本に朝貢することを誓ったと記す。この戦に勝利したのが、木羅斤資と沙沙奴跪 が精兵を率いた。ここでは「この二人は、その姓を知らざる人なり。ただ木羅斤資のみは、百済の将なり」と書いている。この戦には、沙白、蓋盧も合流、とも に、卓淳=大邱(テグ)に集結して新羅に攻め入った。と、言うことは倭軍と百済の連合軍ということになる。倭済同盟で伽耶から新羅軍を追い出したと言うの だ。このあたりは百済記より詳しいのは不思議だが、蓋盧は蓋鹵王(ケーロワン)だ。百済王が出陣したことになる。神功皇后記では、百済肖古王(166- 214)を同時代とするが、とんでもない。300年もさばを読んでいる。これは蓋鹵王と昆支が活躍した465年頃の出来事である。倭済同盟で一度は新羅か ら伽耶を救ったようであるが、 521-532 仇衡王 金官伽耶国滅亡であるので、これは伽耶復興の戦となる。しかし、新羅の再度の攻略で西暦562年、安羅伽耶(多羅)にあった任那日本府が滅ばされた。結局、百済本国が滅びる660年まで、倭済同盟は続いたのであろう。



*武寧王
23年(523) 春 2月に王が漢城にお出ましして、左兵・因友と逹率・沙烏などに命令を下して漢北 州・郡の民で年 15歳以上を徴発して双峴城(雙峴城)を築くようにした。
3月に漢城から帰って来た。夏 5月に王が死んだ。諡号を武寧といった。
二十三年 春二月 王幸漢城 命佐平因友。達率沙烏等 徴漢北州郡民年十五歳已上 築雙峴城
武寧王は名前が斯摩、あるいは「隆」とも言った。
牟大王の二番目息子だ。
背が八尺で目つきが絵のようだったし、
善良で慈しみ深くて寛大で民心がよった。
牟大が在位 23年に死ぬと王位に上がった。
春正月に左左苩加が加林城を根拠にして反乱を起こした。
王は軍事を従えて牛頭城に至って
扞率、解明に言い付けて討伐するようにした。
百家が出て降伏すると王は彼の首を枕にして白江に投げてしまった。

史論:
春秋に 『他人の臣下になった者は反逆する心があってはいけなくて[無将]、反逆すれば必ず殺さなければならない.』と言った。

苩加のような凶悪な逆賊は、天と地が受け入れないところであるところまっすぐにジェズ地なくて、これにのぼって自ら [罪を] 兔れにくさを分かって反乱をはかった後こそおかゆだったので時が遅かった。
冬 11月に逹率 優永を送って兵 5天命を従えて、高句麗の水谷城を襲った。




 天宗とは朝廷の宮祀のこと。「蘇我入鹿は朝廷の宮祀に叛き、奉仕しない。仏教にだけ荘厳な寺を造って、そこで衆議をしている。天宗(神道)を祭祀する朝 廷はこのままでは滅亡してしまう。」・・・つまり、と天皇家の危機ととらえた理由は仏教推進派が天皇の祭祀をないがしろにしているからだと言うのだ。

■蘇我氏の始まりが木満致将軍だとすると、蘇我石川宿禰の次に蘇我満智宿禰が系譜にある。蘇我氏の政略結婚は非常に多く、百済王家の余氏としては見捨てておけないことになる。蘇我満智宿禰禰石川宿
 ①蘇我稲目の娘で馬子と姉妹関係になる堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)が欽明天皇の夫人となる。
②堅塩媛の子の額田部(ぬかたべ)皇女は敏達天皇の后となる。額田部皇女は後の推古天皇。
③堅塩媛の子の大兄(おおえ)皇子が用明天皇となる。
④用明天皇は小姉君の子の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女を后とする。その子が厩戸皇子(聖徳太子)
⑤用明天皇は稲目の子の石寸名(いしきな)を夫人とした。
⑥小姉君の子の泊瀬部(はつせべ)皇子は崇峻天皇で馬子の娘の河上娘を妃とした。
⑦聖徳太子は馬子の娘の刀自古郎女(とじこのいらつめ)を夫人とした。
⑧舒明天皇は馬子の娘の法提郎媛(ほほてのいらつめ)を夫人とした。

