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幻の楽浪国と倭国


倭人の源流は長江から南沿岸部にある。稲作技術をもった百越の民は、周代の半ばごろ山東に北上し、除夷と呼ばれた。さらに遼西に移り住んだ。渤海湾に流れ込む灤河(란하)ナンハ河口から黄海沿岸をつたいながら韓半島中部に達し、4世紀に一気に対馬海峡を渡って日本列島にやって来た。長江から、3000年を経て倭人は断続的に九州に渡海しているのである。こうした長い中継点を経ながらも倭人は徐々に日本列島に集中した。なぜ、日本列島に倭人だけが渡海してきたのかというと、遊牧民族は海は不慣れで集団で渡海するのは不可能だ。民衆が小さな船を操って、沿岸沿いに移動するのは海神(わだつみ)の民だけだったのだ。扶桑国があって、そこは東の仙郷であることは倭人には2000年前からすでに広く知られていたのである。


第一の倭国(浙江省・福建省の沿岸部)=会稽倭国

「周のとき、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸を貢す。」(後漢・王充の論衡 巻八・儒増篇)・旧唐書での「北虜南倭」の倭人は浙江省と福建省の海岸沿いにあった百越の民。周の古公の長子太伯と虞仲は*洛陽から荊蛮(けいばん)の地に出奔した。漢書地理志では「交阯(ベトナム北部)から会稽(かいけい、浙江省)に至る七、八千里、百越雑居し、おのおの種姓あり。」の会稽郡(かいけい)は江蘇州(こうそ)と浙江省(せっこう)と福建省(ふっけん)かけてあった郡である。そこに倭人がたくさんの小国を作っていた。山海経に謂う「憺耳・朱崖」の両郡は「交阯(ベトナム北部)から会稽(かいけい、浙江省)に至る七、八千里」の範囲にあると見ていいだろう。

「憺耳・朱崖」は耳(ěr)は委(wěi)とBC100頃は同じ発音だった。憺耳(dàněr)朱崖(zhū)は地名、「如黥委面」は倭国の古い国名。

第二の倭国(河北省および山東省・遼西の南西部)=斉・趙

そこは冀州と言われた古の九州の一つ。今の河北、山西の二省および河南黄河以北、満洲遼寧省遼河以西の地。

 第一の倭国から周の武王のとき、軍師「太公望」に率いられ北上、「斉」を建国。山東省淄博市に東部最大級の国都があった。倭人は斉を拠点にして黄河を渡って、渤海湾に面した地域に龍城国を作る。ここで遼東の扶余と初めて接して、扶余族の圧迫を受けるようになる。(BC100)(らい、 - 紀元前567年)は、春秋戦国時代まで存在した国。姓は不明、爵位は子爵。現在の中華人民共和国山東省に位置した。この地域の多くが莱人(ライ)だったと謂うので、太公望は莱(ライ)と戦いこ、れをを制圧し、倭人の国を建てた。
宋書の「夫楽浪海中倭人分為百余国以歳時来獻見伝」の倭国はこの河北省と山東省にある。斉と同一地域。これを第二の倭国と呼ぶ。
第二の倭国は太公望の立国した斉と重なる。太公望は倭人の英雄だったのか。

斉は倭人と白人の混血種

 前十一世紀、太公望呂尚によって山東省に建国された斉は,15代をえて、前7世紀,桓公のとき,名宰相管仲を用いて,国力を強め天下に覇をとなえた。しかし、桓公の死後,その勢力は急速に衰え,一時,これまた名宰相のほまれ高い晏子を用いて国威を盛り返すかに見えたが、やがて,臣下の田氏が権力をもっぱらにし、ついに斉王の地位を乗っ取るにいたった。田氏の斉,つまり田斉となってからは,文化が栄え,威王、宣王の代には学問のメッカ、百家争鳴の中心地となった。国都臨?(りんし)は戸数7万、街のにぎわいは『肩と肩がふれあう』(史記より)ほどだったという。しかし、その後、燕との戦いで大敗北をしてからは次第に衰え、前221年、秦に滅ぼされる。

太公望呂尚は実在した人物であり(師尚父とも呼ばれている)、紀元前11世紀に後に周王朝を建国した文王とその息子武王の軍師となった。(その王朝西周は1122-771BC続いた)長い年月の間に太公望に関しては多くの伝説が生まれた。その物語はいろいろな書物に残された。

太公望呂尚は斉(現山東省)の領主になり、彼の統治の下、魚や塩資源をベースとした国土開発と近隣との交易で繁栄した。これぞ、倭人の特技と言えよう。
魚と塩の交易は扶余など朝鮮内陸国には輸入に頼る必需品であった。塩はしばしば投機的な動きよって高値を呼ぶこともある鉄と同じように高価なものだった。

■最近の考古学では山東省にはコーカサス(白人)が雑居していたことが分かった。

山東省博物館の考古学及び中国古生物分子遺伝学研究所は、山東省の新石器時代におけるブンコウ文化時代の遺跡・春秋時代の山東省古墳群にあった古代人の遺骨中から採取した遺伝子標本に対する鑑定の結果、次のように表明した。

儒教の発祥地である山東地域に、新石器時代から春秋戦国末期に至るまでの間、土着していた人類の特徴は、明らかにコーカサス人(白人)である。

ここから推して知るべしだが、儒教の創始者である孔子も疑うことなくコーカサス人としての性質が混じっていたというべきである。

 それから隋唐の時期に至るまで、山東の土着民の特徴は、コーカサスとモンゴロイドの混合系(現在の新疆人のような白人と黄色人種の混合系)へと変化していった。

2000年、東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝 WANG Liらは、約2500年前の春秋時代、2000年前の漢代の中国山東省の遺跡から出土した人骨の比較研究の結果を発表した。

約2500年前の春秋戦国時代の山東省住民の遺伝子は現代ヨーロッパ人の遺伝子と非常に近く、2500年前にユーラシア大陸の東端に現代ヨーロッパ人類集団と遺伝的に近縁な人類集団が存在していたことが明らかになった。

太公望呂尚は倭人とコーカサス(白人)の混血人の可能性もある。このモンゴロイドは倭人であったと思われる。
その根拠は倭人が古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを大夫と称している。(魏氏倭人伝)この官職は周代のもので、魏はなぜ、斉より古い官職名をいまだにそのまま使っていることに驚いた。日本は移民国家である。殷・周の制度・生活習慣を持ち込んだのだのは斉にいた倭人が多数避難してきた。倭国は巫女君がいなければまとまらないのだ。殷は国家のことはすべて卜占によって執行されていたのだ。倭国の最大の功労者は斉の徐福、つぎに斉という倭人国家を造った作った太公望呂尚、次に卑弥呼だったと信じられる。
 女性だけに遺伝するミトコンドリアDNAは、何千年たとうとも同一の母から出生したことを証明できるが、コーカサスの女性と日本人の女性が同一のミトコンドリアDNAであったことが<医学>的に証明されたことがある。日本人のなかには、白人種との混血民が多い。人種と民族の平面は同一ではない。この平面は重なり合っているが、日本人を人種としては多様であったということを踏まえなければならないだろう。

『三語集』における太公望の話

 漢の国に伝わっている話で、冀州(きしゅう)の大公房(太公望)、姓は姜で名は子牙である。
質朴で正直な人で、学問を好む人である。
殷の末に、世が乱れて、暮らしを立てるためのてだてがなかなかかなわない。市にキノコを売ろうとするときに、大きな风が吹く天候に遇った。牛を屠り、生計に当たろうとすると、非常に熱い天気に遭った。米を煮た汁を売ろうとするときに天候が寒くて売れなかった。ご飯を売ろうとしたら、豊年で売れなかった。運が悪くて、常に、出世できなかった。その妻である高氏はついに子牙のところを去って行った。西方にある周という国に、ある聖人(文王)は(子牙が)磻溪谷に至って釣りをすること聞いた。

文王が子牙を見て聞いた。「なぜまっすぐなハリを使って、魚を釣っているのでしょうか」と。(子牙が)「命令にそむく魚を釣っているのです。」と言った。「あなたには子供がいないでしょうか」と文王が聞いた。「紂が今は王である」と文王が言った。「紂は道徳にそむく王である」と子牙が答えた。文王は(子牙が)賢人だと心得て、同じ馬車に乗っていっしょに岐洲に帰った。

桓旦公に封じ、後で(子牙が)太公となった。文王が死んで、武王が立った頃、軍隊を率いて紂を伐ったとき、(子牙が)先鋒となった。又、斉候に封じられた。斉のところに一人の老婆が前の夫を泣いているのを見た。

「(あなたの)前夫は誰ですか」と子牙が聞いた。「前夫の名前は姜子牙です」と老婆が言った。「その人は私ですよ」と太公が言った。老婆が(それを聞き)「夫婦になるべきです」と喜んで言った。「あなたは一杯の水を持って来て」と公が言った。まもなく(老婆が)持ってきた。公は(水を)大地に傾け、老婆に水を取り戻させた。老婆が言った、「水が土に入って、元に戻すのが難しい」と。公が「一度恩愛囗囗囗囗この水のようだ」と言って、つづみを打ち鳴らして去っていった。その老婆が恨み恥ずかしくて死んだ。道端の行く人がそれを嫌って、上に土を積んで、ついに大きな丘になった。そのときの人が「無知な高氏老婆の塚である」と言った。

 


山海経に謂う『蓋国在鉅燕南 倭北 倭属燕』は第二の倭国。蓋国(がい)は、夫余(ぷよ)族である。扶余は大燕国の南、倭国の北にあり、倭国は燕に属す・・・という意味になり、扶余の南側、すなわち河北省の地域になる。漢の定めた初めの楽浪郡に倭人の国々あった。孔子・孟子・孫子・諸葛亮など「斉」から出ている。民は漁業と製塩で暮らしていた。

第二の倭国の位置(倭国は燕国に属し、北側は扶余だった。この場所が多婆那国=倭人の国である)

昔氏は龍城国(朝鮮では多婆羅国と称した)から海路秦韓に南下、新羅4代王となる。多婆那国は倭 国の東北1000里であるとされ、昔脱解(ソクタレ)は倭人であると看做されていた。(『三国遺事』脱解王)
(AD20)昔氏は第二の倭国の倭人である。『阿珍浦(アチンポ)伝説』はこの第二の倭国の神話である。昔脱解(ソクタレ)は龍城国滅亡後、海を渡って金管伽耶に入ろうとしたがすでに金首露がおり、勝敗がつかず、雞林の東の下西知村阿珍浦に迂回して、雞林で朴氏の婿となり王位に就いた。

三国志魏書 東夷伝 扶余。
夫餘はもと玄菟に属す。漢末、公孫度海東に雄を張り、外夷威服し、夫餘王尉仇台さらに遼東に属す。句麗・鮮卑強なる時、夫餘二慮の間にあるを以って、度、宗女を以って妻となす。

*宗女 魏志倭人伝に『彌呼宗女臺與年十三王』とある。臺與は卑弥呼の後である。臺與は宗女と呼ばれている。

扶余は昔玄菟郡に居たが、公孫度が遼東に進出すると、扶余は遼東にさらに領地を増やした。高麗や鮮卑が強力な時、高句麗と鳥桓(鮮卑)の間に位置して危険なため、公孫度は宗女を尉仇台に与えて婿とした。はじめに、遼東にあった扶余は高句麗が遼水を渡って攻め込んだため、遼西に移動した。遼西には倭人の国があったと考える私は、遼東を追われた扶余が遼西の倭国と連合させたのだろうと思われる。ひとつ、「阿扶余」という新国家が誕生した。「阿」という冠をつけた扶余である。すると、広開土王碑の「阿残」とは阿扶余を、「百残」はウィレソンの河南百済だと示すことが可能だ。


紀元前6Cの東夷諸国図 第二の倭国推定地(黄河の北までを含む)倭人は、除夷とあるところに呉から移動してきた。さらに、黄海を渡り、次の地図の滦河(らんが)流域に移動した。


■扶余と接していた倭国は昔、呉越からやって来た。


■倭国は、滦河(らんが)流域から遼河流域にあった。



第三の倭国(朝鮮半島・帯方郡)=帯方倭国=楽浪公国=大漢國=汗国

魏志倭人伝の「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 」の倭は楽浪郡(帯方郡)にあり、これを自郡と呼び、邪馬壹國を従郡と定義すると、魏志倭人伝は矛盾のない読み方ができる。倭人伝『自郡至女王國 萬二千餘里』の自郡とは幻の楽浪国(ナンナングッk)だった。この民を楽浪人といっていた。
魏志倭人伝の「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」は、この帯方郡にあった倭国で九州ではない。これを通称で帯方倭国と言うことにする。

明帝は、帯方太守と楽浪太守を派遣して、諸韓国の臣智には邑君の印綬を加賜した。魏の帯方太守は国邑の王に印綬と巾責をあたえたが、その数は1000余人もいた。その中にあって、卑弥呼は金印紫綬を徐せられ、とくに帯方太守に任じられたのでる。従って、楽浪国の大王は卑弥呼だった。そして、帯方の元王険城(ワンゴムソン古朝鮮の王都)に卑弥呼の神殿はあっただろう。

*王険城(ワンゴムソン) 古朝鮮の王都 漢に攻められBC108年に陥落する。古朝鮮の滅亡。


第四の倭国(馬韓辰国・月支国の民)

韓と国境を接していた倭国 倭人が馬韓を割譲してもらった。辰国は380年頃までは健在だった。
馬韓伝によれば、文身した民がいると書かれている。馬韓の倭人は阿人と書かれ、船をたくさん持っており新羅を船で攻撃している。
馬韓の倭人は船をたくさん持っていたので、日本列島に7C半ばには水路で日本列島にすべて亡命難民として移動し終えた。

『三国志魏書』東夷伝 馬韓
 景初中、明帝密かに帯方太守劉[日斤]・楽浪太守鮮于嗣を遣わし海を越え二郡を定む。諸韓国の臣智には邑君の印綬を加賜し、その次は邑長を与う。その俗、衣[巾責]を好み、下戸の郡に詣りて朝謁するは、皆、衣[巾責]を仮し、自ら印綬・衣[巾責]を服するもの千有余人。部従事(役職)呉林、楽浪もと韓国を統べるを以って、辰韓八国を分割し以って楽浪に与う。吏訳転じ異同あり、臣智激し韓忿り、帯方郡の崎離營を攻める。時の太守弓遵・楽浪太守劉茂兵を興しこれを撃ち、遵戰死し、二郡遂に韓を滅ぼす。
ここで、楽浪郡が辰韓八国を楽浪郡につけようとした。辰韓の部族長はこれに反抗して帯方郡の郡治を攻めた。
この反乱は馬韓辰国の国邑が起こしたのだろう。卑弥呼に帯方太守を再度任じて収まった。

第五の倭国(九州北部)=第四の倭国の勢力圏

 卑弥呼の都督は筑紫平野が尽きるあたりまで。燕の植民地。卑弥呼が帯方太守として邪馬壹国を支配していた。筑紫の伊都国に政務所をおいて北九州一帯を支配。





檀君の妻神女

檀君タングンの妻神女シンニョは、王険城(平壌の南近く)西方の大同江に沿った非西岬(ピソカプ)地方の種族長河伯(河伯とは、元来、河を支配する水神の意である)の娘であった。神女は上品で容姿にもすぐれ、近隣の他種族にも広く知れ渡った娘であった。神女の噂は、平壌地方のパクタル族の酋長檀君の耳にも入り、やがては彼女のことが忘れられなくなった。

当時、毎年春ともなれば、大同江岸の原野では種族・氏族間の狩猟競技が盛大に催されていた。麒麟馬にまたがって競技に出場した檀君は、ここではじめて神女に出会った。飛び立つ雁のようなすらりとした姿態に、十五夜の月のように明るい顔立ち、恥ずかしげに自分を見つめる濡れた瞳、何かをささやくかのような小さな口元。見るほどに心を引かれる娘であった。競技で優勝した檀君を祝って喜ぶ神女。二人の視線がぶつかってからは、月影の下で愛をささやくまでになった。

恋心が深まるにつれて、神女には一つの心配事が頭をもたげた。当時パクタル族連合体の勢力はいよいよ拡大して、近隣の氏族や種族を次つぎに統合していた。非西岬種族ももちろんその対象であった。神女は檀君の意図を知り、恋人の決心を強く支持
しながらも、父親が自分たちの結婚を許さないのではなかろうかと恐れた。

檀君は、愛する神女の父親の配下にある非西岬種族を何とか平和裏に統合できないものかと考え、礼節が正しく弁舌巧みな部下朱因チュインを非西岬の族長河伯のもとへ送った。

朱因は河伯に檀君の挨拶を伝え、多くの青銅製琵琶型短剣や金銀の装身具を贈ったうえで、両種族間の連合の必要性を説き、檀君と神女の婚姻問題にも触れた。高価な贈り物を差し出し、ねんごろに説き進む朱因の慎ましやかな態度に河伯は感嘆し、この一帯で最も権威がある種族連合体の酋長パクタルが娘の配偶者になると思うと悪い気がしなかった。

パクタル族と手を結べば、非西岬族は安泰であり、娘にもよいと考えたからである。河伯は娘の婚姻に同意し、その秋、豊年を迎えた両種族は、檀君と神女の結婚式を盛大に挙げた。

檀君の妻となった神女は、周辺種族との連合を拡大する檀君の活動を物心両面から助けて建国の大業に大きく寄与したばかりか、息子の夫婁プル、夫蘇プソ、夫虞プウ、夫余プヨの4 人を生んで立派に育て、檀君の代をしっかりと継ぐようにした。長子の夫婁は、国家の全般的管理と事務を統括する虎加の官職について活動し、檀君の死後古朝鮮の第2 代王となった。次男夫蘇は鷹加(刑罰担当長官)、3 男夫虞は鷺加(保健担当長官)、4 男夫余は狗加(地方担当長官)の官職をもって檀君の活動を補佐した。

『1993 年、平壌市江東カンドン郡にあった檀君陵では、檀君夫妻の遺骨が発掘調査された。遺骨は石灰岩地帯の湿気と地下水の影響を受けて、かなりに化石化した68 個の骨からなっていたが、主に男女の腕、脚の骨と骨盤であった。男の骨は檀君のものであり、女のそれは妻神女のものであった。骨を鑑定した結果、檀君は背丈の高い立派な体格の人物であり、まれに見る長寿者であったことが判明した。一方、檀君の妻はかなり若い年であったとわかった。このことから檀君は実在した人物であり、檀君の人生の伴侶神女の存在も確認されたのである。』 

朝鮮民主主義人民共和国の民族文化遺産保存政策によって、1994 年に作り直された檀君陵(高さ22m、底面の1 辺の長さ50m)には、檀君とその妻神女の遺骨が原状通りに保存されている。
このように神女は、朝鮮民族の始祖檀君の妻として檀君陵と共に後世に長く伝えられることになった。



 東明王の母親柳花

柳花リュファは、朝鮮チョソン史上最も強大な国であった最初の封建国家―高句麗コグリョ(前277~668)の建国者高朱蒙コジュモン(東明トンミョン王)の母親である。
彼女は前4 世紀末、河伯ハベク(水神)の長女として生まれた。『旧三国史』は柳花の娘時代を次のように記している。
河伯には3 人の娘がいた。長女柳花、次女原花ウォンファ、女葦花イファは、いずれも美貌の持ち主であった。当時、龍車に乗って熊心ウンシム山に降りた天神の子解慕漱
ヘモスは、扶余の故地に国を建て、午前中は政事を処理し、夕刻には天上の宮殿に昇って行くので、人々は彼を「天の国の王」と呼んだ。

ある日、3 人の美しい娘が熊心池のほとりにやって来て遊んでいるのを見た解慕漱は、あのうちの一人を后にすることができれば、多くの孫子に恵まれるだろうと側近にもらした。すると側近の一人が、本当にそのおつもりなら池のほとりに宮殿を建て、娘たちが中に入るのを見はからって、内々に会えばどうでしょうか、と進言した。

解慕漱はそれはいい考えだとして、手にしていた鞭で池の近くに縦横いくつかの線を引いた。すると、たちまちのうちに立派な宮殿が出来上がった。宮殿を見て中に入った3 人の娘は、酒を酌み交わしながら嬉々と遊びたわむれた。彼女らがほどよく酔ったのを見計らって、解慕漱は部屋の中へ入った。娘たちは驚いて逃げ出したが、長女の柳花は解慕漱につかまってしまった。

二人の娘から訳を聞いて憤慨した河伯はただちに解慕漱に会い、無礼をなじった。解慕漱は自分の非を認めて柳花を送り帰そうとした。ところが、解慕漱に夢中になってしまった柳花は家へ帰りたくないと言い張り、父親に結婚の承諾を求めるようねだった。

そこで解慕漱は柳花と連れ立って河伯を訪れた。河伯は解慕漱が天神の子であることを知ると、喜んで二人の結婚に同意した。結婚式の日、解慕漱が娘を捨てて天上に去ってしまうかも知れないと危ぶんだ河伯は、大洒を飲ませて婿を酔いつぶすと、革袋の中に娘と一緒に入れ、五龍車に載せた。しばらくたって酔いから醒めた解慕漱は、自分が革袋に閉じ込められていると知り、柳花の髪からかんざしを抜き、袋に穴を開けて外へ抜け出た。彼は河伯の仕打ちに激昂し、柳花を打っちゃったまま、独り天上に昇ってしまった。

そのことを知った河伯は、家名を汚し、父親を苦しめる子だとして、娘を優渤水ウバルスの流域の地に流してしまった。ある日、扶余プヨの金蛙クムワ王が優渤水の川辺で猟をしていたとき、妙な女を目にした。その姿や振る舞いからして、当地の住人とはとても思えなかったので、身の上を尋ねてみると、彼女は目に涙を浮かべて、自分はこの地に流されて来た女だと、その一部始終を語った。柳花は金蛙王のはからいで、扶余の首都の離宮に優遇されて住むようになり、前298年陰暦4 月初めに解慕漱の子を生んだ。この子がほかならぬ高句麗の建国者高朱蒙である。

柳花が高朱蒙を生み育てた話は、『三国史記』(巻13、高句麗本紀 東明聖王条)に詳しく記されている。柳花は扶余の王宮でまじめに働きながら、一人息子の朱蒙を立派に育てるために苦労した。彼女は朱蒙が父親に似て才気が煥発であることを喜び、幼い頃から読み書きを教え、成長するにつれて多くの本とりわけ兵書に親しむようはかった。また、扶余や周辺諸小国の状況などもいろいろと話して聞かせてわが子の大志をはぐくむ一方、武術の練磨に励み、剛直な品格を備えるようつねに気を配った。朱蒙は、早くも七つの年に馬術、弓術、槍術、剣術などに長じ、他者の追随を許さないほどになった。扶余では毎年狩猟競技が盛大に行われたが、朱蒙はここでいつも優勝した。柳花は朱蒙のたくましい成長を喜び、将来に大きな期待をかけた。

そんなある日、朱蒙は不運に見舞われた。金蛙王には7 人の息子がいたがいずれも凡庸で、それだけに朱蒙の武術と才能をねたみ、父王にざん言して彼を亡き者にしようと計った。しかし金蛙王はいろいろと考えた末、朱蒙に王宮の馬丁を申し付けたのである。朱蒙は母親と相談し、将来に備えて優良種の馬には飼い葉を少なく与えて痩せるようにし、劣等種の馬は腹一杯食べて肥えるようにさせた。結局金蛙王と王子たちは肉づきのよい馬に乗り、朱蒙は痩せてはいるが駿馬をおのがものとすることができた。母親の深い配慮と期待のもとに、武術に励み体力を鍛えていった朱蒙はいつしか20歳になった。


当時(前3 世紀初め)は、古朝鮮コチョソン(後朝鮮)、句麗クリョ、辰チン国のような大奴隷所有者国家の支配体制が漸次衰え、その隙を狙った一部の勢力が各地に割拠した頃であった。
そのような状況に、朱蒙と母親は誰よりも心を痛めた。朱蒙は扶余を去り、父母の郷里である鴨緑江の中流地方へ行って大事を計ろうと考えながらも、母親を扶余王の離宮に残していくのが心がかりで、独り悶々とした。
ある日、朱蒙はとうとう自分の心情を母親に打ち明けた。「わたしは天子の血を引く身ですのに他人の馬丁を勤めているのですから、果たして生きている甲斐がありましょうか。それで、南方の地に移り、新しい国を興そうと思いますが、母上のことが心配で決心をつけかねています」


息子の意向を聞いた柳花は、さすがに志の高い解慕漱の子だと喜び、早速朱蒙を助けて扶余脱出の準備を整えることにした。柳花はわが子に言った。「お前が遠くへ旅立つためには、最良の駿馬がなければならないだろうけど、それはわたしが用意します。お前は志を共にする盟友をしっかり選ぶことに心がけるのですよ」

彼女は朱蒙と一緒に養馬場へ行き、そこでこれと思われる何頭かの馬に力一杯鞭を加え、驚いて2 丈もの柵を飛び越えた、特にすぐれた駿馬を選んで朱蒙に見せ、立派に飼育するようにと言った。
朱蒙には幼い頃から弓術や馬術の練習時に交わった友人が多かったので、彼らと語らって武術にいっそう励み、読書にも力を入れて知識を広めていった。そうしたなかで、友人たちはどんな任務も十分に果たせるほどの勇士に育ち、朱蒙をおし戴いて生死を共にすることを誓うほどになった。

他方、朱蒙をねたみ亡き者にしようとする扶余王子たちの奸計は続き、ついに金蛙王も朱蒙を殺そうと決心した。陰謀に気づいた柳花は、朱蒙に言った。「いっときも早く身を避けなければなりません。帯素テソ(金蛙王の長子)がお前を殺そうとしているから、ここでまごまごしていてはいけません。お前はこの先どこへ行っても男らしく生きるのだよ」
話し終えた母親の表情はきっとしていた。


朱蒙は母親と別れるのは死ぬほどつらかったが、手を振って見送ってくれるその姿に気を取り直し、友の烏伊オイ、摩離マリ、陜父ヒョッポと連れ立って旅立った。離別の悲しみで柳花は頬を涙で濡らしたが、わが子の将来に希望を抱き、遠ざかる朱蒙に向かっていつまでも手を振った。これは朱蒙と母親柳花の永遠の別れとなった。
南方の地句麗クリョに至った朱蒙はここで勢力を拡大し、前277 年、句麗に代わる朝鮮最初の高句麗を立ち上げた。
後日、朱蒙が高句麗国を建て広く名を知られるようになったことを伝え聞いた柳花は、わが子の健康と高句麗がさらに強大になることを祈りながら生涯を終えた。
このように柳花は、ありとあらゆる危険や苦痛に打ち勝ち、高朱蒙を無敵の将軍、高句麗の建国者に育成することで大きな功労のあった女性であった。

出典:歴史に名を残した朝鮮の女性たち 朝鮮・平壌 外国文出版社 チュチェ100(2011)年


■第三の倭国 幻の楽浪国(第三の倭国)は遼西の第二の倭国から移動した)
 大武神王(たいぶしんおう、4年 - 44年 高句麗第三代王無恤(ムヒュル)はAD32年には楽浪国へ侵攻して降伏させ、後に37年にはあらためて楽浪国を滅ぼして支配下に収めた。しかし同地に対して、7年後、44年9月には後漢の光武帝が海路出兵して討伐、楽浪郡を回復した。
しかし、疲弊した後漢は植民地の経営まで手が回らなくなっていた。

『後漢書』高句麗伝

二十七年秋九月、漢光武帝遣兵渡海、伐樂浪、取其地、爲郡縣。薩水已南屬漢。冬十月、王薨。葬於大獸村原、號爲大武神王。 

 西暦30年、楽浪郡の豪族王調が反旗を掲げ、半年以上も楽浪郡を占領した。この楽浪郡の王氏は遼東の名門となり、後に北魏の政治基盤を築いた文明皇后の実家にあたる。 この反乱を契機に後漢は植民地政策を変更し、郡に所属する都尉を廃止し、各民族の長師や渠帥を県候に任じて、不耐濊・華麗・沃沮などを候国として自治権を認めた。冊封制に戻したことになる。

『三国史記』 高句麗本紀第二 大武神王15年夏四月:

「王子の好童が沃沮に行った。楽浪王の崔理も(沃沮)に行き、そこで彼に会った。(楽浪王は彼に)あなたの顔を見ると普通の人には思えません。北国の神王(無恤)の子ではありませんか?と尋ね、一緒に帰国し、娘を彼に娶せた。その後、好童が国に還り、ひそかに人を派遣して崔氏の娘に次のように伝えた。もし国の武器庫に潜入して、太鼓を割き、角笛を壊すことができれば、私は(あなたを)正式な儀礼でもって迎える。もしそうでなければ、(私の妻)としない。昔、楽浪国に軍令を伝える太鼓と角笛があった。もし敵が迫ってくると(この太鼓や角笛は)自然に鳴り出した。それゆえに(好童は)これらを破壊させた。
そこで崔氏の娘は良く切れる刀をもって武器庫の中に潜入し、太鼓の面や角笛の口を破壊し、そのことを好童に報告した。(そこで)好童は父王に楽浪国を襲撃するように勧めた。(楽浪国の崔氏は)太鼓や角笛が鳴らないので軍備を整えなかった。高句麗軍は突然楽浪の城下に迫った。そこで崔氏ははじめて太鼓や角笛がみな壊されていることを知り、娘を殺し、城を出て、降伏した。冬十一月好童が自殺した。好童は王の次妃で曷思王の孫女から生まれた。その容貌が美しかったので、王は彼を非常に愛し、そのため好童と名づけた。王妃は(わが子をさしおいて好童が嫡子(元子)の地位を奪い取り太子になるのを恐れて、王に、好童は私にたいする礼節を守りません。きっと乱をおこそうと思っているに違いありません。と、讒言した。王は他人の子だからそれほどひとく憎むのか。と答えた。(自分の主張を)信用しないのを知り、禍が(わが身)に及ぶのではないかと思って涙を流し、どうか大王が密かにみていてください。もし私の言ったようなことがなければ私は自ら罪に服しましょう。と、いった。そこで、大王も疑うことができず、好童を処罰しようとした。ある人が好童にいうには、あなたはどうして自分から(王妃の讒言にたいして)釈明しようとしないのですか。好童がこれに答えて、私が釈明すれば、義母の悪を明らかにし、王に心配をかけることになる。これでは孝行といえるのだろうか。といって、好童は剣に伏して自殺した。」
十二月、王子の解優を太子とした。
二十年(37年大武神王が楽浪国を襲撃し、これを滅ぼした。


《後漢書》
[南北朝] 420年-445年
《紀》
《光武帝紀下》
光武帝紀... :初,樂浪人王調據郡不服。秋,遣樂浪太守王遵擊之,郡吏殺調降。

楽浪人王調は初めから郡に服従しなかった。秋に樂浪太守王遵を派遣してこれを撃った。郡吏(曹史楊邑等)は王調を殺して王遵に投降した。

《後漢書》
《循吏列傳》
18 打開字典顯示相似段落 循吏列傳:
・・・土人王調殺郡守劉憲,自稱大將軍、樂浪太守。建武六年,光武遣太守王遵將兵擊之。至遼東,閎與郡決曹史楊邑等共殺調迎遵,皆封為列侯,閎獨讓爵。帝奇而徵之,道病卒。

土人王調は郡守劉憲を殺害した。自ら大将軍、楽浪太守と称し、建武六年、光武帝は太守王遵が率いる兵がこれを撃ち遼東まで至った。閎與郡の曹史である楊邑等は協力して王調を殺し王遵を迎えた。みな、列候に封じ閎獨讓爵と為した。 西暦37年 大武神王が楽浪郡を襲い、これを滅ぼす。

西暦44年光武帝は海軍を差し向け楽浪を撃った。薩水(清川江)以南を奪い漢の郡県とする。翌月、高句麗第三代王無恤(ムヒュル)は死ぬ。
西暦44年 光武帝は清川江以南を奪い返す。

しかし、『三国史記』によると、西暦30年の後漢による楽浪郡の接収はなく、支配者が「王調」から「崔理」に代わっただけだと伝えられる。

ここでは、漢の楽浪郡の太守(都督)を倒したのが王調で、楽浪国の王は別に、崔理(チェリ)であったと踏まえればよい。
楽浪国は後漢の楽浪郡の都尉(直轄植民地、役人に支配させる)から脱した侯国として存在した。自治権を持った国として認めらえたということは、その地の王が復活したということだ。

しかし、鴨水(鴨緑江)一体は高句麗の進出することになった。薩水(清川江)以南が後漢の郡県とされた。高句麗はこの戦には敗れたが、鴨水河口までは勢力を拡張したようである。敗戦後、無恤(ムヒュル)44年のうちに死去し、大獣村原にて葬儀を行われ大武神王と諡<された。
となった。なんであれ、この楽浪郡の地域は王険城のあった大同江の南側であったようである。


楽浪郡最大版図(大楽浪郡)B.C.75年

*薩水(清川江チュチュンガン)平壌のある大同江よりは北70kmある上流にある支流。高句麗はここで初めて海に接する国となった。
昭帝の始元5(B.C.82)年、臨屯郡と真番郡を廃し、楽浪郡と玄菟郡に併せた。臨屯郡と真番郡は楽浪郡に統括され、B.C.75年、玄菟郡は西方に縮小された。臨屯郡北部の6県と玄菟郡の1県が楽浪郡に編入された。これを嶺東七県(日本海側)といい嶺東7県を管轄する軍事組織として楽浪東部都尉が置かれた。


■楽浪侯国

漢書地理志より:楽浪の民は、箕氏(きし)朝鮮そのものであった。箕氏はその名を胥余といい、殷の貴族であった。朝鮮族と華族の和合に努め、人民の教化に努めた。楽浪国は後漢と燕の冊封下にあったが、その「風」と「俗」は、天性従順な東夷族(朝鮮族)と言われた。

その品性の高さは中国人もびっくりした。楽浪国は殷文化の継承地であり、龍と亀をトーテムとする。楽浪郡太主が燕であり、同時に魏が制圧するときまで、倭国も燕に朝見していた。楽浪国と楽浪郡太主は別々に存在したという説が有力になりつつある。

こうして、楽浪国の王は古朝鮮(コジョサン)、檀君の苗裔だとするのは無理がある。濊朝鮮族が多数居住していたのは事実だ。楽浪は上品で従順な民だったと漢書地理志に書かれている。そこが遊牧民とは根本的に違うのである。そもそも、扶余狛族のように、馬に乗れる人がいなかった。馬に乗れない扶余人は役に立たない。馬韓も同様に牛馬は農耕に使っていただけだ。扶余のように騎馬戦はできず、扶余の騎馬軍団にやられっぱなしだったのだろう。

。『三国志魏書』穢伝:「僭號稱王。陳勝等起、天下叛秦、燕、齊、趙民避地朝鮮數萬口]。四十余代の朝鮮侯準は王を僭称。陳勝と呉広が 反乱(「陳勝呉広の乱」BC209))起したことで、天下は秦王朝に叛くと、燕・齊・趙の民は戦乱を避けて朝鮮の地に数万人も逃げ込んだ。

 紀元前134年 に漢の武帝が濊州を作ろうと、濊族と戦い、紀元前126年に「濊王之印」を濊族の南閭に与えている。しかし、5年後には武帝は(BC129年)、衛青を 28万の軍を付けて龍城を攻め、700人の敵の首を切った。紀元前108年、漢は朝鮮半島の北部の王険城を落城させ、衛氏朝鮮を滅ぼし、現在の碣石山(臨楡関)を直轄支配として楽浪郡を設置する。このとき、倭人の龍城国は滅亡、多数の倭人が慶尚北道や弁辰に海づたいに南下した。さらに、前108年、武帝は衛右渠を破り、楽浪、玄菟、臨屯、真番の四郡を設置。遼東郡の東から、楽浪郡の北にいた濊国(扶余系)の政権を倒し、玄菟郡を設置する。






ハングル表題は「楽浪王 チェスン 攻撃」とある。龍城国は倭国だった。
龍城は倭国東北1千里(540km)逆にすれば、倭国は龍城の南東540kmの位置にあった。河北省の中に天津市があるが、ちょうどそのあたりである。、

『三国史記』 高句麗本紀・大武神王紀には、大武神王の王子好童(こうどう、ホドン)と楽浪王の姫との恋の話として今に知られている説話が挿入されている。これも楽浪国を滅ぼすための政略結婚である。というより、盗人に近い卑劣さであるが、騙される方が悪いというのだから、つける薬がない。周書 高句麗伝では「その族人の性質は凶暴で性急、金品を強奪することを喜びとする。」と評している。手段は卑怯でも、勝てばいいんだということらしい。

 『好童が楽浪国王の崔理の娘を妻とするに当たって、楽浪国の宝である角笛・太鼓(敵が寄せると自然と鳴るというもの)を壊すことを促した。娘がこれらを壊した事を聞いた後、好童は大武神王に今こそ楽浪国に攻め入る好機と勧め、王は楽浪国に攻め入った。宝器が鳴らなかったために軍備を怠った楽浪王は突然城下に迫った高句麗軍を見て驚き、宝器が壊されていることを知って娘を殺し、城を出て降伏した。』



 楽浪公主(王女)


朝鮮の民族史には楽浪公主と呼ばれる女性が何人かいた。1 世紀初・中葉に生きた楽浪国の楽浪公主は、高句麗の南方進出と領土拡張活動を助けて生命を捧げた女性である。楽浪国は、前108 年の古朝鮮(満朝鮮)滅亡後、その遺民が平壌地方に建てた小国であった。