592年,蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺、蘇我稲目の孫にあたり,敏達(びだつ)天皇の妃であった炊屋姫(かしきやひめ)を推古天皇とした。(推古天皇の宮は 最初,豊浦宮:とゆらのみや,後に小墾田宮:おはりだのみやに移る)そして,推古天皇の甥(おい)の聖徳太子が摂政となり,政治を行った。ここに、推古天 皇、聖徳太子、蘇我馬子という蘇我氏の血族による権力集中の政治体制が確立した。蘇我氏は日本に軸足をおいた外交を行っていた。聖徳太子の「和をもって尊 しとす」とは、三韓との対等外交を目指したのである。そこには日本民族の自立が既にあったのであるが、新羅に押されて危機にあった武王がそうした独立意識 の台頭を潰したのだといえよう。

644年11月、蘇我蝦夷・入鹿は甘橿(あまかし)丘にそれぞれ居を構えた。蝦夷の邸宅は「上の宮門(みかど)」、入鹿の邸宅は「谷(はざま)の宮門」とよんだ。甘橿丘からは都を見下ろすようになり、天皇の住居も眼下に位置する。
 家の周りには柵がめぐらされ,火災に備えて水槽も置かれていた。門には武器庫があり、常時私兵が警護していた。

しかし、そもそも、この時の皇極女帝が、百済・武王の娘・宝王女で、舒明の后として嫁いできたことを踏まえなければならない。はたして入鹿に刺客を送った のは誰であろうか。それは、百済の武王だったと思われる。推古のあと、後継を望んでいた山背大兄皇子を殺害、蘇我蝦夷の孫である田村皇子を天皇にしようと 虎視眈々と狙っていたことが武王の逆鱗に触れたのだ。そもそも、蘇我氏の祖は百済文周王の一将軍だった。かつての家臣が、百済王の娘を見下すようなことは 許せない。田村皇子を天皇の座につくことは百済王家にとっては謀反なのである。
宝皇女・皇極天皇の前で、蘇我入鹿は殺されたのである。皇極天皇は巫女的な側面を指摘されているように、百済神道を崇拝実践している。百済王家は仏教を崇 拝していたが、女帝みずからは、仏教をにがにがしく思っていたのだ。飛鳥寺=大法興寺(だいほうこうじ)の荘厳さと、そこでの百済人らの大集会は脅威に なってしまった。多くの学者が見落としていることは、蘇我本宗家が滅ぼされた乙巳の変(いつしのへん)は、百済の内紛であったのだ。そして、10年後、皇 極天皇は斉明天皇として返り咲き、656後飛鳥板蓋宮に移ったが火災にあった。焼き討ちにあったのだろう。次に、後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとの みや)に移った。この宮には、兵糧と武器が持ち込まれ奇襲に備えている。麓から石垣を巡らし、朝鮮式山城のような宮であった。多武峰(とうのみね)の2本 のケヤキの大木がある辺りに道教の「道観(どうかん)」を建て,「両槻宮(ふたつきのみや)」とした。この宮を天帝の宮殿である「天宮(あまつみや)」と もよんだ。 道教では「天宮」を仙人たちが住んでいる天上の宮を意味し、仙人の宮は不老不死の理想郷である。「槻(つき)」はケヤキの木で,特にその大木は仙人が宿る と考えられていた。多武峰に2本のケヤキの大木があり,その近くに宮を造ったと推測される。 亀形石造物の周辺には垣が巡らされた。後の時代,多武峰の山頂に藤原鎌足を祀った談山神社が建てられた。鎌足は百済武王が送った刺客である。実の名を百済 読みでカンダルという。談山神社と春日大社は、霊気に濁りがある。石山丘(いしのやまおか)などの亀石祭祀場の大造営は、入鹿を追放してはじめて可能に なったのだ。そこで、蘇我氏を潰された側の百済の職人たちからは、斉明の土木工事はすべて「狂心」(たぶれこころ)に思えたのだろう。
多武峰(とうのみね)に始めて飛鳥岡本宮に坐したのは舒明天皇だが、629年1月に舒明天皇は即位し、翌年(630年)10月、飛鳥岡(雷丘)のふもとに 遷宮し、岡本宮と称した。その6年後の636年6月、岡本宮は火災で焼失し、舒明天皇は田中宮(たなかのみや、現在の橿原市田中町)へ遷ることとなった。 ここに宮をおくということは、かなり天皇の身が危ない状態なのだろう。この宮は、宮殿というより城に他ならない。