1 世紀初・中葉、楽浪小国の王崔理には才色兼備の娘がいた。崔理は自分の娘につり合うだけの若者が楽浪国内にいないことを嘆いていた。ある日、崔理は沃沮(オクチョ)地方を回遊中、偶然高句麗大武神王(在位18~44)の子好童(ホドン)王子に会った。

好童王子は傑出した人物であった。その非凡な武芸と闊達な人品に魅了された崔理は、王子を楽浪国に招待した。楽浪国に大きな関心を抱いていた王子は、断わりきれぬという風をよそおって招待に応じた。当時、楽浪国は西方は朝鮮西海と接し、東北方は咸鏡ハムギョン道の狼林ランリム山一帯に伸びていた。高句麗は古朝鮮の故地の統合をめざして南方進出を進めていた矢先であっただけに、古朝鮮の古都平壌を支配している楽浪国の存在を当面の障害とみなしていたのである。

楽浪王室は、連日、盛大な礼式と豪勢な祝宴をもって高句麗の王子を歓待した。器楽の演奏が続くなか、好童を案内して平壌の景勝を遊覧した崔理は、数日後、好童に向かって、この機会に高句麗国と楽浪国の友好と繁栄をはかり、両王室が姻戚関係を結んではいかがだろうかと持ちかけた。好童が返答に困っている様子を見た崔理は、機会を逃がしてはと、すぐさま娘の楽浪公主を呼んだ。

崔理に挨拶する公主を一目見て、好童王子はわれを忘れた。理知的な黒い瞳、ほんのりと赤みを帯びた頬、なめらかな白い肌、すんなりと均整の取れた身体。楽浪公主は全くのすばらしい美人であった。崔理は好童王子の表情の変化を観察しながら、娘を紹介した。
「わしの一人娘だ」

楽浪公主は好童王子をうわ目でちらっと見て会釈した。崔理王の娘がたぐいまれな美女だという噂は聞いていたが、そのあまりの美しさに息をのみ、好童の胸は高鳴った。
挨拶を交わした二人は、父王に遠慮する風もなく、やさしいまなざしを向け合い、ほほえみながら秀麗な山水や狩猟などについて夢中に話を進めた。楽浪公主は興味深そうにうなずきながら、好童王子の話に耳を傾けた。二人は急速に親しみを増していった。草原に共に馬を駆りもすれば、大同江畔の小高い、野花にいろどられた丘を散策もした。しかし二人は、単に愛をささやいてばかりいたのではなかった。

好童は、楽浪国が世の大勢に背いて外部勢力(漢)と手を結び、同族間の争いを事として人民に苦痛を与えているとして、今後は高句麗と同様、同族間の協和をはかり、団結を果たさなければならない、と熱心に説いた。幼少の頃から学問に励み、武芸の修練も積んで世に広く知られるようになっていた。

楽浪公主(王女)は、古今の有名な女性たちにあこがれながら自分も彼女たちのように生きたいとひそかに念じ、古朝鮮の滅亡後各地に割拠した諸小国の対立抗争に心を痛めてもいた。そんな矢先に好童王子に出会って、国土統一の大志を打ち明けられたのであるから、王子に尊敬の念を抱き、恋慕するまでになったのである。

数日後、楽浪宮では、諸王侯貴族の祝福を受けて二人の婚礼が盛大に挙げられた。
好童王子は当時の風俗に従い、いったん高句麗王宮へ帰り、1年後の吉日に公主を迎えに来ることにした。公主は夫を懐かしみ、高句麗の国土統合の日が一日も早からんことを願った。高句麗の首都国内城に帰った好童王子は、父王大武神王に、その間の出来事を話し、楽浪国に政治経済的に大きな影響を与えて早く味方に引き入れるべきだと進言した。

一方、楽浪国王崔理は、好童王子にまなむすめを任せてほっとしたものの、心中高句麗の勢力の増大に警戒心を高めて、戦備の強化に力を入れ、他族の漢と結んで高句麗を牽制し、ひいては高句麗を壊滅させようともくろんだ。彼は敵軍の襲来時には事前に自ずから音を立てる自鳴鼓角を配備して防備を一段と固めた。高句麗を中心とする国土の統一のみが全民族に真の幸福をもたらすと信じて疑わなかった楽浪公主は、思い余って父王をいさめた。

「お父様はどうして外部勢力を引き入れて同族の国を滅ぼそうとなさるのです。高句麗の強さを認めず、この取るに足らない楽浪国の勢力を過大視して世に君臨しようとしたところで、無駄なあがきにすぎません」

公主は父王に哀願もし説得も試みたが、無駄だった。楽浪公主は父王に背いても、夫の好童王子ひいては高句麗の国土統一偉業にわが身を捧げようと決心した。そうした矢先に、好童王子から楽浪国の武器庫に装備された自鳴鼓角を破壊してほしいというひそかな伝言を受けた。
楽浪公主は、ある日の深夜、白衣をまとって宮殿の庭に現われた。かぼそい手には悲壮な決意を象徴するかのように、青白く研ぎ澄まされた短剣が握られていた。
その同じ日の夜、崔理王は心の騒ぎで寝つかれずにいた。それまでこの父親に一度として逆らったことのないただ一人のまなむすめが、自分の行為に不満を抱き、意見したことが胸につかえていたのである。

そんな時、一人の臣下が慌ただしい足音を立てて駆け込んで来た。
「姫君が…姫君が自鳴鼓角を破壊されてしまいました。国の破滅を招く一大事です」
「なにっ、自鳴鼓角を……」

崔理王は驚いて現場へ駆けつけた。そこには失神した公主が倒れていた。崔理の罵声に正気を取り戻した公主は、父王の前にひざまずいた。
「お父様、お父様は時代の趨勢を見誤っておられます。民心は高句麗に傾いております。高句麗による国土の統合はもはや疑いの余地がありません。ですから、わが国も……」
公主の切々たる訴えに、崔理はくらくらと目まいがした。自分の前には高句麗の「まわし者」の姿があった。国王は剣をさっと引き抜くや、満身の力をこめて「まわし者」を袈裟がけに切り伏せた。

「まわし者」ならぬわが娘を切ったと知り、国王は気を失い、その場に倒れてしまった。丁度そこへ10 余名の兵を引き連れた好童王子が武器庫に現われた。好童は血にまみれて倒れている愛する妻の体に全身を投げかけた。やがて国王は正気に戻ったが、公主はついに帰らぬ人となった。

崔理王にはもはや何も残されていなかった。愛してやまなかった公主は死に、王位を譲り渡すべき者もいない。楽浪国の存在は自分の死と共に無に帰するほかないのである。崔理は今になって自分の愚かさを悟った。紀元32 年、楽浪国王崔理は高句麗に帰順した。

このように楽浪公主は高句麗王の嫁、高句麗王子の妻でありながらも、一度として高句麗の地を踏むことなく、高句麗の国土統合偉業に大きな貢献をなしたのである。

出典:歴史に名を残した朝鮮の女性たち 朝鮮・平壌 外国文出版社 チュチェ100(2011)年
*まわし者のことを「郷間」(ヒィヤンカン)と言った。
敵国人の協力者はたとえ王族であろうと死刑に罰せられた。内部の機密を流した者の罪は非常に重かった。


『三国遺事』脱解王
我本
龍城國人(亦云正明國。或云琓夏國、琓夏、或作花廈國。龍城在倭東北一千里)。我國嘗有二十八龍王從人胎而生。自五歲六歲繼登王位。教萬民修正性命。而有八品姓骨。然無棟擇。皆登大位。

遼西百済の尉仇台から5代、南朝宗に自称・倭王として朝貢している。龍城国は倭の東北千里にあるとする。
では、千里を約400kmを龍城から南西にとってみると、渤海湾に流れる海河の河口あたり。天津市(テンチン)あたりに倭国があったことになる。これは、斉よりやや北側になる。ここに、第二の倭国があった。第三の倭国は楽浪国であり、赤い棒点矢印は移動海路である。
龍城国は滅亡、多数の東夷(ほとんどが倭人)が慶尚北道に南下した。(BC108-129頃)

龍城国は正明国、あるいは琓夏国とも伝えられ、殷、夏の末裔が逃れてきた王が建国した国で、倭人のほか濊族(朝鮮民族)が多数雑居していた。
淮南子 [时则训]第五。 "碣石在遼西界。朝鲜楽浪之县也。 " 楽浪は遼西にあったのだ。紀元前数世紀、この地を東夷とする皇帝の認識だったのだろう。東夷は濊族のほか倭人も含んでいた。龍城国=楽浪の民は倭族が多かったが、王は殷の苗裔と見るのが自然だろう。


■楽浪郡の所在地が、現在の平壌の郊外、市街地とは大同江を挟んだ対岸にある楽浪土城(平壌市楽浪区域土城洞)にあったことに異論はない。さらに、三国時代には魏が238年に楽浪・帯方郡を接収し、翌年(一説には同年)倭女王卑弥呼も帯方郡を通じて魏と通交した。265年魏に代わった晋が引き続き支配したが、八王の乱以後は衰退の一途を辿り、313年には高句麗に滅ぼされ、後に高句麗は楽浪郡の跡地平壌城(427年)に遷都した。楽浪・帯方の土着漢人達は高句麗・百済の支配下に入った。


伊美別宮社巫女舞(いみべつぐう)
H23年10月15日に国東半島の国見町にある伊美別宮社で行われたご神事。
国東半島は秦氏渡来人が半数を占めていたいわれる。この巫女舞からは扶余系文化は感じ取れない。私は、なぜか楽浪国の源流を見る思いがする。

 

「宇佐神宮夜参り」 楽浪国王の姓は「崔氏」という中国渡来人だったともいう。『三国史記』によると、30年の後漢による楽浪郡の接収はなく、支配者が「王調」から「崔理」に代わっただけだと伝えられる。衛満朝鮮と似たような中国系の王だったとするほうが自然である。文化レベルが扶余とは比べようもないほど質が高かった。



*『三国史記』高句麗本紀 大武神王、または大解朱留王ともいう。諱は無恤。琉璃王の第三子。母は松氏、多勿国王の松讓の娘。在位18年-44年



 上記は紀元前87年頃~紀元前18年頃の間のお話。扶余の建国から始まっている。当時中国は漢武王の後昭帝の時代。漢の四郡設置された。その影響で中国文化もろもろと鉄器技術が入ってきたと言われる。漢の四郡は民族的抵抗を受けて崩壊が始まる。臨屯郡・真番郡が廃止。4時紀元前75年頃、高句麗が玄莬郡から漢を追い出し、楽浪郡のみとなった。その楽浪郡から漢を追い出す一連の軍事行動の激しい時代だった。鉄が兵器に盛んに使われるようになり、鉄の需要は拡大し、鉄の産地を支配するのは最大の国益だった。真番郡の傍らに辰国があった。卒本も鉄が出た所だと言われている。有数の鉄鋼所・谷那の鉄は目支国にあった。鉄具の生産物は三韓の勢力拡張の重要産業だった。

■第四の倭国 馬韓・辰韓・弁韓の三国は辰王が支配していた。

王箕準、賊の衛満に敗れ海に入る。諸加の衆は上将のを奉じて、生郷に月支国を立てる。中馬韓という。辰王は卓である。そして、月支国に王都があったことが知られている。(司馬遷史記)辰国は文字の通り辰(たつ)、龍神信仰である。そして、辰王は小月日国(黄河の西)の人で西域からの渡来人であると云う。ペルシャ系の白人だと比定する。初めに遼河から平壌一帯にありに王都があったようである。その後、鴨緑江に高句麗が台頭すると南下し平壌に、次いで、漢の真番が設置されると、帯方郡(漢江)より、南に移住した。54か国あったが馬韓・辰韓・弁辰の連合帯の王で、それぞれの国は王を立てることができなかったとされる。馬韓の一国目支国(モクジ)に王都を置き、紀元前3世紀頃は、ほぼ三韓を覆っていた。そういう意味では大王である。


参照資料:韓国歴史地図 平凡社刊 韓国教員大学歴史教育科著
地図上『百済』と書かれるが、『伯済』とするのが正解だろう。製鉄の谷那は新規挿入。

■辰韓は秦韓とも呼ばれた。

馬韓通史
辰韓。古老は、苦役を避けて韓国に行った秦の逃亡者で、馬韓は彼らに東界の地を分け与えたのだと言う。彼らは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒(酒盃を廻すこと)を行觴と言う。皆のことを徒と呼ぶ。秦語に似ていることから、辰韓を秦韓ともいう
辰韓は馬韓の東に在り、使役を避けて韓に入って来た秦の逃亡者だと自称している。言語は秦人に類する故に秦韓という。初めは六国だったが、後で十二国に細分した。弁辰にも十二国ある。合計は四十五万戸、渠帥は全員が辰韓に属している。辰韓は常に馬韓人を領主とし、代々に相承され、自立はできない、明らかに辰韓人は流浪して移って来た人々なので馬韓が全てを制しているである。(中略)その風俗も兵器も馬韓に類している。

■月支国(目支国=中国史書)は箕氏朝鮮の継承国

月支国は後漢書からも三国史からもほとんど無視された存在。そういう意味で幻の国家である。
辰国の中心は全羅北道の益山(イクサン)だったと言われる。百済との実際の衝突は円山城や錦峴城などで行われているので、目支国の国境防衛ラインは南漢江上流あたりだったろう。
二代 慕漱离(モスリ) ▪BC194-BC169 
 「桓檀古記~北夫餘紀、上」太子、慕漱離立つ(二世)。番朝鮮王箕準、賊の衛満に敗れ海に入る。諸加の衆は上将のを奉じて、生郷に月支国を立てる。中馬韓という。
辰国の王は一体、どのような人物だったのだろうか。月支国は箕準王の諸加が卓氏を王に共立して建国された。BC169 一説では卓氏は趙国(山西省郎郵)の鉄工部族(商人貴族)であったという。趙(ちょう)は戦国七雄の一つに数えられる。首府は邯鄲(河北省邯鄲市)。紀元前228年に秦に滅ぼされたあと、東方移動を開始したとしても、建国したのがBC169なら趙国を離れてから卓氏二世か三世になる。月支国の故地が趙国なら、そこは殷墟(いんきょ)は古代中国殷王朝後期の首都の遺構。中華人民共和国河南省安陽市の市街地西北郊が出土したところに近い。




(BC14世紀ごろ - BC11世紀ごろ)

AD250年以前は百済は馬韓辰国の一国に甘んじていた。

*『史記』の伝える伝説によれば、始祖の箕子(胥余)は、中国の殷王朝28代文丁の子で、太師となるに及び、甥の帝辛(紂王)の暴政を諌めた賢人であった。殷の滅亡後、周の武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また「犯禁八条」を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたという。

。『後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。(初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した。)」と記されており、衛満に敗れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となったというが、これも3世紀頃、楽浪郡の韓氏による系譜の装飾との説がある。

王箕準、賊の衛満に敗れ海に入る。諸加の衆は上将のを奉じて、生郷に月支国を立てる。中馬韓という。月支国ができたのは、▪BC194-BC169の間である。

*オレンジ色はウィキペディアリンク


*『続日本紀』巻
延暦九年(790年)
七月辛巳《乙丑朔十七》◆秋七月辛巳。

渡来した百済王族が桓武天皇に姓(かばね)を蒙(こうむ)るを願いでた条。

左中弁正五位上兼木工頭百濟王仁貞。『百済仁貞 (くだらの-にんじょう)宝亀(ほうき)8年(777)従五位下。備前守(かみ)をへて,延暦(えんりゃく)8年中宮亮(すけ)となり,藤原乙牟漏(おとむろ)につかえる。』
治部少輔從五位下百濟王元信。
中衛少將從五位下百濟王忠信。
圖書頭從五位上兼東宮學士左兵衛佐伊豫守津連眞道等上表言。『日本に渡来した上記の百済王族たちが天皇に自分たちの素性を上表したことによれば、以下の通り』
眞道等本系出自百濟國貴須王。『(近仇首王(きんきゅうしゅおう、生年不詳 - 384年)は百済の第14代の王(在位:375年 - 384年)であり、諱は須)』
貴須王者百濟始興第十六世王也。
夫百濟太祖都慕大王者。日神降靈。『「都慕大王」はツムで、鄒牟(추모チュム)に通じる。鄒牟は高朱蒙の別名で、都慕大王どは高句麗の開祖。』
奄扶餘而開國。天帝授籙。『籙(ロク)の意味『胡籙はやなぐいともいい、戦陣で佩用、箭(矢)をまとめて入れるための武具の一つ。羽を見えるように上にし、鏃が見えない構造の武具である。』
惣諸韓而稱王。降及近肖古王。(すべての韓国が讃える王 近肖古王・百済の第13代の王(在位:346年 - 375年)であり、第11代の比流王の第2子。『晋書』では余句(徐句) 尉仇台の子にあたり遼西百済余氏の直系)
遥慕聖化。始聘貴國。聖なる権化を遥かに慕って倭国に初めて贈り物を持って訪問した。(七支刀のこと)
是則神功皇后攝政之年也。
其後軽嶋豊明朝御宇応神天皇、命上毛野氏遠祖荒田別、使於百済捜聘有識者。
国主貴須王
恭奉使旨、択採宗族、遣其孫辰孫王〈一名智宗王〉随使入朝。
天皇嘉焉、特加寵命、以為皇太子之師矣。
於是、始伝書籍。大闡儒風、文教之興、誠在於此。
難波高津朝御宇仁徳天皇。
以辰孫王長子太阿郎王為近侍。
太阿郎王子亥陽君、亥陽君子午定君。
午定君生三男、長子味沙・仲子辰爾・季子麻呂。従此而別始為三姓。
各因所職以命氏焉。葛井。船。津連等即是也。
逮于他田朝御宇敏達天皇御世。
高麗国遣使上鳥羽之表。
群臣諸史莫之能読。
而辰爾進取其表。
能読巧写。詳奏表文。
天皇嘉其篤学。
深加賞歎。
詔曰。勤乎懿哉。汝若不愛学。誰能解読。
宜従今始近侍殿中。
既而又詔東西諸史曰。
汝等雖衆。不及辰爾。斯並国史家牒、詳載其事矣。
伏惟、皇朝則天布化、稽古垂風、弘沢浹乎群方、叡政覃於品彙、故能修廃継絶。
万姓仰而頼慶、正名弁物、四海帰而得宜。凡有懐生、莫不抃躍。真道等先祖、委質聖朝、年代深遠。家伝文雅之業、族掌西庠之職。真道等生逢昌運、預沐天恩。
伏望。改換連姓、蒙賜朝臣。 