○漢人(あやうじ)も渡海部族であった

 古事記の応神記には「秦造の祖」が参り来た、と書かれているのみ。応神天皇(ホムダワケノミコト)の世になって、海外の通行が頻繁になり、さまざまな人々が来朝したとある。*韓国(からくに)より、また禹域(ういき)より新風が吹きよせてきた。(韓国という表記は、”からくに”で朝鮮半島!)
 気になるのは「秦造之祖、漢直之祖、・・・酒を醸る人でニホ、またススコリ」と併記されていることである。というのは、この前段で新羅や百済からの来朝 はどのような人物が来たかまで比較的詳しくあげているのに、そのあと、この秦(はた)氏と漢(あや)氏らが一くくりに列記されているのは、華夏人(広い意 味で中国人)として箇条されたのではないだろうか。
 奈良の都には東漢氏(やまとのあやうじ)が南大和の高市郡飛鳥地方に居住していた。加羅六国のうちの一つ安羅(あら)国から渡海したと言われる。
奈良時代の末期で高市郡の人口の8~9割を占め、「人衆巨多にして居地溢狭」と記されるほどだった。彼らは馬韓の民と百済人だった。このとき、渡海した人々が今木 (いまき)神社をつくったが、奈良高市郡は今来郡が元名。今来とは「新しく来た人」というはなはだ単純な意味らしい。
「新しく来た人」というからには、「古く来た人」がいた。それらの人々は同類つまり「越人」であった。
一般には加羅からの渡来したから、すなわち北方騎馬民族と考えられてしまう。しかし、大和漢氏(やまとあやうじ)は、後、蘇我氏を軍事面で支えた。より古く出雲から連綿と続く蘇我氏とは反新羅で一致していた一族だった。

 この大和漢氏の祖・阿知使主(あちのおみ)はその子供・都加使主(つかのおみ)とともに17県の一門を半島から率いてやってきた。渡来した大和漢氏の 祖・阿知使主(あちのおみ)らは応神20年にやってくる。彼らは南半島に移住していた倭人(越人)であろう。その17年後、阿知使主(あちのおみ)は(応 神記37年条)半島を経て再び呉に出て行き、4年後に呉王から工女兄姫・弟姫、呉織、穴織の4人を与えられて戻ってきている。(41年条)これらの4人を胸形大神が乞われるので、奉じたとある。
九州の胸形大神は*隼人の奉ずる海神である。つまり、宗像氏は呉、江南方面から来た海部人であったのである。胸形は宗像神社の宗像と同じで、胸に入墨をしていた意味から来た。

 呉織(くれはとり)とは南中国の織物、漢織(あやはとり)は中国北部の織物を指す。呉織(くれはとり)は呉から来たので文字どおり。そして、漢(あや) は文字どおりに中国のことである。漢氏は摂津・三河・近江・播磨・阿波などの諸国に漢人村主(あやひとのすぐり)として分れており、隼人や他の倭人と連合 を組んで朝廷を支えていた。その大和漢氏の祖・阿知使主(あちのおみ)の子孫に坂上田村麻呂がいる。
ここに、応神天皇から始まった河内王朝のヒエラルヒーを支えていたのが、後の葛城・蘇我・漢氏(出雲百済系)、秦氏(新羅系)の他、隼人東征系などである。このうち秦氏だけは中国西域系であったことが間違いないことだといえるだろう。

*韓国(からくに) BC350年頃、中国戦国時代の六国のうちの一つ。北から順に燕(えん)・趙(ちょう)・斉(せい)・魏(ぎ)・韓(かん)・楚(そ)・・・・・秦は六国と対峙して魏の西にあった。
*雄略14年春「身狭村主青(むさのすぐりあを)等、呉国(くれこく)の使いとともに、呉のたてまつる手末の才伎、漢織(あやはとり)、呉織(くれはと り)および衣縫の兄媛、弟媛を将て、住吉津に泊る。この月に呉の客の道をつくりて、磯歯津路(しはつのみち)にかよわす。呉坂(くれさか)と名づく。」 (紀)とあり、呉織(くれはとり)は、中国の呉から伝来している。呉坂は住吉から河内和泉国の千沼・喜連村(きれむら)に通じる道。河内和泉国の千沼・喜 連村(きれむら)には呉から来訪した集団が住んでいた。あやはとりを中国北部、くれはとりを南部の衣縫技術であろことに疑いはない。

**坂上田村麻呂 征夷大将軍となり蝦夷征討を行う。正三位大納言に昇る。また、京都の清水寺を建立。(758~811)






 ○北斗七星とは?


なぜ、摩多羅神の頭巾に北斗七星があるのだろうか。この神様がターラー女神であろうことは前章で紹介した。ターラーが星を意味することは明かだが、北斗七 星とは直接結びつかない。多くの星々のなかで、北斗七星がもっともふさわしいということなら、いくら傍証をだしても、それは謎解きにはならない。そこには 神秘的で驚くべき理由があるに違いない。



ひとびとはそこに広大な宇宙を見て、宇宙との関り合いを確認した。当時、人間の直感はそのまま霊感であった。徳の盛んな人の耳には、そこに「陰、陽、気」の織りなす流転のリズム、つまり「調」が聞こえたはずである。
 さて、真北に向かっておよそ35度の高さをみると、そこに明るい二等星がある。北極星である。その北極星から少し離れてに7個の明るい星が、ひしゃく(斗)の形に並んでいる。明るさはだいたい揃っていて、中央のデルタ星以外は2等星である。それが北斗七星である。 北 斗七星はそもそも中国の学名で、日本では「七つ星」とか、「四三星」(しそうのほし)とか呼ばれていた。北極星は「一つ星」といっていた。この7つの星の さきっぽにあるエータ星をけんさき星といい、この位置で海上で時刻や方角を判じていた。この剣先星を破軍の星をもいわれ、この星の方角に兵を進めると必ず やぶれるといわれていた。四三の星を四三の剣ともいわれた。



 北斗七星は北極星のまわりを一日に一回転する。一時間におよそ15度づつ動く。昔の航海士たちは北斗七星のひしゃくの先っぽのけんさき星を見ては、子の 刻(0:00)だ、丑の刻(2;00)だと時刻をはかることができた。北斗七星のけんさきは「北斗の針」とか「北の空の大時計」と呼ばれていた。
 北極星は時計で言えば針の中心軸であり、北斗七星は針先にあたる。北極星を中心点として天が回るので、北極星は古来「不動」を意味していた。天の中央に鎮座し満天の星々を統べる北極星を北辰といい、中国ではこの北辰の神名を太一(たいいつ)といった。そして、同時に天帝であった。
貧狼星 トンロウセイ
巨門星 キョモンセイ
禄存星 ロクソンセイ
文曲星 モンコクセイ
廉貞星 レンジョウセイ
武曲星 ムコクセイ
破軍星 ハグンセイ