 訓読 秋七月辛巳、左中弁正五位上兼木工(もく)頭(かしら)百済王(くだらのこきし)仁貞・
治部少輔従五位下百済王元信・
中衛少将従五位下百済王忠信・図書(ずしょ)頭従五位上兼東宮学士左兵衛佐伊予守津連(つのむらじ)真道(まみち)等が上表して言はく
「真道等の本系は百済国の貴須(きす)王より出でぬ。
貴須王は百済を始めて興して第十六世の王(こきし)なり。
夫れ、百済の太祖都慕(つも)大王は日神の霊が降(あまも)り、
扶余を奄(おほ)ひ国を開く。
天帝は婁に惣く諸(もろもろ)の韓を授け王と称す。
近肖古(きんしょうこ)王に降るに及び、遥かに聖化を慕ひ、始めて貴き国を聘(と)ふ。
是れ則ち神功皇后摂政の年なり。

其の後に軽嶋豊明朝御宇応神天皇、上毛野氏の遠祖荒田別に命(みことのり)して、百済に使ひして識有ある者を捜し聘(と)ふ。国主貴須王の使ひの旨(おもむき)を恭(うやま)ひ奉(たてまつ)りて、宗族を択び採り、其の孫の辰孫(しんそん)王(一(あるいは)、智宗(ちそ)王と名(な)のる)を使ひの入朝に随(したが)ひて遣りぬ。天皇のこれを嘉(よみ)したまひ、特に寵命を加へ、以つて皇太子の師と為す。是より、始めて書籍を伝ふ。大いに闡(ひら)く儒の風・文教の興は、誠に此に在る。難波高津朝御宇仁徳天皇、辰孫王の長子太阿郎(たあら)王を以つて近侍と為す。太阿郎王の子亥陽君(がいようくん)、亥陽君の子午定君(ごじょうくん)。午定君は三(みつたり)の男(をのこ)を生(な)す。長子味沙(みさ)・仲子辰爾(しんに)・季子麻呂(まろ)なり。此より別れ、始めて三姓を為す。各の職の所に因りて以つて氏の命(な)となす。葛井(ふぢい)・船(ふね)・津(つ)連等は、即ち是なり。他田朝御宇敏達天皇御世に逮(およ)びて、高麗国の使ひを遣りて鳥羽の表を上(のぼ)らす。群(つど)ふ臣(まえつきみ)・諸(もろもろ)の史(ふみのつかひ)の之を能く読むことなし。而して辰爾の進みて其の表を取り、巧みに写し能く読みて、詳らかに表文を奏す。天皇の其の篤学を嘉(よみ)したまひて、深く賞歎を加ふ。詔(みことのり)して曰はく『勤(いそ)しむや、懿(よ)し。汝の若し学を愛(めで)ることなかりせば、誰か能く読み解かむ。宜しく今より始めて殿の中に近侍せしめむ』とのたまふ。既にしてまた詔して東西の諸(もろもろ)の史(ふみのつかひ)に曰はく『汝等の衆(やから)は、辰爾に及ばざる』とのたまふ。斯(ここ)に並びて国史と家牒の詳びらかに其の事を載す。伏して惟(おも)ふに、皇朝の天を則(のっと)り化を布し、稽古の風を垂れ、沢浹(たくしょう)を群方に弘め、叡政は品彙(ひんい)に覃(およ)ぶ。故(ゆえ)に能く廃を修(ととの)へ絶を継ぐ。万姓の仰ぎて慶(のり)を頼むに、弁物の名を正(ただ)し、四海は帰して宜(のり)を得む。凡そ生るを懐(おも)ふる有るは、抃躍(べんやく)せざるはなし。真道(まみち)等の先祖の、聖朝の質(もと)を委(まか)されて、年代は深遠なり。家の伝ふる文雅の業、族(うらから)の掌(つかさど)る西庠(せいしょう)の職。真道等は生きて昌運に逢ひて、天恩を沐するを預(あずか)らむ。伏して望む、連(むらじ)の姓(かばね)を改め換へて、朝臣(あそみ)を賜はることを蒙(こほむ)らん」と申す。
是において、勅(みことのり)して居るところに因りて菅野(すがの)朝臣の姓(かばね)を賜はる。

<された。
貴須王とは、朝鮮正史の第14代国王(在位375-384)近仇首(きんきゅうしゅ)王にあたる。父近肖古(きんしょうこ)王とともに王子の時に、高句麗(こうくり)に出撃し故国原(ここくげん)王を戦死させた。流矢にあたって死んだと云う。


<された。
■楽浪国は元龍城国の民であった。?!?

『三国遺事』脱解王
我本龍城國人(亦云正明國。或云琓夏國、琓夏、或作花廈國。龍城在倭東北一千里)。我國嘗有二十八龍王從人胎而生。自五歲六歲繼登王位。教萬民修正性命。而有八品姓骨。然無棟擇。皆登大位。

よみ:「私は本来は龍城国の人(または正明国という。あるいは琓夏国、琓夏、あるいは花廈国ともする。(龍城は倭の東北一千里に在る)。我が国ではかつて 二十八人の龍王が人の胎内から生まれ、自ら五~六歳で王位を継承し、万民に正しい生き方を修めさせた。而して八品の貴姓があるが、競い合うことなく、皆が 王位に登った。

 時我父王含達婆娉積女國王女為妃。久無子胤、禱祀求息。七年後產一大卵。於是大王會問群臣。人而生卵、古今未有、殆非吉祥。乃造樻置我、并七寶奴婢載於舡中。浮海而祝曰:任到有緣之地、立國成家。便有赤龍護舡而至此矣。言訖。

よみ:時に我が父王の含達婆は麗しい積女国王の娘を妃としたが、長らく継嗣がなく、祈願して息子を求めた。七年後、(妃は)一個の大卵を産む。ここに大王は群臣を会して問うた。人にして卵を生むなど古今に未だ例のないことであり、おそらく吉祥ではあるまい。
そこで、棺を造って私を中に容れ、七宝や奴婢と一緒に船に載せた。船を海に浮かべると、有縁の地に到着し、国家を立てよと祈念した。都合よく赤龍が現れ、船を護ってここに至ったのである」。言い終わった。


  浦島太郎 お伽草子 原文訳

 昔丹後の國に浦島といふもの侍りしに、其の子に浦島太郎と申して、年のよはひ二十四五の男ありけり。あけくれ海のうろくづを取りて、父母ちゝはゝを養ひけるが、ある日のつれ\〃/に釣をせむとて出でにけり。浦々島々入江々々、至らぬ所もなく釣をし、貝をひろひ、みるめを刈りなどしける所に、ゑじまが磯といふ所にて、龜を一つ釣り上げける。浦島太郎此の龜にいふやう、「汝生しゃうあるものの中にも、鶴は千年龜は萬年とて、いのち久しきものなり、忽ちこゝにて命をたたむ事、いたはしければ助くるなり、常には〔常にの語氣を強めた用法〕此の恩を思ひいだすべし。」とて、此の龜をもとの海にかへしける。

かくて浦島太郎、其の日は暮れて歸りぬ。又つぐの日、浦のかたへ出でて釣をせむと思ひ見ければ、はるかの海上に小船せうせん一艘浮べり。怪しみやすらひ見れば〔留まり見れば〕、うつくしき女房只ひとり波にゆられて、次第に太郎が立ちたる所へ著きにけり。浦島太郎が申しけるは、「御身いかなる人にてましませば、斯かる恐ろしき海上に、只一人乘りて御入り候やらむ。」と申しければ、女房いひけるは、「さればさるかたへ便船申して候へば、をりふし浪風荒くして、人あまた海の中へはね入れられしを、心ある人ありて自らをば、此のはし舟〔はしけ舟、小舟〕に載せて放されけり、悲しく思ひ鬼の島へや行かむと、行きかた知らぬをりふし、只今人に逢ひ參らせ候、此の世ならぬ〔前世の〕御縁にてこそ候へ、されば虎狼も人をえんとこそし候へ。」とて、さめざめと泣きにけり。浦島太郎もさすが岩木にあらざれば、あはれと思ひ綱をとりて引きよせにけり。

 さて女房申しけるは、「あはれわれらを本國へ送らせ給ひてたび候へかし、これにて棄てられまゐらせば、わらはは何處いづくへ何となり候べき、すて給ひ候はば、海上にての物思ひも同じ事にてこそ候はめ。」とかきくどきさめ\〃/と泣きければ、浦島太郎も哀れと思ひ、おなじ船に乘り、沖の方へ漕ぎ出す。かの女房のをしへに從ひて、はるか十日あまりの船路を送り、故里へぞ著きにける。さて船よりあがり、いかなる所やらむと思へば、白銀しろがねの築地をつきて、黄金の甍をならべ、門もんをたて、いかなる天上の住居すまひも、これにはいかで勝るべき、此の女房のすみ所詞にも及ばれず、中々申すもおろかなり。

 さて女房の申しけるは、「一樹の陰に宿り、一河の流れを汲むことも、皆これ他生の縁〔前の世からの因縁〕ぞかし、ましてやはるかの波路を、遙々とおくらせ給ふ事、偏に他生の縁なれば、何かは苦しかるべき、わらはと夫婦の契りをもなしたまひて、おなじ所に明し暮し候はむや。」と、こま\〃/と語りける。浦島太郎申しけるは、「兎も角も仰せに從ふべし。」とぞ申しける。さて偕老同穴のかたらひもあさからず、天にあらば比翼の鳥、地にあらば連理の枝とならむと、互に鴛鴦のちぎり淺からずして、明し暮させ給ふ。

さて女房申しけるは、「これは龍宮城と申すところなり、此所に四方に四季の草木さうもくをあらはせり。入らせ給へ、見せ申さむ。」とて、引具して出でにけり。まづ東の戸をあけて見ければ、春のけしきと覺えて、梅や櫻の咲き亂れ、柳の絲も春風に、なびく霞の中よりも、黄鳥うぐひすの音も軒近く、いづれの木末も花なれや。南面をみてあれば、夏の景色とうちみえて、春を隔つる垣穗かきほには、卯の花やまづ咲きぬらむ、池のはちすは露かけて、汀みぎは涼しき漣さゞなみに、水鳥あまた遊びけり。木々の梢も茂りつゝ、空に鳴きぬる蝉の聲、夕立過ぐる雲間より、聲たて通るほとゝぎす、鳴きて夏とは知らせけり。西は秋とうちみえて、四方の梢紅葉して、ませ〔ませ垣、低い垣〕のうちなる白菊や、霧たちこもる野べのすゑ、まさきが露をわけ\/て、聲ものすごき鹿のねに、秋とのみこそ知られけれ。さて又北をながむれば、冬の景色とうちみえて、四方の木末も冬がれて、枯葉における初霜や、山々や只白妙の雪にむもるゝ谷の戸に、心細くも炭竃の、煙にしるき賤がわざ、冬としらする景色かな。かくて面白き事どもに心を慰め、榮華に誇り、あかしくらし、年月をふるほどに、三年みとせになるは程もなし。

浦島太郎申しけるは、「我に三十日のいとまをたび候へかし、故里の父母をみすて、かりそめに出でて、三年を送り候へば、父母の御事を心もとなく候へば、あひ奉りて心安く參り候はむ。」と申しければ、女房仰せけるは、「三とせが程は鴛鴦ゑんわうの衾のしたに比翼の契りをなし、片時みえさせ給はぬさへ、兎やあらむ角やあらむと心をつくし申せしに〔心遣ひをしましたのに〕、今別れなば又いつの世にか逢ひまゐらせ候はむや、二世の縁と申せば、たとひ此の世にてこそ夢幻ゆめまぼろしの契りにて候とも、必ず來世にては一つはちすの縁と生まれさせおはしませ。」とて、さめ\〃/と泣き給ひけり。又女房申しけるは、「今は何をか包みさふらふべき、みづからはこの龍宮城の龜にて候が、ゑじまが磯にて御身に命を助けられまゐらせて候、其の御恩報じ申さむとて、かく夫婦とはなり參らせて候。又これはみづからがかたみに御覽じ候へ。」とて、ひだりの脇よりいつくしき筥を一つ取りいだし、「相構へて〔決して〕この筥を明けさせ給ふな。」とて渡しけり。

會者定離ゑしゃぢゃうりのならひとて、逢ふ者は必ず別るゝとは知りながら、とゞめ難くてかくなむ、

日かずへてかさねし夜半の旅衣たち別れつゝ〔立つと衣を裁つとかけた。〕いつかきて見む〔來てと著てとをかけた。〕

浦島返歌、

別れゆくうはの空なる〔うはの空であるから空虚の意で、からと唐をかけた。〕から衣ちぎり深くば又もきてみむ

さて浦島太郎は互に名殘惜しみつゝ、かくてあるべき事ならねば、かたみの筥を取りもちて、故郷ふるさとへこそかへりけれ。忘れもやらぬこしかた行末の事ども思ひつゞけて、はるかの波路をかへるとて、浦島太郎かくなむ、

かりそめに契りし人のおもかげを忘れもやらぬ身をいかゞせむ

さて浦島は故郷へ歸りみてあれば、人跡絶えはてて、虎ふす野邊となりにける。浦島これを見て、こはいかなる事やらむと思ひける。かたはらを見れば、柴の庵のありけるにたち、「物いはむ〔一寸お伺ひしますの意〕。」と言ひければ、内より八十許りの翁いであひ、「誰にてわたり候ぞ。」と申せば、浦島申しけるは、「此所に浦島のゆくへ〔浦島のゆかり〕は候はぬか。」と言ひければ、翁申すやう、「いかなる人にて候へば、浦島の行方をば御尋ね候やらむ、不思議にこそ候へ、その浦島とやらむは、はや七百年以前の事と申し傳へ候。」と申しければ、太郎大きに驚き、「こはいかなる事ぞ。」とて、そのいはれをありのまゝに語りければ、翁も不思議の思ひをなし、涙を流し申しけるは、「あれに見えて候ふるき塚、ふるき塔こそ、その人の廟所と申し傳へてさふらへ。」とて、指をさして教へける。

太郎は泣く\/、草ふかく露しげき野邊をわけ、ふるき塚にまゐり、涙をながし、かくなむ、

かりそめに出でにし跡を來てみれば虎ふす野邊となるぞかなしき

さて浦島太郎は一本ひともとの松の木陰にたちより、呆れはててぞゐたりける。太郎思ふやう、龜が與へしかたみの筥、あひ構へてあけさせ給ふなと言ひけれども、今は何かせむ、あけて見ばやと思ひ、見るこそ悔しかりけれ。此の筥をあけて見れば、中より紫の雲三筋のぼりけり。これをみれば二十四五のよはひも忽ち變りはてにける。

さて浦島は鶴になりて、虚空に飛びのぼりける折、此の浦島が年を龜が計らひとして、筥の中にたゝみ入れにけり、さてこそ七百年の齡を保ちけれ。明けて見るなとありしを明けにけるこそ由なけれ。

君にあふ夜は浦島が玉手筥あけて〔筥を明けてと夜が明けてとをかけた。〕悔しきわが涙かな

と歌にもよまれてこそ候へ。生あるもの、いづれも情を知らぬといふことなし。いはんや人間の身として、恩をみて恩を知らぬは、木石にたとへたり。情ふかき夫婦は二世の契りと申すが、寔まことにあり難き事どもかな。浦島は鶴になり、蓬莱の山にあひをなす〔仲間となつて居る。仙人の仲間であらう〕。龜は甲に三せきのいわゐをそなへ〔甲に三正(天地人)の祝ひを備へか〕、萬代よろづよを經しとなり。扠こそめでたきためしにも鶴龜をこそ申し候へ。只人には情あれ、情のある人は行末めでたき由申し傳へたり。其の後浦島太郎は丹後の國に浦島の明神と顯はれ、衆生濟度し給へり。龜も同じ所に神とあらはれ、夫婦の明神となり給ふ。めでたかりけるためしなり。

■浦島太郎の伝説は丹後など日本海側に伝わる。

丹後一宮籠神社、京都丹後にある。主祭神を天彦火明命とし、相殿に豊受大神・天照大神・海神・天水分神を併せ祀る。
境内末社に猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)、春日大明神社(かすがだいみょうじんのやしろ)があります。

彦火明命は、別に上賀茂神社の賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)また、大汝命(大国主命)の御子神、火明命(彦火火出見命の御弟)、丹波道主王とも云われています。

奥宮 真名井神社は皇大神宮と豊受大神宮がともに鎮座した元伊勢となります。豊受大神を主祭神として、天照大神・伊射奈岐大神(いざなぎおおかみ)・伊射奈美大神(いざなみおおかみ)・罔象女命(みづはのめのみこと)・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)・神代五代神(かみよいつつよのかみ)をお祀りしています。磐座奥座では盬土老翁の御神格は豊受大神・大綿津見神・住吉神に包含されています。
磐座奥座では豊受大神・大綿津見神・住吉神の三座が宿るそうで、三神を併せもつ意味は大きいのでは。すなわち、この三神は国つ神だということから何か思いつきませんか?豊受大神(国つ神系)と彦火明命(天孫系)がペア―に見ていいのではないでしょうか。そうです、夫婦の明神(浦島太郎参照)として祭られたのです。天照大神の子のですが、どちらがピリュでどちらがオンジョに比定できるのか解りましたか?彦火明命は海部家の祖先、邇邇芸命は天皇家の祖先だと説明しています。


天照大神(召西奴)一行は漢江(ハンガン)下流の漢山に至り、一番高い負児(プア)岳(三角山)の頂に立ってまわりの地形を見渡した。兄の沸流は、西方の海辺に国を立てようと言った。(B.C.18-16)これは、伯済建国の三国史記の通説ですが、物語から真実を探った方がよさそうです。

奥宮 真名井神社の別称:豊受大神宮・比沼真名井(ひぬまない)・外宮元宮・元伊勢大元宮

浦島太郎の話だと、初めに天照大神(召西奴)は彌鄒忽(ミチュボル)=瑞穂國=仁川(インチョン)に兄の沸流を王に立国した。しかし、近く全羅北道の益山(イクサン)には月支国があったので、そこの大王から芦原中津国(現ソウル)を割譲させようと、交渉に当らせたが、なかなかうまくいかなかった。
とうとう、息子のピリュを向かわせたが、大綿津見神の娘、下照比売(したてるひめ)と恋仲になり、その国を治めようと8年たっても戻ろうとしなかった。<された。
この下照比売竜宮城の乙姫様にあたります。
やっと、ホームシックになったピリュが下照比売に別れを告げて、仁川(インチョン)に戻ると、そこには誰も住んでいなかったかつてはおおぜい建国を喜び合った民が一人もいなくなっていた。したがって、豊受大神は天照の息子の嫁であり、天照は豊受のしゅうとめである。

『歸りみてあれば、人跡絶えはてて、虎ふす野邊となりにける』

こう言って嘆いたのですね。情ふかき夫婦は二世の契りと申すが、寔まことにあり難き事どもかな。浦島は鶴になり、蓬莱の山にあひをなすけるは、・・・なにかとても悲しくなりますね。しかし、其の後浦島太郎は丹後の國に浦島の明神と顯はれ、衆生濟度し給へり。龜も同じ所に神とあらはれ、夫婦の明神となり給ふ。めでたかりけるためしなり。・・・