 さらに、原初の一点、元気をさして太一(太乙)ともいう。北極星において、マクロコスモスとミクロコスモスの両義性が現われてくる。

 「史記」の天官書では、天極星を「天帝」、神の常居(中宮)とする。屈曲した4つの星を、正妃、後宮の妃、周辺の12星を藩臣とし、「紫宮」または、 「紫微宮」とした。北方が紫とされ、最貴の方位、最高の色とする。漢の武帝は北極星を太一神として、最も尊い神として崇拝した。道教の天空観は、最高の天 の支配を北辰、北斗に置き、地上の皇帝をその支配と同一に見ていた。つまり、天の異変は、地上の異変のまえぶれと見なしていたのである。それゆえに、彗星 などが現われると世の中の乱れる前兆として受け止めたのである。そこで、天文学は政の重要な情報でもあった。道教の天空観は、政(まつりごと)の支柱と なっていた。北極星と北斗七星を軸にして中国の王権をささえていたのである。星宿と四神が描かれていたキトラ古墳・高松塚古墳には、すでに中国の帝王学が いかに日本に浸透していたかを証明している。



 こうした漢帝の政(まつりごと)は伊勢神宮の神事において、太一(北辰)を天照大神(あまてらすおおみかみ)、北斗は豊受大神(とようけのおおかみ)に みごとに習合しているように見受けられる。五穀豊穣を引き受けるのは豊受大神(外宮)。伊勢神宮別宮・伊雑宮(いざわのみや)での御田植祭の竹取り神事に は天帝の別名、「太一」と書かれた軍配うちわ(俗称)が空中高く掲げられる。 
 神宮最大の神事である20年に一度の遷宮に関連した杣始祭(そまはじめまつり)にも太一の文字の幟(のぼり)がたつ。そのほかにも伊勢神宮の習俗ではこの太一の文字がさまざまなところに登場するという。太一とは、文字通り北極星である。



 神嘗祭(かんなめさい)は旧暦九月一六日(10/22 0:00)「子の刻」、一七日の「午の刻」(10/22 12:00)に行われ、北斗七星の剣先 がそれぞれ真北、真南にある時に執り行われる。 宇宙(天)に聖なる構図が描かれている時刻を選んでいることになる。
 ついで、七月の二二日子の刻、二三日牛の刻でこんどは真西、真東をさすときに、月次祭(つきなめさい)が行われる。子の刻に剣先が四方にちょうど配した 時そこで天地をつなぐわけである。北斗七星がみごとに秘儀として立ち現れてきたことには驚嘆せざるをいえない。それらは壇を宇宙大にした儀式ともいえる。 摩多羅神が北斗七星と同一視すると、最高位の女神となってくる。





○北極星はこぐま座、北斗七星はおおくま座


 ギリシャ神話では美しい妖精カリストとされる。ゼウスの子を身ごもった美しい妖精カリストに嫉妬した后ヘラは怒って、カリストを醜い熊のすがたに変えて しまった。カリストの子アルカスはやがて狩人になり、姿を変えられた母とは知らずに熊を殺そうとする。それを見たゼウスは、カリストを哀れんで子アルカス も熊の姿にかえ、ともに天にあげて星にしたという。子アルカスはこぐま座に、母カリストはおおくま座になった。

ギリシャ神話ではゼウスが不倫をして、妖精カリスト女神を妊娠させてしまった。
そこで、妻がおこって熊に変えてしまう。 サクソン族の女神ウルセルは雌グマであったと言われている。






○北斗七星とアイヌの神話


 1949年に旭川の末岡外美夫氏から報告されたというアイヌの神話を紹介する。昔、サマエンの神がクマをしもべに使っていたが、これが神にそむいて、そ の宝にしていた犬を殺して食ってしまった。神はひどく怒ってクマを捕らえようと弓とブシ(毒草)の汁を塗った矢をもって追いかけたが、クマは笹藪に隠れて いて、神がそこを通るうしろから、強い腕でなぐって逃げた。さすがの神もその痛みで大地に寝ていたが、メノコ(女)が捧げてくれた酒を飲んで元気を恢復 し、再びクマを追っていった。クマはこれはかなわぬと思ったので、サマエンの神から盗んで持っていたオヒョウ(木の名)の苗を地に植え、それがずんずん空 にのびるのをよじ昇って、逃げにかかった。これを見つけた神は、腰の痛さをこらえながら、オヒョウの木を根こそぎ倒して、落ちてきたクマを殺してしまっ た。この神が天に昇って星(ノチウ)になったのが、サマエン・ノチウ(北斗七星)である。(星の神話・伝説集成 野尻抱影から)