最初に天下った(建国した)のは仁川で、その後、、芦原中津国(ソウル一帯)の方に移り住んだということでしょうか。百済国(はじめ十済)開祖は兄の沸流です。沸流に随った氏族が海部氏なのでしょう。沸流はぴりゅは日本語ではふるふるになまります。<された。
布留の御魂は石上神宮神宮の宝剣です。沸流は物部大連公の氏神であったと思われます。

浦島太郎の筋書きだと、開祖沸流が浦島太郎に転じた。そうでなければつじつまが合わないのです。

(月支国は箕準王の諸加が卓を王に共立して建国された。王は箕卓。BC169、辰韓をすべて管轄する大王で、後に三韓になってもほぼ全域の大王であった。鏑矢を持つ大王のことである。竜宮城や亀は月支国の文化だったのだろう。古事記の大国主の神裔の段の大国主神である。胸方の奥津宮におられた。多紀理比賣命との間に生まれたのが下光比賣命だと書かれている。
元伊勢の籠神社には猿田彦神と豊受の大神を祭るが、龍の石像がある。竜宮城というのはこの王のシンボルが龍だったのだ。

竜宮城だから龍もいます。亀もいます。乙姫様もいます。できすぎでしょう。

こう見てくると、亀の神はダビデ紋。月支国箕氏(大綿津見神)の家紋だったようです。

どういうわけか分かりませんが、この社紋は変わっていました。宇佐社と同じ三つ巴紋です。





■龍神を祭る神社は月支国卓氏の末裔か。

いずれも海蛇系龍神を祭る神社は国つ神(大綿津見神=海神)がルーツ。
こんにちの日本文化の基底はおそらくこれらの倭人が作ったのだろう。『史記』よりもはるか後世に書かれた『三国志』には「辰韓者古之辰国也」とあり、3世紀の辰韓は辰国の後身とされている。これに対し、『三国志』よりもさらに新しい『後漢書』では「韓有三種,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韩(略)凡七十八国(略)皆古之辰国也」とあり、三韓の地すべてが昔の辰国であるとしていて『三国志』とは異説となっている。いずれにしろ辰国は辰韓または三韓の前身であるとされる。

魏略曰:馬韓辰王治月支國

辰国は馬韓月支国の辰王に滅亡された

正確には辰国の辰王は間違いで馬韓月支国辰王、または月支国辰王とした方が良い。


倭人の5つのルーツ
墨江神社の住吉海神系 海蛇三神=表筒男(うわつつのお)・中筒男・底筒男・底筒・神息長帯姫命・事代主命=<された。
(辰国大王系)
海神綿津見系”安曇の祖” 海蛇三神=底津綿津見・中津綿津見・上津綿津見 (わだつみ)
福岡市の住吉神が祖=<された。
(辰国大王系
宗像神系“宗像の祖” 宗像三女神=多紀理媛(たぎり)・市杵島(いちきしま)媛・田寸津(たぎつ)媛)(胸形の大国主の神裔=辰国大王系)
賀茂神社系
”葛城・賀茂・”
賀茂別雷神賀茂別雷神);大物主 オオモノヌシ(大綿津見神
(上賀茂神社=賀茂別雷神;下鴨社=玉依比売 =(辰国大王系)
椎根津彦神系(しいねつひこ)
”倭直の祖”
“淡路の海人”
大和大国魂神社(やまとおおくにみたま)・倭大国魂神(大年神の神裔)(天孫元流系)


*参照 岡田米夫氏の説(日本史小百科「神社」、近藤出版社)
何れも月支国箕氏(大綿津見神)海神の部族と言えます。
よくよく見ると
倭の水軍ぞろいといった感じですよね。
・250年ごろ 月支国滅亡
*369 異邦の百済は馬韓などに12国を滅ぼす。枕弥多礼国(チンミタレグ)など栄山江流域まで制圧される。
このころ、全面的に日本に軸足を移したのでしょう。
*倭寇(わこう)は、一般的には13世紀から16世紀にかけて活動した海賊。
*書紀神功皇后3月の弦琴トに中筒男・底筒男・底筒が、「高句麗でなく、新羅を打て」と宣託したのか?。住吉の三神=大綿津見神が現れる。

■伊勢神宮には灯篭に刻まれている。


伊勢内宮に向かう参道にある灯篭の六芒星。元伊勢の奥宮 真名井神社とも共通する。

■住吉神社のある西宮市の市章


市の市章にだけあるのが謎。西(にし)を「篆書体(てんしょたい)」という秦の始皇帝の時代の古代文字で表している。兵庫県西宮市には文化二年(1805)に住吉大神を勧請したとする住吉神社がある(西宮市西波止場町4-4 阪神電車 西宮駅 南へ20分)。甲子園球場が有名。*住吉大社は大阪市住吉区住吉2丁目9-89。で六芒星は神社には特に関係がなさそうである。

これらの六芒星がある神社共通のルーツは(大綿津見神=海神)で、月支国という古代国家の「亀の神紋」であったようだ。ダビデ紋とかユダヤの国旗などと関係がなさそうである。ある意味ですっきり。
月支国王が卓氏は趙国(山西省郎郵)の鉄工部族(商人貴族)であったとすると、鍛冶屋の部族が巡り巡って日本に到達した。おそらく人口の30%は鉄工部族が祖先。

 塩土(しおつち)の翁 別名、国主事勝国勝長狭(くにぬしことかつなさ)。実は、佐田彦大神とも猿田彦大神とも言われ、猿田彦大神の別称を探ると、次のようになる。

1.佐田彦大神【さたひこのおおかみ】京都伏見稲荷大社
2.鹽土老翁神【しほつちおぢのかみ】名古屋市天白区塩竈神社(しおがまじんじゃ)
3.塩椎神【しほつちのかみ】古事記
4.塩筒老翁神【しおづつのおじのかみ】御釜神社(オカマジンジャ)
5.事勝国勝長狭神【コトカツクニカツナガサノミコト】
6.大綿津見神【おほわたつみのかみ】
7.賀茂別雷神【かもわけいかづちのみこと】

塩土翁、この神は、伊勢、宮崎、滋賀、に多くまつられており、およそ1500社あると云う。
上記の三社以外、主だったところ、次のような神社で祀られている。

塩竃神社[宮城県塩釜市一森山ほか各地]
胡宮神社[滋賀県犬上多賀町]
青島神社[宮崎県宮崎市大字折生迫]
塩津神社[滋賀県伊香郡西浅井町]
益救神社[鹿児島県熊毛郡上屋久町]
胡宮神社[滋賀県犬上郡多賀町]

合祀されている神社
都萬神社【つまじんじゃ】宮崎県西都市

■隼人も渡来人

天武十一年七月(683)で「隼人多く来たりて方物を貢ぐ。この日、大隅隼人、阿多隼人が朝廷で相撲をとり、大隅隼人勝つ。」の記事がある。相撲が隼人源流であることはあまり知られていない。大隅隼人、阿多隼人は熊曽国の住人である。
隼人は馬韓のわだつみの民だった。船で鹿児島に亡命してきた。隼人は九州一帯に居住した。およそ4世紀中ごろから移住してきた。
隼人の乱はこうした百済にひどい目にあわされて逃げてきたわだつみ系倭人の背景に考えるべきだろう。でなければ、この反乱がなぜ起きたのか理解できない。隼人の反乱(はやとのはんらん)は、720年(養老4年)九州南部に住む隼人がヤマト王権に対して起こした反乱である。1年半近くに及ぶ戦いは隼人側の敗北で終結し、ヤマト王権の九州南部における支配が確立したという。朝廷は覓国使(べっこくし、くにまぎのつかい)と呼ばれる調査隊を組織して九州南部と南西諸島の調査を行っていたが、700年(文武天皇4年)に覓国使が九州南部各地で現地住民から威嚇を受ける事件が発生した。隼人の反乱(はやとのはんらん)は、720年(養老4年)九州南部に住む隼人がヤマト王権に対して起こした反乱である。1年半近くに及ぶ戦いは隼人側の敗北で終結し、ヤマト王権の九州南部における支配が確立したという。朝廷は覓国使(べっこくし、くにまぎのつかい)と呼ばれる調査隊を組織して九州南部と南西諸島の調査を行っていたが、700年(文武天皇4年)に覓国使が九州南部各地で現地住民から威嚇を受ける事件が発生した。720年「大隅国国司の陽侯史麻呂が殺害された」との報告が伝えられた。朝廷は3月4日、大伴旅人を征隼人持節大将軍に、笠御室と巨勢真人を副将軍に任命し隼人の征討にあたらせた。」この戦いの前哨戦は馬韓の故地にあったのだろう。相撲も外来文化だったというのは簡単だが、倭人の文化だったといえば角は立たない。

■辰韓国は「ちはやぶる悪しき神者」?!?

 天孫系とは檀君神話の流れから、天孫であることを明かす3種の神器があった。日本書紀によれば、曲玉、八咫鏡、草薙剣の3種。これが、天孫であることの表物(しるしもの)である。
楽浪国の神器は「天羽羽矢」とある。そのほか、御璽瑞宝十種であり、扶余の3種の神器とは異なっている。
天羽羽矢は蛇、龍をデザインしてある矢で、装飾が華麗で実用には適しない。しかし、矢は日本では鏑矢、破魔矢として、神社のお守りとして授けられている。特に、日枝神社・山王信仰の神は「大山咋神」(おおやまくいのかみ)系の破魔矢は朱色が施されており、非常に美しい。矢には霊力があるとされ、魔を退散させると信じられてきたのである。<された。
天羽羽矢が下賀茂神社の鳴鏑だろう。

■辰韓国は倭人と同じ風俗

王箕準、賊の衛満に敗れ海に入る。諸加の衆は上将のを奉じて、生郷に月支国を立てる。中馬韓という。辰王は卓である。そして、月支国に王都があったことが知られている。(司馬遷史記)辰国は文字の通り辰(たつ)、龍神信仰である。そして、辰王は小月日国(黄河の西)の人で西域からの渡来人であると云う。ペルシャ系の白人だと比定する。初めに遼河から平壌一帯にありに王都があったようである。その後、鴨緑江に高句麗が台頭すると南下し平壌に、次いで、漢の真番が設置されると、帯方郡(漢江)より、南に移住した。54か国あったが馬韓・辰韓・弁辰の連合帯の王で、それぞれの国は王を立てることができなかったとされる。馬韓の一国月支国(三国志では目支国)に王都を置き、紀元前3世紀頃は、ほぼ三韓を覆っていた。

■大山咋神の娘は丹生族(伊勢の外宮に鎮座)

全国、稲荷神社の稲荷は、「ウカモ」と呼ばれ、これは「稲をになう」という意味である。稲荷は豊穣神であると、同時に丹生(にう)の奉じる水神であった。ウカノミタマ大神は中世になると仏教に習合して、宇賀神という福神となった。宇賀弁才天とも呼ばれる。お姿は蛇であった。稲荷神社系では、弁才天から、さらに、ダキニ天、大聖天、愛染明王にも変貌している。豊受を”トヨウケ”を”トヨウカ”とも呼ぶ。「ウカ」は、海蛇の意味である。ウカノミタマは、紀州の田辺では、海蛇をウカという。(渋沢啓三・日本魚名集覧)、南方熊楠(みなかたくまぐす)は、紀州方言では海蛇を「ウガ」と言うと書いている。ワカヒルメは、海蛇(ウカ)ノミタマであり、稲の(ウケ)モチノカミでもあった。また、「氣」という文字は「稲(うけ)」で氣比神宮「御膳都神」(おおみつけのかみ)がご祭神である。稲荷は(ウカモ)と元は読む。

丹生都比売の別称は
「保食神」(うけもちのかみ)
「宇迦之御魂神」(うかのみたまのかみ)
「大宜津比売神」(おおげつひめのかみ)
「大氣津比売神」(おおげつひめのかみ)
「大御食津神」(おおみけつのかみ)
「御膳都神」(おおみつけのかみ)
 これらは稲荷神社のご祭神と同じ。

稚日女尊-ワカヒルメムチ=丹生都比売のことである。

この女神を奉ずる民を丹生族として、その地盤は和名抄で確認できる地名から七地域に絞れる。

上野国甘楽郡丹生郷 * 
伊勢国飯高郡丹生郷 * 
近江国坂田郡上丹郷 * 
越前国丹生郡丹生郷 *
若狭国遠敷郡丹生郷 *
土佐国安芸郡丹生郷
豊後国海部郡丹生郷

古地名と、延喜式の丹生神社の数で示すと、福井県(若狭・越前)の数が一番多く4社ある。(延喜式の延喜式の丹生神社は、大和に3社、伊勢に2社、紀伊に1社、上野に社)


さて、伊勢神宮の外宮のご祭神は登由宇気神は丹生都比売大神(にうつひめ)、大宜都姫で、大山咋神の娘である。
内宮伊須受(いすゞ)の宮は五十鈴宮で伊勢皇大神宮に比して、外宮は度相(わたらい)の豊受大神宮。

外宮は元伊勢の丹後一宮籠神社、相殿に豊受大神から呼び寄せられた。

豊受大神宮は<された。
丹後一宮籠神社、京都丹後にある。主祭神を天彦火明命に嫁いだ馬韓月支国卓王の娘である。古事記では<された。
下照比賣に名前で登場。



神宮皇后の新羅遠征のさいに霊位を顕したので、応神が広大な土地を紀北に与えて丹生都比売神社を作った。(和歌山市玉津島神社伝承)などは「たたり」を畏れてのことだろうか。書紀「保月神、実にすでに死(まか)れり」、多くの豊穣をもたらすが、死んだあとに生まれるという豊穣神話から、この神は若くして亡くないる。ここは下照比賣に比定するのです。

丹とは朱赤色である。稲荷塗の朱色や、朱の鳥居の起源である。そして、この赤色はやはり、丹(にう)から来ている。丹の原料、辰砂である。水銀朱とも言われ、これを蒸留すると水銀が取れるのである。中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになった。日本では縄文時代から産出が知られ、いわゆる魏志倭人伝の邪馬台国にも「其山 丹有」と記述されている。


越前国一宮 氣比神宮(けひじんぐう、気比神宮)は御食津(みけつ)、すなわち「御膳都神」をご祭神とする。

気比神宮「日本三大鳥居」の1つに数えられている重要文化財。


■熊襲梟師(くまそたける)は「ちはやぶる悪しき神」ですか?



山門郡(やまとぐん)瀬高町「高屋宮こうやのみや」の御神体。これは百済王族の軍服?
この謎のご神体は七支刀を持っている。七支刀は百済王族しか持つことができない神器であり、王の戴冠式や出兵の式などで使われる。よく敵を調伏するという霊力をもつというこの七支刀、まさしく百済の王権を象徴するものである。このような七支刀を手に持つ木像は百済王族に他ならないだろう。思うに、これが応神天皇か?

景行紀では小碓命が熊襲梟師(くまそたける)の持つ弓を絶つことを策す。熊襲梟師の二人の娘の姉、市乾鹿文(いちふかや)を欺いて幕下に囲って籠絡し、幣(まいない)を渡して娘に矢を破壊してくれと頼む。姉娘は自主的に父殺しを行う。国が亡びるというのに。父にしこたま酒を飲ませると、が酔って寝ているすきに弦(ゆずる)を断ってしまう。潜んでいた刺客はここぞとばかり熊襲梟師を殺してしまう。父を殺した市乾鹿文(いちふかや)は罪を問うて殺してしまう。こうして熊襲を倒した小碓命は熊襲を倒すと妹の市鹿文(いちかや)を火国造(ひのくにのみやつこ)にしたという。古事記では童女の姿に化けて女の中に紛れ込んで宴たけなわのときにぐさりと刺し殺す。
これは景行天皇が高屋宮に6年間おられたときの挿話である。ここで、熊襲梟師の持つ弓矢が敵を調伏する霊力のある神器であることを理解しなければならない。この話は、自鳴鼓(チャミョンゴ)伝説そのものである。小碓命をホドン王子(無恤(ムヒュル)大武神王の王子、(曷思王の孫娘の生める子)、楽浪国の王崔理、姉を羅姫(ラヒ)王女、妹を自鳴(チャミョン)王女の物語と似ている。読み替えると、熊襲梟師のこのエピソードはより現実感が増す。まあ、ターゲットをうまく騙して勝つ、騙された方が悪い、これは武士道に恥じるよね。熊襲梟師でなく、この小碓命やホドン王子に腹が立ってしまう。やっぱりDNAに記憶されているのでしょうかねえ。



大山咋神の娘、神吾田鹿葦津媛(かむあたかしつひめ)の持つ鏑矢???
鳴鏑を用つ神が目もあでやかな舞を見る。雅(みやび)を感じさせる。
楽浪人の末裔である。

浦島太郎の竜宮城を連想させるのは、その華麗さだ。馬韓月支国は箕準王の諸加が卓氏を王に共立して建国された。(BC169)もともと戦国七雄の趙国の鉄工部族の貴族らだったので、かなり高度な文化をもっていたと思われる。<された。
趙国の鉄工部族は、日本にやってきて宇佐神宮の大本の神となっている。

<された。
始祖都慕大王は日の神として降臨し、「都慕大王」はツムで、鄒牟(추모チュム)に通じる。鄒牟は高朱蒙の別名で、百済の太祖は高句麗の開祖と同一である。後扶余の開祖は尉仇台である。また、書記では鄒牟、スムともいい、岐阜一宮水無神社はみずなじんじゃと読ませているが水無はハングルではスムと読む。





http://youtu.be/T0fILOAT5b8 日枝神社の巫女舞 願掛けした破魔矢を巫女が祈祷する舞。

■大綿津見神の神宝「鏑矢」がはたして神社に共通しているか?

大綿津見神は別名、大山咋神、山末之大主神
古事記には『この神は近つ淡海国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり』と書かれる。やはり、鳴鏑は神器と書かれている。矢が守り神であることは証明された。全国の日吉神社・日枝神社・山王神社、松尾神社に勧請されている神であり、大物主神である。日吉大社の場合、東本宮に大山咋神、西本宮に大物主神が鎮座している。この関係は、大国主と事代主に近い。
『この神は近つ淡海国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり』と書かれる。やはり、鳴鏑は神器と書かれている。矢が守り神であることは証明された。全国の日吉神社・日枝神社・山王神社、松尾神社に勧請されている神である。
破魔矢は除魔開運、鏑矢は一番矢の意味を持つ。鏑矢(かぶらや、希に蕪矢とも書く)は矢の先端付近の鏃の根元に位置するように鏑(後述)が取り付けられた矢のこと。射放つと音響が生じることから戦場における合図として合戦開始等の通知に用いられた。戦闘で一番最初に放たれる矢だったとされる。
上賀茂神社(かみがもじんじゃ)や住吉大社では『蟇目の儀』(ひきめのぎ)が伝わっている。

蟇目(ひきめ)矢
引目とも書く。上記鏑に数カ所の穴を開けたもので、鏑と同様に矢箆を上下に貫通させ、状のもので固定する。正式な造りは4つ穴で、これを四目(しめ)と呼ぶ。これを矢の先端に取り付けた矢を放つと穴に空気が流入する事でのように音が鳴り、鋭い音を発する。蟇目の出す音がを払い場を清めるとされている。蟇目鏑とも言う。


京都・上賀茂神社の武射神事。小笠原流宗家による「蟇目矢」が放たれる。


住吉大社で蟇目奉射が行われた。
その他:愛知県津島市にある津島神社 小笠原流百々手(ももて)式。
(どんな音がするのか、動画で聞いてみよう。)





■全国に大山咋神・綿津見神が祭られる神社は、とんでもなく多い。

■丹塗矢と縁のある大山咋神系神社

『秦氏本系帳』に記載がある丹塗矢の神話によると、上賀茂神社(賀茂別雷神社)の賀茂別雷大神は松尾大社の祭神、すなわち、大山咋神。


上賀茂神社(賀茂別雷神社)の賀茂別雷大神は松尾大社の祭神、すなわち、大山咋神。

比叡山の麓の日吉大社(滋賀県大津市)が大山咋神を祀る全国の日枝神社の総本社である。

日吉大社には後に大物主神が勧請されており、大物主神を大比叡、大山咋神を小比叡と呼ぶ。

山王は二神の総称である。
日枝神社(東京都千代田区)、松尾大社(京都市西京区)および全国の日枝神社、松尾神社。

日枝神社 (釧路市) - 北海道釧路市に所在する神社。
日枝神社 (酒田市) - 山形県酒田市に所在する旧県社。
日枝神社 (小山市) - 栃木県小山市に所在する旧村社。
日枝神社 (桐生市) - 群馬県桐生市に所在する旧県社。
日枝神社 (川越市) - 埼玉県川越市に所在する喜多院の鎮守社。
日枝神社 (市川市) - 千葉県市川市に所在する神社。
日枝神社 (千代田区) - 東京都千代田区にある旧官幣大社・別表神社。
日枝神社 (大田区) - 東京都大田区に所在する神社。
日枝神社 (横浜市) - 神奈川県横浜市に所在する旧村社。
日枝神社 (大磯町) - 神奈川県中郡大磯町大磯に所在する神社。
日枝神社 (厚木市) - 神奈川県厚木市に所在する旧村社。
日枝神社 (富山市) - 富山県富山市に所在する旧県社・別表神社。
日枝神社 (高山市) - 岐阜県高山市に所在する旧県社。
日枝神社 (沼津市) - 静岡県沼津市に所在する神社。
日枝神社 (泉佐野市) - 大阪府泉佐野市に所在する神社。
日枝神社 (田辺市) - 和歌山県田辺市に所在する神社。
日枝神社 (徳島市) - 徳島県徳島市に所在する神社。
日枝神社 (長与町) - 長崎県長与町に所在する神社。
山王神社 (苫小牧市) - 北大演習林に隣接した神社。近年、台風で巨大な鳥居が倒れ、鳥居は土台だけを残して撤去されている。
山王神社 (高畠町) - 山形県東置賜郡高畠町に鎮座する神社。
関東・甲信地方 山王神社 (小田原市) - 神奈川県小田原市に鎮座する神社。
九州・沖縄地方 山王神社 (長崎市) - 長崎県長崎市に鎮座する神社。


■綿津見神(わたつみのかみ)、綿津見大神(おおわたつみのかみ)、『日本書紀』は少童命(わたつみのみこと)、海神(わたつみ、わたのかみ)、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)を祭る神社

志賀海神社- 福岡県福岡市東区志賀島 総本社
綿津見神社・海神社- 全国各地
志賀神社- 福岡県糟屋郡粕屋町鎮座
風浪宮- 福岡県大川市酒見鎮座
渡海神社- 千葉県銚子市鎮座
穂高神社- 長野県安曇野市穂高鎮座
二見興玉神社 - 三重県伊勢市二見町鎮座
林神社 (明石市)- 兵庫県明石市鎮座
小江神社- 兵庫県豊岡市鎮座
田土浦坐神社- 岡山県倉敷市下津井田之浦鎮座
由加神社本宮- 岡山県倉敷市児島由加鎮座
沼名前神社- 広島県福山市鞆町後地鎮座
水上神社- 島根県大田市温泉津町鎮座
浜殿神社- 長崎県対馬市豊玉町仁位鎮座
高千穂神社- 宮崎県西臼杵郡高千穂町鎮座
鹿児島神社 (鹿児島市)- 鹿児島県鹿児島市草牟田鎮
飯倉神社- 鹿児島県南九州市鎮座

■丹生都比売系神社(にふつひめじんじゃ)

丹生神社 (習志野市) - 千葉県習志野市谷津地区鎮座
丹生神社 (珠洲市横山) - 石川県珠洲市狼煙町横山地区鎮座
丹生神社 (多気町) - 三重県多気郡多気町鎮座
丹生神社 (長浜市) - 滋賀県長浜市鎮座
丹生神社 (明王寺) - 伊太祁曽神社 奥院 和歌山県和歌山市明王寺鎮座
丹生神社 (田辺市) - 和歌山県田辺市龍神村鎮座
丹生都比売神社 - 和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野鎮座
丹生酒殿神社 - 和歌山県伊都郡かつらぎ町三谷鎮座
丹生官省符神社 - 和歌山県伊都郡九度山町慈尊院鎮座
丹生川上神社 - 奈良県吉野郡東吉野村鎮座
丹生川上神社上社 - 奈良県吉野郡下市町鎮座
丹生川上神社下社 - 奈良県吉野郡川上村鎮座
丹生神社 (宇陀市榛原) - 奈良県宇陀市榛原鎮座
丹生神社 (宇陀市菟田野) - 奈良県宇陀市菟田野鎮座

伊勢国丹生が特産品だった。これらの神社は辰砂の採掘と密接な関係がある。

諏訪神社 長脛彦、みしゃぐち神や船をお祭りで担ぐなど馬韓の故地のなごりを残している。

■恵比寿系神社

三輪惠比須神社
長田神社
事代主神社
生夷神社
恵美須神社(京都市東山区)
今宮戎神社(大阪市浪速区)
志紀長吉神社(大阪市平野区)
併祭 愛宕神社

■猿田彦大神の別称、佐田彦大神とも塩土(しおつち)の翁を探ると、次のようになる。

1.佐田彦大神【さたひこのおおかみ】京都伏見稲荷大社
2.鹽土老翁神【しほつちおぢのかみ】名古屋市天白区塩竈神社(しおがまじんじゃ)
3.塩椎神【しほつちのかみ】古事記
4.塩筒老翁神【しおづつのおじのかみ】御釜神社(オカマジンジャ)
5.事勝国勝長狭神【コトカツクニカツナガサノミコト】
6.大綿津見神【おほわたつみのかみ】
7.賀茂別雷神【かもわけいかづちのみこと】

*賀茂別(かものわけ)「別」は「支」と同意であるので、「氏」である。開くと賀茂氏(かもうじ)と訳せる。賀茂氏は、武内宿祢に比定できる。詳しくは、別にする。

塩土翁、この神は、伊勢、宮崎、滋賀、に多くまつられており、およそ1500社あると云う。
上記の三社以外、主だったところ、次のような神社で祀られている。

塩竃神社[宮城県塩釜市一森山ほか各地]
胡宮神社[滋賀県犬上多賀町]
青島神社[宮崎県宮崎市大字折生迫]
塩津神社[滋賀県伊香郡西浅井町]
益救神社[鹿児島県熊毛郡上屋久町]
胡宮神社[滋賀県犬上郡多賀町]

合祀されている神社
都萬神社(つまじんじゃ)宮崎県西都市

■もう、多すぎるので後は一括で・・・

稲荷神社   32000社
諏訪神社   13000社
厳島神社   9500社
宗像神社   6000社
日吉・山王  3800社
住吉神社   1600社
丹生神社    88社
なんと、166000社、八幡神社40000社系も含めると20万社ちかくなるだろう。(大三輪と素戔嗚を主に祭る社は除く。)

宇佐八幡宮(宇佐神宮)
一之御殿:八幡大神 (はちまんおおかみ) - 誉田別尊(応神天皇)とする
二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ) - 宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)とする
三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう) - 別名として息長足姫命


*お参りは2礼4泊1礼、古儀なんだそうで出雲大社と同じ。宇佐八幡は吉備村上水軍などと人脈が深い。)
*三之御殿:神功皇后は日本書紀が成立した後にできたであろう。比賣神を宗像三女神とすれば天津神を筆頭とするも海神系となる。
*桃太郎の鬼退治:イヌは宮崎神宮、サルは宇佐八幡、キジは住吉大社と当ててみると面白い。
*鹿児島県姶良郡隼人町*鹿児島神宮の「大隅正八幡本縁起」では『中国の震旦国隣王・陳大王の娘、大比留女(おおひるめ)が七才で懐妊して生まれたのがホムタワケノミコト(応神天皇)である。船で大隅の八幡崎に漂着した。』とある。
震旦国(百済)の隣(となり)の辰(チン)大王に読み替える。と、すっきり。辰大王の娘、主役登場、豊玉比賣=木花咲花姫ですね。ええっ7歳で出産ですか?それはともかくとして、だんだん応神天皇の正体に近づきました。誰に比定できるか分かりますよね。大隅の八幡崎に漂着したかどうかは分かりませんが・・・。英彦山開山伝説(大分県)にも「彦山権現」は「震旦国」から来たと書かれる。鹿を助ける鷹の物語がある。鹿は扶余である。鷹は百済である。震旦国は檀君神話を持つという意味に開くと、神檀国となる。それは扶余のこと。すなわち扶余百済だ。

オオヒルメムチ
古事記 ご祭神
豊玉比売
海童の少女 大比留女(おおひるめ)
木花佐久夜毘売尊  市杵島(いちきしま)媛


_そこで、遡るほど創作的文学のようにが見える。つまり

<された。
大歳神の系譜

 大歳神は八千矛神の大神の長男であり八十神のことである。母は神大市比賣、別名須勢理比売。弟、末子に宇迦之御魂神が居られる。<された。
<された。
、東扶余の純系王であるが、高句麗三代目大武神王に攻められて亡くなる。<された。
<された。
宇迦之御魂神は兄を見捨てて逃走した。

大歳御祖神社 静岡県静岡市葵区飛騨一宮水無神社 岐阜県高山市などで祀られている。また、特に西日本で大歳神社・大歳様として田の畔の祠などに祀られている。

○葛木御歳神社 奈良県御所市が全国の御歳神(御年神)を祭る神社の総本社とされる。

○大和神社(おおやまとじんじゃ)右殿でも祀られている。中殿に日本大国魂大神 八千戈大神、右殿に御年大神を祀る。<された。
<された。
<された。
<された。
日本大国魂大神は大歳神の子、<された。
<された。
八千戈大神は大歳神の父である。大和神社(おおやまとじんじゃ)には東扶余三代が祀られている

○日本大国魂大神(倭大国魂神)以外の祭神については文献によって諸説あり、『神社要録』では左殿を須沼比神。『社家説』『元要記』では左殿を三輪大明神(大物主)・右殿を天照大神。『元要記一説』では右殿を稲倉魂神(ウカノミタマ)としている。

○歳神様(日本)一年を守り、豊作を叶える神。



■日本、唐の占領統治を許す!結果、国体が進化向上した。

天武天皇の壬申の乱に挙兵に参加した豪族は、新参の百済人が朝廷で威張りくさるのを面白く思っていない。百済貴族を嫌った豪族らはおそらく先の月支国辰王の末裔だろう。百済には恩讐を持っているからだ。壬申年の挙兵は、唐の使者郭務悰が5月30日に帰国してから約1か月後の22日に決断された。郭務悰が47隻の唐の軍艦で連れてきたのは2000人の百済難民だった。唐の軍船を利用して日本に来るには相当の賄賂を渡しただろう。察するに金のある身分の高い百済の王族・貴族を連れてきたのだ。百済が滅亡した。仇討ちには絶好の機会である。しかし、天智天皇では無理だった。よって壬申の乱が勃発。おもに、藤原の姓をもつ貴族を倒した。天武天皇は(673年)2月27日に即位した。鸕野讃良皇女を皇后に立て、一人の大臣も置かず、直接に政務をみた。これを皇親政治という・・・これだよ。ようするに、武装解除された孤立無援の王朝になったのだ。中大兄皇子(後の天智天皇)大化2年(646年)1月に改新の詔を出した。公地公民制となり、大臣、大連の衣冠を廃止された。これは天皇の権力強化であり、豪族の土地私有を否定されたことであり、豪族の不満が頂点に達したのだろう。経済的には皇親政治とは大化の改新を崩したのだ。
ことの始まりは白村江(はくすきのえ)の戦いに敗れたことである。
天智天皇三年 夏五月戊申朔甲子、百濟鎭將劉仁願、遣朝散大夫郭務悰等、進表函與獻物。是月、大紫蘇我連大臣薨。或本、大臣薨注五月。六月、嶋皇祖母命薨。

天智天皇三年 冬十月乙亥朔、宣發遣郭務悰等勅。是日、中臣內臣、遣沙門智祥賜物於郭務悰。戊寅、饗賜郭務悰等。是月、高麗大臣蓋金、終於其國、遣言於兒等曰「汝等兄弟、和如魚水勿爭爵位。若不如是必爲隣咲。」

天智天皇三年 十二月甲戌朔乙酉、郭務悰等罷歸。是月、淡海國言「坂田郡人小竹田史身之猪槽水中忽然稻生、身取而收、日々到富。栗太郡人磐城村主殷之新婦床席頭端、一宿之間稻生而穗、其旦垂頴而熟、明日之夜更生一穗。新婦出庭、兩箇鑰匙自天落前、婦取而與殷、殷得始富。」

天智天皇三年 是歲、於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等置防與烽。又於筑紫築大堤貯水、名曰水城。
天智天皇 四年秋八月、遣達率答㶱春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城。耽羅遣使來朝。九月庚午朔壬辰、唐國遣朝散大夫沂州司馬上柱國劉德高等。等謂、右戎衞郎將上柱國百濟禰軍・朝散大夫柱國郭務悰、凡二百五十四人。七月廿八日至于對馬、九月廿日至于筑紫、廿二日進表函焉。冬十月己亥朔己酉、大閲于菟道。十一月己巳朔辛巳、饗賜劉德高等。十二月戊戌朔辛亥、賜物於劉德高等。是月、劉德高等罷歸。是歲、遣小錦守君大石等於大唐、云々。等謂、小山坂合部連石積・大乙吉士岐彌・吉士針間。蓋送唐使人乎。
667(天智6)年11月9日 百濟の鎮将劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聡等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。

<された。
天智天皇七年 是歲、遣小錦中河內直鯨等、使於大唐。又以佐平餘自信・佐平鬼室集斯等男女七百餘人、遷居近江國蒲生郡。又大唐遣郭務悰等二千餘人。
<された。
錦中河內直鯨らを大唐に派遣する。また、<された。
佐平餘自信・佐平鬼室集斯ら男女700余人を近江国の<された。
蒲生郡に移動し住まわせた。また、大唐は郭務悰ら二千人を派遣してきた。

<された。
天智天皇八年 是歲、遣小錦中河內直鯨等、使於大唐。又以佐平餘自信・佐平鬼室集斯等男女七百餘人、遷居近江國蒲生郡。又大唐遣
郭務悰等二千餘人。

天智天皇十年 十一月甲午朔癸卯、對馬國司、遣使於筑紫大宰府、言「月生二日、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人、從唐來曰『唐國使人郭務悰等六百人・送使沙宅孫登等一千四百人、總合二千人乘船卌七隻、倶泊於比智嶋、相謂之曰、今吾輩人船數衆、忽然到彼、恐彼防人驚駭射戰。乃遣道久等預稍披陳來朝之意。』

郭務悰が日本に駐留していたとしたら何つまでだろうか。
一、『善隣国宝記』は語る
 663年白村江で倭が敗北後、日本書紀には唐の使節が天智3、4、8、10年と4回倭に来たことが記されている。その内、3、8年の記述はどこに来たかが明確にされていない。しかし、天智4年9月「…唐国、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣す。」の日本書紀の記事の注で「…郭務悰…7月28日に、対馬に至り、9月20日に、筑紫に至る。22日に表函を進む。」と記されており、筑紫から2日間で都に至っていることから、倭の都は筑紫にあったと推測される。また、天智10年に来倭した郭務悰に対して、天武即位前記元年3月「…筑紫に遣わして、天皇の喪を郭務悰等に告げしむ。」とあり、唐の使節は筑紫に居たことが書かれている。<された。
唐の使節と渉外をしていたのは都から派遣された臣で筑紫で応対していたのだ。

一、元年春三月壬辰朔己酉、遣內小七位阿曇連稻敷於筑紫、告天皇喪於郭務悰等。於是、郭務悰等、咸着喪服三遍舉哀、向東稽首。壬子、郭務悰等、再拜進書函與信物。



671年 天智天皇三年から郭務悰の名が現れます。
<された。
669年、郭務淙は「今われわれの人数も船も、数がとても多い。このまま博多にいけば防人(さきもり)たちが驚き立って、戦ってくるだろう。船は47隻、その人数 2000人、いま比知嶋に停泊しているので我らが来朝の意を披き陳そう」と大和に使いをよこした。「いま再び戦えば国が滅亡するかもしれない。」スメラミ コトの詔は不戦だった。主だった重臣にそれを固く誓わせた。
<された。
673年 天武天皇即位元年の春3月18日。内小七位(ウチノスナキナナツノクライ)の阿曇連稲敷(アズミノムラジイナシキ)を筑紫に派遣して、天皇の喪(ミモ)を郭務悰(カクムソウ)たちに告げた。郭務悰たちは全員が喪服を着て、三遍挙哀(ミタビミネタテマツル=泣いて悲しみを表現する儀式)を行い、東に向いて拝んだ。
3月21日。郭務悰たちは再拝して、書函(フミバコ)と信物(クニツモノ=特産品のお土産)を献上した。夏5月12日。甲冑弓矢(ヨロイカブトユミヤ)を郭務悰たちに与えた。この日に郭務悰に与えたものは、すべて合わせて、絁(フトギヌ)が1673匹・布2852端・綿666斤である。

673年に郭務悰筑紫にいたことは間違いありませんね。天智天皇の崩御を郭務悰に報告しています。
692年、持統天皇紀には郭務悰が阿弥陀仏を上送したことが記されています。

一、<された。
692年、 持統天皇六年閏五月乙未朔丁酉、大水。遣使循行郡國、禀貸災害不能自存者、令得漁採山林池澤。詔令京師及四畿內、講說金光明經。戊戌、賜沙門觀成、絁十五匹・綿卅屯・布五十端、美其所造鉛粉。丁未、伊勢大神奏天皇曰「免伊勢國今年調役。然應輸其二神郡、赤引絲參拾伍斤、於來年、當折其代。」己酉、詔筑紫大宰率河內王等曰「宜遣沙門於大隅與阿多、可傳佛教。復、上送大唐大使郭務悰爲御近江大津宮天皇所造阿彌陀像。」
持統天皇紀に「筑紫の大宰率・河内王らが言う「天皇が沙門を派遣して大隅と阿多(隼人)に仏教を教えるべきだ。また、大唐大使郭務悰が天皇のおられる近江大津宮に<された。
阿弥陀像を上送を為した。」
この<された。
大唐大使郭務悰が仏像を送ったという報告は大宰府の官が言ったこととしているが、郭務悰がいたところは都府楼で、これは筑紫都督であった。そこで、持統天皇6年は壬辰(692年)である。それまでの間、筑紫と大津と二都あって、筑紫の唐の行政システムは東国まで及び、郭務悰の軍政を大和朝廷は補佐していたと考えられる。これは占領させておいて、すっかり行政のノウハウをいただこうといういう高度な作戦なのだろうか

■赤い軍旗の出所

 新参の百済王族を重要な要職につけるという厚遇に反発する勢力が大海人皇子をたちまち押し上げた。吉野、紀州、美濃、尾張、甲斐(信濃)から続々と軍勢が集まったのは大義があったからだ。壬申の乱で大海人皇子の軍勢は赤い旗を掲げ、赤を衣の上に付けて印とした。たちまち数万の軍勢が赤い旗と衣をつけて現われた。戦には準備期間が必要で、明日でもあさってでも出陣できるわけではない。晩年には「朱鳥」と改元したが、天武が赤が好きだったから赤い旗になったのではない。なぜここに赤い旗が現れたのだろうか。はじめに結集したのは吉野、紀州(和歌山)で、ここは丹生都比賣を祭った神社が多いように「丹生族」の拠点だ。赤い丹塗りの軍装をした兵は、真っ赤な旗を林立させて大地を覆うように陣を構えた。「赤」といえば、紛れもない国つ神の軍だった。彼らの太刀の柄(つか)には赤い丹塗り(にぬり)を施し、刀尻には赤い布を裁って飾っていたという。この赤い色とは高価な丹生(にう)だった。さて、クーデターである側面はあるものの、「壬申の乱」なんて失礼だ。朝敵扱いを止めて、せめて「壬申の変」にして欲しい。

■伊勢神宮の外宮「豊受大神宮」なんと持統天皇がお造りになった!