北斗七星が熊と結びつくのはギリシャに淵源があるので、こういったアイヌ民族の神話も見逃せない。



○北斗七星は母クマの女神


 北斗七星がなぜ、クマと結びつくのかは大きな謎であろう。
ギリシャ神話カリストがクマに変えられた神話は、じつはもっと古くからの元型なのに違いない。
ギリシャ神話では、北斗七星は明らかに雌のクマであること、しかも、子をもった母クマであり、母性を象徴している。つまりは、太地母神の変形がそこにあるのである。母性こそが万物を生み出す力の源泉なのだろう。母熊は、子育て中にあるときは、雄の熊さえ寄せ付けない。




○ギリシャ文化は日本的だった



○イナンナ女神がヴィーナスの始め 

  ルーブル美術館の、あのミロのヴィーナスはヴィーナスではなく、アプロディアという女神だった。ルーブル美術館はメロス島から出土した像をなぜかミロの ヴィーナスと呼ぶようになり、それが今日まで定着している。今日のギリシャの歴史からはローマのヴィーナスではなく、キュプロス島のパポス神殿の放縦の女 神アプロディアであると考えるほう正しい。しかし、こんにち、アプロディアが「ギリシャのヴィーナス」といわれるようになったので、ルーブル美術館はミロ のヴィーナスの名前を変えようとしない。

 ヴィーナスとはもともと母なるウェヌスと呼ばれる女神で欲望と愛の交わりを司る女神であった。いわゆる縁結びの神である。そもそも15世紀末からおこっ たルネッサンスは、ギリシャ時代の女神のパラダイムの復興であった。そこで、15世紀のフィレンツェにおいてサンドロ・ボッティチェリが描いた名画 「ヴィーナス誕生」は、ホタテ貝のなかから一糸もまとわない肉感的なアプロディアのイメージを描いた。ホタテ貝はクテイスというギリシャ語で女性器の意味 もあった。この女神は性的行為において人を満足させ、異性愛ばかりか同性愛にも恵みを与えていた。
 アプロディアがヴィーナスと呼ばれるようになって久しく、この2つの女神の名前はもうすっかり同じものとされるようになった。
 アプロディアは海から誕生し、ホタテ貝、イルカ、鳩などの表徴をもっていた。また、海の守り神として崇拝された。ルーブル美術館にあるイルカに乗ったアプロディア像(紀元前3世紀)は、そのことをよく示している。

愛と戦いの女神イナンナ

シュメール イナンナ
エジプト ハトホル
バビロニア イシュタル
カナン アシュタルト
ギリシャ アフロディーテ
ローマ ヴィーナス


天神アンの祖孫、
エンリルの娘、
イナンナ(イシュタル)は、
エンキの息子、
ドゥムジと結婚した。(シッチン・スタディー
から)

エジプトではハトホルは牛神ハルと結婚した。



 女神の時代の神殿は神聖な巫女がおり、それぞれ性的な饗応、奉仕を行っていた。キュプロスのパポスの神殿では放縦ともいえる愛の奉仕と恵み与えていた。 ローマの高官たちはそれらの地域を支配したことに、さぞかし満足したに違いない。日本でも奈良時代までは巫女と遊女が分離していなかった。江戸時代まで、 巫女が「あそび」と読み、称され、遊女を兼ねていたのは事実。江戸時代の十返舎一九作「東海道中膝栗毛」は、弥次郎兵衛・喜多八が旅行する滑稽話だ。弥次・喜多道中の目的地は伊勢であった。一生に一回は伊勢詣をしたいというのが庶民の願望だったといわれる。伊勢詣が全国的に盛んだったのはなぜだろうか。「伊 勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」と、言われたが、この意味はじつに過激である。これは「伊勢は女淫でもつ、女淫は伊勢でもつ」といった意味だった。この津 とは、港の意味だと、ちんぷんかんぷんになってしまう。「つ」を、アイヌ語の女性器の意味とすると、はっきりとした意味になる。伊勢は、一大遊興地であっ た。「津」とは、巫女遊びの「裏言葉」だった。巫女は儀式や神楽をするばかりでなく、神あそびの相手もしていたのである。
 「神殿を汚すもの」とイエスが呼ばわったのはじつはイスラエルでも神殿売春が一般的にあったからといえる。愛神・パポスの女神、アプロディアは新床にい ざなう神、男女を包み込み結びつける神、性の喜びを与える神、つまりは性愛の神であった。娘がひきつけたい男との恋の成就を祈り、男は求める娘が体を自分 にまかせるように祈ったのであり、女神の与えたものは男性への無私の奉仕でもあったのであろう。