 皇位についた天武天皇が必然的に天智天皇時代の大臣をすっきり一網打尽にし、そして筑紫の大宰栗隈王と吉備国守当摩公広嶋など天智天皇に忠誠だった重職の役人を殺した。これは非常に大きな国替わりだ。あの奉ろわないといわれていた九州の熊曾の隼人が朝廷で相撲をとった。今でいう天覧相撲だが、新王朝に祝賀に来たのでしょう。(天武5年)

宮に入ってからは一人の大臣も置かなかった。なかんずく一人の大臣もいないのでは政治が執れないのでは・・・と心配ですよね? 
「だいじょうぶだ、郭務悰に従うように国々の国司に詔してある。筑紫で朕に替わって郭務悰が<された。
あんばいよく政治をしてくれている。中国の仕組みを使って、そりゃ見事なものだ。」

そこで、大和の都とは、斎宮(いつきのみや)は実質的な政所(まんどころ)となっていた。斎宮(いつきのみや)は神社庁にしては規模が大きすぎるのである。つまり、天武も天孫には違いないから、やけっぱちで女色と酒に溺れて引きこもってしまった。それを支えたのが後の持統天皇。
皇后・鸕野讃良皇女(うののさららのおうじょ)は伊勢神宮にとりわけ尽くした女性である。神宮式年遷宮を始められ、みずから何回も伊勢に赴いて遷宮を成し遂げたという。また、斎宮(さいのみや)を復活させ大来皇女を斎王として仕えさせた。皇親政治とは、ほとんど鸕野讃良皇女と子の草壁皇子が動かしたのだ。壬申の乱で功労があった地方豪族をねぎらうことも忘れなかった。この時、大三輪氏、雀部氏、石上氏、藤原氏、石川氏,巨勢氏、膳部氏、春日氏、上毛野氏、大友氏、紀伊氏、平郡氏、羽田氏、阿倍氏、佐伯氏、采女氏、穂積氏、阿曇氏、などの地方豪族、また、賀茂氏、物部氏、和邇氏、大伴氏、久米氏、和気氏、安曇氏、宗像氏、蘇我石川氏などの功のあった豪族が鸕野讃良皇女の政治を支えていた。ただ一人生き残った藤原不比等は文官で才能を発揮したが、皆から嘘つき男と評判は悪い。
鸕野讃良皇女(うののさららのおうじょ)持統天皇になると、吉野への行幸は30回以上におよび回数のうえでは伊勢を圧倒する。吉野宮は丹生族の拠点。なにか秘密めいた儀式でもあったのだろうか。持統天皇は697年8月1日に15才の軽皇子に譲位、皇極についで2番目で、太上天皇(上皇)になった。上皇になると、『続日本紀』文武二年(698年)12月、乙夘に、遷多氣大神宮于度會郡(多気大神宮を度会郡に遷す)ということを実行なされた。あの伊勢神宮の外宮(豊受大神宮とようけだいじんぐう)を勧請なされた。
丹生都比賣、別名、
「保食神」(うけもちのかみ)
「宇迦之御魂神」(うかのみたまのかみ)
「大宜津比売神」(おおげつひめのかみ)
「大気津比売神」(おおげつひめのかみ)
「大御食津神」(おおみけつのかみ)
「御膳都神」(おおみけつのかみ
を、伊勢の度会(わたらい)にお堅めになった。




伊勢水銀とも呼ばれ、吉野は丹砂(朱色が特徴)の産地でもあり、神仙境であった。さらに、宮廷、貴族と密接な土地だった。吉野には、丹生川という川がある。いわゆる、天皇の行幸はおびただしい数に上り、なぜかくも持統天皇が吉野に惹かれたのかは、どうやら「財源」を求めてのことらしいのである。不思議なことに、持統天皇は31回も行幸している。これら鉱山師たちは、丹生都比売を祭神としていたので、丹生都比売を(豊受大神として)伊勢神宮に遷宮した。吉野宮に26回も行幸された秘密が垣間見えました。さて、これで、馬韓月支国の綿津見神の姫が天照大神と並び伊勢神宮に祭られたことは、千年に一度の大変革なのです。おそらく海神系の神社はこのときから優勢になったことが考えられます。荘厳な豊受大神宮をご自身でご覧になられたでしょう。ほど間もなく702年にお亡くなりになった。

庚戌に、後皇子尊薨りましぬ。
 696年に天武天皇の息子、高市皇子が亡くなり、柿本人麻呂が追悼の歌(万葉集199)を作る。
「度會之 斎宮従神風尓 伊吹或之 天雲乎 日之目毛不令見 常闇尓 覆賜而定之・・・」
度會の 斎宮に 神風や い吹き惑わし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひたまひて・・・
度會の(わたらい)が豊受大神宮だと、696年には完成していたとも見える。

斎宮跡(斎王の森史跡公園内)三重県明和町

*博多の「都府楼(とふろう)」  府は护[hù]で護[hù]と同じ。唐のために初め創建され、空き家になって大宰府が引っ越したのではないだろうか。
667(天智6)年11月9日
 百濟の鎮将劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聡等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。
筑紫都督府が日本書紀に現れている一条。百済の場合、7世紀後半(白村江の戦い後)に「五都督府」が設置されている(三国史記)  熊津都督府・馬韓都督府、東明都督府、金蓮都督府、徳安都督府で、都督府の名称は同じである。旧高句麗に安東都護府、同盟した新羅にも鶏林州都督府を置いている。新羅は鶏林州都督府を置かれて支配を強化されたので、同盟したのに、なんで支配されるの?約束が違うじゃん・・・・と、唐羅戦争に発展したのであろう。
天武天皇は郭務宗らと不戦を臣下に堅く命じ、郭務宗らを迎えるために立派な建物を造るよう命じたのだろう。本国でも住んだことがない立派な政庁を見て、それが功を奏したのだろう。<された。
郭務宗は3カ月ぐらいで引き揚げた。<された。
<された。
郭務宗は高句麗に出軍をしぶって、島流しにされた。

だが、実際には大和王朝は唐の政庁下に30年も置かれたようである。


唐のやり方は、評督は「評」を行政単位として管理した。これを日本では、評(こおり)制といった。行政は713年まで「郡」という名称ではなく、「評」という名称に従っていた。つまり、「都督府」は 「中央」であり、評は「地方」である。ようするに、都督府が置かれたとき、博多都楼府が当時の日本の事実上の政庁(都)となった。

701年大宝律令を発布、「評」を「郡」と改称した時点、持統天皇の次の文武天皇、大宝元年(701年)のことで あった。これは中国に対して独立宣言をしたに等しい画期的なことである。また、702年6月、32年ぶりに粟田真人(あわたのまひと)を執節使とする遣唐使が出発した。このとき、百済帰化人・山上憶良(やまのうえおくら) も書記官として同行している。
 粟田真人(あわたのまひと)なかなかハンサムだったのか、かの則天武后にかわいがられて首尾よく帰還した。国書「新唐書」には、長安城の宮殿で則天武后の宴に招かれた粟田真人の立ち居振る舞いが立派だったと書き残されている。粟田真人が接見したのが、中国史上初の女帝、則天武后、当時76才。 14才で美貌のゆえ後宮に引き抜かれた山西省の材木商の娘で、後宮ドラマではこれほど権力欲の強い女性は他に見当たらない。太宗の後宮に入ったが、死後、尼僧 になり一生皇帝の菩提を弔うのがしきたりだった。皇后も感業寺の尼僧となったが、その尼僧姿も妖艶さを隠しきれなかった。息子の高宗も父同様に自分の後宮 に彼女を召し上げた。とうとう正皇后になったのち、病がちの高宗のかわりに政務をとった。唐は李氏から皇后の一族、武氏のものになってしまった。粟田真人 の名の、「真人」というのは中国では神仙号であり、聖神皇帝と同格である。つまり、真人は中国側をも粟田真人は蓬莱の仙人なのか・・・と、仰天したはずだ。粟田真人(あわたのまひと)が、もしもハンサムでなかったら、日本国は独立を失していたかもわからない。なぜなら、この女王、 専制的で100人もの宗家の者(嫡子)や重臣貴族を一族もろとも滅ぼしている。とうとう女帝となって、周と国名を改めた。

 則天武后が国号を周に改めたのは690年だ。そた矢先の貢献は実は巧妙に計算に入れていたのだろうか?実際に日本がササン朝ペルシャと同格の化外慕礼の国となったのも、粟田真人が周との交渉が成功したのをもって、702年と見る。「天皇」という尊称が名実ともに朝廷内で使用され、ヤマトを「日本」と表記するようになったのもこの年からだ。そこで、冊封の痕跡を排除し、古来からの国としての愛国心、自負と名誉を取り戻そうとする時代意識が生まれ育った。こうしたウェーブのなかで、飛鳥宮も平城京も華麗に創建された。古事記や日本書紀が生まれたのは中国に日本を誇大に印象付けるためだったのだ。日本が国として独立したのは702年というわけだ。そこで、669年~702年の間が失われた30年だったと言える。

  ■高野朝臣新笠(たかのの あそみ にいがさ)
2001年12月23日、日韓ワールドカップ開催の前、天皇陛下の68歳の誕生日に「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。」という記者会見は大きな話題になった。その根拠は、以下の条である。

続日本紀延暦8年12月28日条に

「皇太后姓は和氏、諱は新笠、贈正一位乙継の女(むすめ)なり。母は贈正一位大枝朝臣真妹なり。后の先は百済武寧王の子純陀太子より出ず。、、、、皇太后曰く、其れ百済の遠祖都慕王は河伯の女日精に感じて生めるところなり、皇太后は即ち其の後なり。」とあるのがそれである。

武寧王は雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきみ、第21代蓋鹵王の弟の軍君昆伎王の子、名を嶋君とする。武寧王は倭国で生まれ、41歳に至るまで倭国で生活。晩年百済王となった。その武寧王の子の末裔だというのだ。桓武天皇の母親の高野新笠の系図 では、天皇から和氏と姓(かばね)を頂戴したのは六世代後である。帰化六世なら、生まれも育ちも日本人だ。一方、後段の百済の遠祖が都慕王としているといる。都慕王は高句麗の高朱蒙・東明王だが、高句麗の朱蒙の末裔だとするのは百済の慣例だった。このことと矛盾しないが、日本に来てから11世にもなって、こうも一族、自らを朝鮮での身分を高く上奏することには違和感を感じる。
武寧王の在位は501-523、下の系図は妥当だろう。

嶋君 (第21代蓋鹵王の弟の軍君昆伎王の子、41歳で百済に渡り武寧王となる 462年 - 523年!)
純陀太子  2世 (生まれた時から日本に居住、太子とあるのは探求の必要あり。)
斯我君    3世
法師君    4世
雄蘇利紀君 5世
和史宇奈羅 6世 帰化1世(姓、和氏を賜る)
和史粟勝   7世 帰化2世
和史浄足   8世 帰化3世
和史武助   9世 帰化4世
和史乙継   10世 帰化5世(娘を天皇家に嫁がせて高野姓を賜り、正一位に任じられる。)
高野朝臣新笠 11世 帰化6世が生母として出産したのが桓武天皇(第50代天皇:在位781-806年)
 




天照大神(召西奴)一行は漢江(ハンガン)下流の漢山に至り、一番高い負児(プア)岳(三角山)の頂に立ってまわりの地形を見渡した。兄の沸流は、西方の海辺に国を立てようと言った。(B.C.18-16)

重臣たちは漢江の南方(豊芦原中津国)を指差しながら、「この辺りは大きな川が流れて、北方は高い山岳に守られており、南方には肥沃な平原が広がり、西方は大海が横たわっています。このような要害の地を他に求めることは容易でありません。ですから、ここに都を定めるのがよかろうと存じます」と進言した。(風水では四神の方位に最も適った地形であるとした)

召西奴は彼らの意見をもっともなものと考え、二人の息子にそうするよう勧めた。思慮が浅く粗暴で平素から母親の言葉によく従わなかった沸流は、この時もみんなの意向を無視し、大勢の人を引き連れて海辺の彌鄒忽ミチュホル(豊水穂国 (瑞穂・穂積)の国=今日の仁川インチョン)へ行ってしまった。(浦島の神話と結論は同じです。)

朱蒙の死後、扶余から父を追ってきた琉璃が高句麗王となったことで、沸流と温祚の兄弟は異母兄から阻害されるのを恐れ、十名の臣下と多数の百姓を引き連れて南へと向かった。やがて一行は北漢山に着き、負児嶽に登って周辺を見回した。王の姓は解(へ)氏で、解慕漱(ヘモス)王からきている。「この河南の地は、北に漢水(漢江)、東に高岳、南に肥沃な沢地、西には大海(黄海)と天険の地の利があり、得がたい地勢です。ここを都にすべきです」と臣下たちが勧めた。 兄の沸流(ピリュ)は沿岸に住みたいと言って納得せず、一行を二手に分けて弥鄒忽(今の仁川)へと向かい、そこに定住した。 

 一方、幼少の頃から母親の言葉を尊重し、こせこせしたところのない温祚は、漢江下流の慰礼城に都を定め、この小国を伯濟(ペクチェ)(十済とも)と名付けた。これが百済の建国と拡大の経緯である。
赤字のように、ソソノたちが高句麗を離脱して南下、現在のソウルに到着すると京(みやこ)をどこに定めるか模索中にピリュは西側のインチョンに行ったことは確かだ。そこには彌鄒忽(ミチュボル)には、辰国王に服属する集団がいた。

浦島太郎を沸流(ピリュ)、女を海神(倭人)とすれば、浦島太郎の話はピリュの建国の挫折譚である。また下照姫命との短いロマンスは悲恋である。この二人の間に子供があったかどうかは、浦島太郎にはないが、古事記ではまたたく間に妊娠したと書かれる。
乙姫様は『古事記』では、高比売命(たかひめのみこと)の亦の名が、下光比売命・下照比売命(したてるひめのみこと)。
『日本書紀』では、下照姫。亦の名は高姫、稚国玉。国王の姓は「玉」、龍を国章にしていた。ここに亀を助けて竜宮に行った浦島太郎の話と重なるのである。下に2人の妹があるが、みな天孫にそれぞれ関わる。
『先代旧事本紀』地神本紀では、下照姫命。

■籠神社による系譜

天津彦彦火瓊瓊杵尊(ににぎ)========天照大神
   その二人の兄弟

 兄
 
火遠理命(ほおり)

彦火火出見尊(ひこほほでみ)

 天皇家の祖

日向高千穂笠沙に天下る
豊玉姫 = <山幸彦>

火照命(ほでり)

火闌降命(ほすそり)

海部家の祖

丹後国に天下る

下照姫===豊受大神
<海幸彦≫
 <された。
大綿津見神の二女・木花咲花姫
 <された。
大綿津見神の一女 下照姫・豊受大神
    
  <された。
三女・玉依姫 は豊玉姫の乳母として一緒に嫁ぐ。おそらく、姉妹同時婚。
   二女<された。
<された。
木花咲花姫の生んだ子と結婚する。姉の子供と結婚するというのは近親婚なので、大いに怪しいのだが⁇
       |                 
三女・玉依姫 ===== 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえず)
          │
          ↓
  神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこ)
     磐余彦火火出見尊(神武天皇)


*火須勢理姫は天照大神の子=木俣神


*百済の前身十済(伯済)といわれた当時、南に面した大国の王の娘と政略結婚をしているとみると、大山津見神と事代主側が服従したという形になりますが、国や諡号に豊がつくようになったのは両国共存の約束が成立したと見るべきでしょう。