 ディズニーのアニメ「ピノキオ」では、ジムニーが「星に願いを」を歌うが、その歌詞はあきらかに、女神への乙女心の祈りであり、それが星に結びつく。

When You Wish Upon A Star
Lyrics:Ned Washington


星に願いをかけるには
身分も立場も関係ない
欲しくてたまらないものが
きっと手に入るわ

夢みがちなハートには
どんな望みも高望みじゃない
ひたすら星に願うの

運命の女神は
恋するものに親切
胸に秘めた願いを
ちゃんと実現させてくれる

思いもよらないときに
運命があらわれてあなたを助けるの
星に願いをかければ
きっと夢がかなう




 この歌詞は明らかにサクソン族やケルト族のヨーロッパ源流の古代思想が反映している。ここでの運命の女神は、恋する男性と新床をもたせるゼウスの后ヘラか、アプロディアを連想させる。


 ギ リシャの植民市コリントスにあったアプロディア神殿では、市民による神殿娼婦の奉献があった。彼女たちは、洗練された美貌と教養、歌舞を心得ていた。ま た、祭礼の祈りや、行進儀式に加わる巫女でもあった。神殿儀式は巫女たちが音楽や奏で、香をたいたりした。アプロディア神に願いをかける市民は捧げる牛を 引き連れて祭殿にもうでた。そして、その牛を供犠として殺し、その血を祭壇に振りまき、牛をさいてその一部をささげものとした。そのあと、牛を焼いて、そ の肉を皆に振るまった。こうした儀式で豊作祈願した種は持帰って春先にそれぞれの土地に蒔いた。



 こうした紀元前のギリシャの風習にたいして、今日では欧米人よりも日本人のほうが直裁に理解を示すと言われている。男性が女装してパブリックなテレビに 出演したり、女性が男装するオスカルで有名な宝塚など、日本人はまだまだ公な場所での性的な表徴にまだまだ陽気な一面をもっている。これらが倒錯として非 難されることはない。神奈川県の川崎市には男根祭があるがヘルメス神の像に近いものであるといわれている。エフェソスのセルジュク考古学博物館にはベス神 といわれる巨大な男根をもつ像がある。ボストン美術館には巨大な男根に油を注いでいるプリアポスという神のブロンズがある。
日本人はユニセックス的であり、好色であること、そのことに対しては寛大であった。そこにきわめて古代意識が濃厚に残っているのである。
遊牧民は雄と雌をはっきり区別する傾向があり、言語も男性名詞、女性名詞とに別れ、変化する。もちろん、日本語にはそういった区別がない。日本人のユニセックス性は古代思想を温存していることから来ている。



 ヘレニズム期のギリシャの祭りも放縦であったが、日本でも江戸時代までの風俗史ではじつにおおらかな放縦ともいえる風習があった。
女神の儀式や神殿はそれなりに性的であるとされる。

  ルネッサンスがおこり、それ以来、若く性的な魅力に富んだ裸婦画の系譜に脈々とながれているのは、キリスト教の抑圧からの自由であるとともに、ヨーロッパ 民族の本来の意識であり、非ユダヤの系譜にあきらかに繋がっている。ディツィアーノ、クラナハ、ゴヤ、ビアズレー、ルノワール、モジリアーニ、マチスの裸 婦のなかに愛神ヴィーナスがいる。ルネッサンスは女神たちの復興でもあったのだ。母権制時代の太地母神タラや典雅女神ヴィーナスなの古代の神々が蘇って来 たのである。太古の女神は魔女にされて以来、中世のキリスト教暗黒時代には魅力的な女性ほど密告によって魔女裁判にかけられ、火刑にされた。

 近年では、ヒトラーがアーリア民族の優越を唱えたとき、神話に閉じこめられたチュートン(ゲルマン)民族が支配者民族であるという神話がいっとき一世を 風靡した。一見、物語にすぎない神話が人々を酔わせ、熱狂させた。そこには古代意識が「元型」が根底的に残存していることを証している。人々の中に眠る共 通の神話というものをとらえて、ユングは元型論を思いついたといえよう。フロイトはユダヤ人だったが、ユングは非ユダヤ人であった。この二人の精神分析家 が無意識という領域に互いの意見を交わす間に、はっきりと違いがあることに気づくことにそう時間はかからなかった。



○女神の系譜


 女神の起源は2万5千年もまえ、氷河期の時代から発見される女性の裸像の肖像に見いだせる。絶滅したマンモスの牙で造られた丸く豊満な姿のレスピューグ のヴィーナスと呼ばれる。このギリシャでアプロディア、またはアフロディティ女神の起源は、エジプトのハトホル女神であった。ハトホルの特徴は、頭上にあ る牛の角と日輪である。エジプトで輝ける美しい女神で、愛と豊穣、踊りや芸能の神あった。
ハトホルは、シュメールではイナンナ、前2000年、そこからバビロニア、アッシリアでイシュタル女神となった。イシュタルは宵の明星金星を表徴する。イ シュタルもまた神聖娼婦を従え、去勢された神官が仕えていた。イスラエル人たちが信仰したとき、「アシュトレト」という名前になり、ギリシャで発音ができ ず、なまってアプロディアと呼ばれるようになった。この系譜の女神は金星を頂くことで共通する。愛が交わるとき、宵の明星・金星アプロディアが守護するの である。星と女神が結びついているのは、ひとりアプロディアだけではないだろう。北斗七星もきっと女神と結びついているに違いない。




○ゼウスの系統のアルテミス


 アルテミス神殿のあったエフェソスは小アジア、トルコ半島の先端でギリシャの都市国家であったが、ここにはイスラエル人の大居留都市でもあった。聖ヨハ ネは晩年をこの地で送ったし、また、聖パウロは、エフェソスに三年間布教しており(第3次伝道)、このときアルテミスを信じる人々が怒り、暴動をおこした と伝えられている。


  エフェソスは、処女神アルテミスを信じる地母信仰のメッカだった。アルテミスは処女でかつ豊饒の神であり、狩猟の神でもあった。紀元前6世紀にたてられた 「アルテミス神殿」は古代七不思議の一つに数えられており、エフェソスは小アジア屈指のヘレニズムの聖地だったといえる。アルテミスはオリンポスの神々の 立派な地位にあり、アテネ女神、ヘスティア女神(炉の意味)とともにギリシャの三柱の処女女神であった。アテネ神は5世紀以前のパルテノン神殿の祭神であ り、梟(ふくろう)に化身し、かつ水を象徴する。ヘスティアは炉の女神であり、火を象徴する。




○アルテミスは熊に化身する


 アルテミスは、乳房をたくさんもっており、また、その姿をよく動物に変える。そのうち最もよく知られているのが、クマであった。北斗七星は女神アルテミ スの雌クマとして崇拝されていた。アルテミスは太母神タラの変形である。摩多羅神が女神で、北斗七星を頂くターラーだとすると、アルテミスと非常によく似 ている。摩多羅神がギリシャの女神アルテミスが源流であることは、北斗七星が結びつける以外に、これといった証拠はない。しかし、女神と熊と北斗七星は、 なぜかアルテミスにおいてすべて一体となっている。



第九章

<続く>

 HOME-TOPへ