つぎに日向の高千穂笠沙の岬に降臨したといわれる弟の方をメインに見るには宮崎県の伝承「海彦・山彦」伝説を見ることにします。

■海彦・山彦伝承まとめ

天津彦彦火瓊瓊杵尊(ににぎ=朱蒙)======天照大神(ソソノ)
                      |
                      |
 実像 兄   長女
 実像 温祚 オンジョ (伯済の王となる) 沸流 ピリュ   火須勢理比賣
木俣神
 降臨地  芦原中津国(ソウル)・古事記では
筑紫の日向高千穂のくじふる嶺(負兒嶽부아산
ミチュボル(仁川)・水穂国・ 古事記では天の浮橋・丹後  
実像  実父 解干台  実父 解干台  実父 解朱蒙
 竜宮期間 8年経っても戻る気がなかった。  
 兄の葬儀の時  阿じ志貴高日子根神として現れる  天若日子として竜宮へ出発  
 海神(姫の父)  似ているので兄と見間違える、弟怒る。    
 別名 天津彦番能 邇邇蓺命(日嗣なので尊称となる)  天火明命  
 国の名前  豊芦原中津国(豊が冠むられる)  天照大神の父・高木神(祖父)の矢に当って死ぬ。  
 石長比賣    姉の下照比賣8日8夜間泣き通す(豊受大神)  
 事代主平伏 兄弟とも失敗したので武御雷神に武力行使命令    
 木花佐久夜姫  弔いの時、妹の豊玉姫が弟に求愛    
 綿津見神  姉も一緒に嫁がせようとしたが、妹だけにする。岩長姫を拒否される。    
   3年で別れて子供は引き取る。    
 
 妹、玉依姫を送って育てさせる。
 
 
 海彦山彦伝説 兄(実際は弟の業績ですが) 弟 (実際は兄です)  
 物語      
物語 海幸彦  山幸彦  
古事記 天火照命 火遠理命   
 古事記   火蘭降命  
書紀  彦火火出見命 火酢芹命  
 別名   虚空津日高  
 海神(姫の父)      
 海神(姫の父) 綿津見神 
大山津見神
綿津見神 
大山津見神・大山
 
 海神(姫の父) 書紀では豊玉彦     
 妻となる比賣(娘) 玉姫比賣
木花咲夜花姫

 
 
 宮殿に導く 塩椎老翁・塩椎神     
 すごした期間 3年 (海彦山彦) 3年 (浦島太郎)  
隼人 綿津見神の軍勢    
 兄の持ち物   釣り竿   
 弟の持ち物  弓矢    
 争い 交換した釣り針を失くす  渡した釣り針でなければだめだ   
 海神の援助  綿津見神 が釣り針を探し出し渡す。    
 海神の援助  綿津見神が兄を負かす戦術を教える。    
 海神の援助  綿津見神の言うとおりにするとうまくいった。  貧しくなり、弟に平伏する。  
 別れ  豊玉姫の産屋を覗いたため別離    
  生まれた子  天津日高日子波限建鵜茅萓不合命     
 子育て  玉依姫を乳母にする。    
 隼人 火照命の宮殿護衛兵となる。  建鵜茅萓不合命が生まれてしばらくして亡くなる  
  。     

*~を娶して生める子は~次に~次に~。は、出鱈目にしているようです。ほんとうに困ったものです。大綿津見神には同母姉妹3人いることになりますね。




書記巻第三 神武即位前。
「ああ、吾が祖は天神、母は海神なり・・・・」=稲飯命 
「我が母、及び叔母は並びに是海神(わたつみ)なり、どうして荒波を立てて溺れさすのですか」=三毛入野命
・・・・我母=豊玉姫、叔母=玉依姫じゃないですか。
ここではっきりと扶余(男)と辰韓(女)とのハーフだったことが明らかです。


天稚彦を沸流(ピリュ)、下照姫を豊水穂国 (瑞穂・穂積)の国とは仁川の近くで彌鄒忽(ミチュボル)の子女だったと想定すると浦島太郎の元型イメージが重なってくる。三国史記が書くには沸流(ピリュ)は弟の国が安らかに富んでいるのを見て、恥じて自殺をしたと簡単に片付けている。自殺したというのは王位を継承しなかったことだ。実は、沸流(ピリュ)は、天照(ソソノ)に命じられて、滅ぼすはずの豊水穂国=顕国(日本書紀9)の王「玉」の娘の下照姫と8年間夫婦となり、その国神をも祀って、顕国の太子に収まっていたことになる。「わらはと夫婦の契りをもなしたまひて」その8年間、豊水穂国で過ごした。天照は辰韓国の王になってしまうのではと疑い、また嫉妬したのだ。高木神のうけひの矢で死んでしまう。あんがい、海彦のその後の記述がないのはそのためだろう。
山彦は、3年間、豊玉姫と蜜月の日々を過ごしたことになっている。豊玉媛(木花開花姫)は産んだ子を自分でそだてることができず嘆いた、そこで玉依姫という妹を乳母にした。(産んだ後乳を与えて育てないのが扶余の習慣で大山津見神のほうは母系制だったのであった。習慣の違いが大きいかったのだ
年経っても征服の知らせがないことに怒った天照(ソソノ)は高木神(父)相談する。高木神は矢で天稚彦(沸流)(ピリュ)を矢をうけひにして矢を放ったところ死んでしまう。白き心なら生き、黒き心なら死ぬのがうけひなのである。
夫を殺されて下照姫は天を衝くほど嘆き悲しんだ。(古事記)
その真相は日本書紀からも明かすことにしよう。
日本書紀 9段

高皇産霊尊から、葦原中国の悪いものを平らげるよう命じられ、天鹿児弓と天羽羽矢を賜る。しかし顕国王の娘の下照姫を娶って地上に留まり、「私も葦原中国を治めようと思う」と言って遂に復命しなかった。全く報せが来ないことを怪しむ高皇産霊尊は、無名雉を遣わして様子を伺わせた。雉は飛び降り、天稚彦の門の前にたつ湯津杜木の梢に止まった。天探女が、「めずらしい鳥が来て杜の梢に止まっています」と言うと、天稚彦は高皇産霊尊から賜った天鹿児弓・天羽羽矢を取って雉を射殺した。矢は雉の胸を通って高皇産霊尊の前に落ちた。高皇産霊尊はその矢を見ると、「この矢は昔、私が天稚彦に与えた矢だ。矢が血で染まっている。おそらく国神と戦ったのであろう」と言って、矢を取って投げ下ろした。矢は落ち下り、天稚彦の胸上に当たった。天稚彦は新嘗が終わって休み臥せた時だったので、矢に当たってたちどころに死んだ。

妻の下照姫は哭き悲しみ、声は天まで達した。父の天国玉はその泣声を聞いて、天稚彦が死んだことを知り、疾風を遣わして屍を天に挙げた。喪屋を造って殯をした。川鴈を持傾頭者と持帚者とし、また雀を舂女とした。そして八日八夜哭き悲しみ偲んだ。これより先、天稚彦が葦原中国にいたとき、味耜高彦根神との仲がとてもよかった。それで味耜高彦根神は天に昇り喪を弔った。この神は天稚彦の生前の姿にそっくりだったので、天稚彦の親族皆が「我が君は死なないでおられた」と言って、衣にすがり喜び泣いた。味耜高彦根神は憤然として、「朋友を弔うのは当然であるから穢れを憚らず遠くから赴き哀しんでいる。なのになぜ私を亡者と間違えるのか」と言って、大葉刈の剣を抜いて喪屋を切り倒すと、これが落ちて今の美濃国の藍見川の川上にある喪山となった。
(味耜高彦根神が、弟の火遠理命に比定すれば、兄のもがり中に豊玉姫に一目ぼれして結婚を申し込んだに違いない。)


下照姫3人の子供を産んだと書かれるので、沸流(ピリュ)の子がいただろう。
これらの子供たちは一切不明である。しかし、丹後の國に浦島の明神と顯はれ、龜も同じ所に神とあらはれ、夫婦の明神となり給ふ。ピリュは死んだのではなく、丹後に逃げたのであれば、めでたしめでたしだ。


「豊栄の舞」 熊野那智大社別宮 





熊野那智大社別宮 飛瀧神社で行なわれた「奉納 雅楽」 舞楽 蘭陵王
中国南北朝時代 北斉の国の蘭陵王長恭(ちょうきょう)没年は西暦573年。:北周と金煽城で戦い大勝した王。
北周が攻めて来た時、芒山で敗走させた。包囲された洛陽への援軍の為、中軍として五百の兵を率いて包囲を突破する。金墉城に到達したものの、城内ではあまりに急に包囲が崩れたので正体を疑って動けなかった、
そこで蘭陵王が兜を脱いで素顔を見せたところ味方と分かり、反撃が行われて北斉軍は大勝利をおさめた。立役者である蘭陵王を讃える為、蘭陵王入陣曲という曲が作られて兵達がこれを歌った。
この故事が後世に伝わり、蘭陵王は自身の優しげな面貌が士気に響くのを慮り、仮面をつけて戦場に立ったという伝説が生まれた。
北周との戦いで栢谷を攻め、又、定陽の城を囲った時、東面に伏兵を仕掛けるべきと献策した、策は功を奏し北周軍を壊滅させた。 







『三国志魏書』馬韓伝

 韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。辰韓者、古之辰國也。馬韓在西。其民土著、種植、知蠶桑、作綿布。各有長帥、大者自名為臣智、其次為邑借、散在山海間、無城郭。

 韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽きる。南に倭と接し、四方は四千里ばかり。韓に三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓は昔の辰国なり。馬韓は西に在る。その民は土着し、種を植え、養蚕を知っており、綿布を作る。各邑落には長帥(邑落の長)がおり、大長帥は臣智と自称、その次が邑借で、山海の間に散在しており城郭はない。

『後漢書』馬韓伝
   韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。凡七十八國、伯濟是其一國焉。大者萬餘戸、小者數千家、各在山海閒、地合方四千餘里、東西以海為限、皆古之辰國也。


 韓に三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁辰。馬韓は西に在り、五十四国。その北に楽浪郡、南に倭と接している。辰韓は東に在り、十二国、その北に濊貊と接している。弁辰は辰韓の南に在り、また十二国、その南に倭と接している。およそ七十八国。伯済は馬韓の一国なり。土地は合わせて四方四千余里、東西は海で尽きる、いずれも昔の辰国である。
辰国は朝鮮王箕準の国で清川江より南を制していた。

*辰国は>箕準が王で昔を含めて南側すべてのを支配していた。清川江は平壌より北に流れる河なので、支配領域はほぼ半島すべてとなる。
 紀元前二世紀頃、京幾北部地域には『辰国』があった。辰国は朝鮮王箕準が建国、豪族化した。清川江より南を制していた。朝鮮王箕準の国で清川江より南を侯国として制していた。
 この準王(ちゅんわん)が遼西で衛満に滅ぼされたとき、数千人の残党ともに海をわたり、その後、朝鮮と往来しなくなったと書かれる。魏略では、この人物を箕準と書く。そこで、これを箕氏(きし)朝鮮と呼ぶが、祭祀は鬼道だったと書く。崇高な神のような存在だった準王はまぼろしの王ではない。

清川江の南、漢江の北の間は重要な地域。ここの攻防が漢江の南の辰国王の居る月支国にすべて関係する。


BC195年、 前漢の劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が箕子朝鮮に亡命して来た。このころ番朝鮮王箕準、賊の衛満に敗れ海に入る。衛満朝鮮となる。
BC109年-BC107年、前漢・武帝が衛満朝鮮を滅ぼす。楽浪郡・真番郡・臨屯郡、玄菟郡の漢四郡(かんのしぐん)を置いて直轄地とする。前身だった箕準の諸加の衆は上将のを擁して中馬韓(辰国)を建国した。一説には卓氏は趙国(山         西省郎郵)の鉄工部族であったともされる。
AD18 伯済が建国したときは馬韓辰国の支配下にあった。
AD166 尉仇台、漢口の伯済を攻略 鷹百済立つ。
朝鮮王箕準の国で清川江より南を制していた。 *辰国は>箕準が王で昔を含めて南側すべてのを支配していた。清川江は平壌より北に流れる河なので、支配領域はほぼ半島すべてとなる。  紀元前二世紀頃、京幾北部地域には『辰国』があった。辰国は朝鮮王箕準が建国、豪族化した。清川江より南を制していた。朝鮮王箕準の国で清川江より南を侯国として制していた。  この準王(ちゅんわん)が遼西で衛満に滅ぼされたとき、数千人の残党ともに海をわたり、その後、朝鮮と往来しなくなったと書かれる。魏略では、この人物を箕準と書く。そこで、これを箕氏(きし)朝鮮と呼ぶが、祭祀は鬼道だったと書く。崇高な神のような存在だった準王はまぼろしの王ではない。 箕氏(きし)朝鮮が清川江(ちょんじょんがん)の南をすべて制していた。地図の通り。 清川江の南、漢江の北の間は重要な地域。ここの攻防が漢江の南の辰国王の居る月支国にすべて関係する。 AD176 馬韓辰国は拡張期に入る。月支国が辰韓を攻撃する。
AD204 公孫康・帯方郡設置
AD238 公孫淵滅ぶ。
AD247 魏・二次高句麗攻撃 卑弥呼・参戦
AD238 親魏倭王卑彌呼帶方太守除授
AD256 鷹百済、月支国併合
AD314 高句麗楽浪郡を占領
AC346 中馬韓全滅。

BC194-BC169  195年、 前漢の劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が箕子朝鮮に亡命して来た。このころ番朝鮮王箕準、賊の衛満に敗れ海に入る。衛満朝鮮となる。 BC109年-BC107年、前漢・武帝が衛満朝鮮を滅ぼす。楽浪郡・真番郡・臨屯郡、玄菟郡の漢四郡(かんのしぐん)を置いて直轄地とする。前身だった箕準の諸加の衆は上将の卓を擁して中馬韓(辰国)を建国した。一説には卓氏は趙国(山西省郎郵)の鉄工部族であったともされる。 AD18 伯済が建国したときは馬韓辰国の支配下にあった。 AD166 尉仇台、漢口の伯済を攻略 鷹百済立つ。 AD176 馬韓辰国は拡張期に入る。月支国が辰韓を攻撃する。 AD204 公孫康・帯方郡設置 AD238 公孫淵滅ぶ。 AD247 魏・二次高句麗攻撃 卑弥呼・参戦 AD238 親魏倭王卑彌呼帶方太守除授 AD256 鷹百済、月支国併合 AD314 高句麗楽浪郡を占領 AC346 中馬韓全滅。
*中馬韓と平和共存していた時代を伯済、侵略を開始した百済を区別して鷹百済(メペクチェ)とした。
■百済は馬韓全域を180年後盟約を破った

 楽浪の南には肥沃な土地があった。馬韓の地である。馬韓と辰韓、伯済を含めた三韓を治めていた大王は辰王で馬韓の領地で、一国、月支国(ウォルジ)で王都を構えていた。王は馬韓の王が共立して、自らの意志で王になることがなかった。今でいれば連邦制ですかね。(また、目支国モッジとも記す)民衆は馬韓人と阿人であるが、辰王は小月日国(黄河の西)の人で西域からの渡来人だったようである。準王は殷からで、卓王は趙国(山西省郎郵)の鉄工部族出であったと伝わる。ところが、辰王は馬韓の庶民に崇拝され、奉じて祭祀を行っていた。辰王は技術・文化など教化したのだろう。伯済は北方からの侵入者であり、伯済は馬韓の民と、阿人(楽浪人)を圧迫していく。馬韓の民は歩兵しかない、農耕民族だ。言語・風俗は全く異なっていたことが知られている。346-375の間に馬韓の小国は次々と滅亡に追い込まれ、ほぼ全域を百済に攻略されるにいたった。


そして、百済に押されて南下し、半島の南端まで追い詰められ、阿人は船を用いてとうとう倭国に来たのだろう。倭国でも、この王はすこぶる崇敬され、その祭祀は日本にそっくり移転したと思われる。


楽浪人は倭人とは同じに、入れ墨の風習があったのだろうか。倭人の源意は委人であり、ともに如墨委面の「委」(ヰ)である。倭人が刺青をする種族という漢字的な定義であるとすると、今日の民俗学的な人種とは異なり、倭人は広く江南(百越)、漢江流域(楽浪)、山東省(遼西)および、日本(委奴)に
雑居しているという中国的認識は漢字から派生する見識なのだろう。

「楽浪海中有倭人分為百余国」とは、倭人が楽浪とその海上に百余国も国を分国しているということで、楽浪人と百越(粤)は同じ倭人だという。また、九州も倭人が多数居たのだろう、倭人が国を築いてた例は、倭国と短い期間の楽浪国と多羅国(任那)となる。
北方には刑罰につかったので、入れ墨はひどく嫌われ、自ら文身する習俗はない。では、楽浪に入れ墨を全身にほどこした民族がいたとすれば、九州の隼人のほか安曇氏、宗像氏などが相当な人口を楽浪郡に居たということだろう。朝鮮では、倭人を阿人とも言っていたのだろう。




『梁書』百済伝
(抜粋)

  其國有二十二檐魯、皆以子弟宗族分據之。其人形長、衣服淨潔。其國近倭、頗有文身者。今言語服章略與高驪同、行不張拱、拜不申足則異。呼帽曰冠、襦曰複衫、○曰褌。其言參諸夏、亦秦、韓之遺俗云。


その国には二十二の檐魯があり、いずれも子弟や宗族にこれを分与している。人の姿形は身長があり、衣服は清潔に洗っている。その国は倭に近く、身体に入れ墨を施している者がとても多い
。今も言語、服装、規約などはほぼ高句麗と同じだが、道では大仰な拱手はせず、拝礼は述べずとも足りる則りが異なる。呼称では冠を帽、複衫を襦、褌を○という。その言葉には中華諸国や秦(の方言)が加わっており、韓に遺された習俗だという。

*檐魯とは、郡県、または、冊封国と同義。
*身体に入れ墨を施している者がとても多い。=
倭人がたくさんいたということと同義。




殷は斉にあった実在の国であった。倭人の根っ子は「殷王朝」であり、倭人はみな殷の末裔であることで、同じだとするのである。そうすると、龍神である辰国王が殷の末裔である可能性が高く、かつ、殷文化を色濃くもつ宗教は「鬼道」である。鬼道の中国的定義は難しいが、黄巾の乱は鬼道の宗徒と言われ、巫女による卜占
をもっぱらとしており、動物の骨や亀の甲羅を焼いてひびの入った方向を天文儀にあてて占う。鬼道は楽浪では滅びたが、日本では今日まで生き残ったのだろう。倭人の領域はとてつもなく広域にまたがるはずである。女王卑弥呼も鬼道を実践していた。「鬼道」は殷の王統を示唆する
共通なキーである。




*弩弓 秦の始皇帝の兵馬俑抗(へいばようこう)から発掘された弓(弩機)は、木の弓で張力を増すために、弓鞘に革ひもを捲き、その上に赤漆がかけてあった。日本で使った弓は、竹に皮ひもを巻いたものだった。この弓を、伊都之竹鞆(いとのたけとも)と伝った。伊都之尾羽張(いとのおはばり)と言うと、中国の刀剣のこと。伊都之竹鞆と伊都尾羽張で、矢と剣がセットになる。この伊都は伊都国の伊都。帯方郡から、魏の使者が駐在していたのが伊都国。(福岡県糸島)中国物品の揚陸後、この地で検品をした。とうぜん伊都国に、この弩弓は集中していた。伊都の・・・といえば中国から運ばれた製品という暗黙の意味だったのだろう。伊都之竹鞆(いとのたけとも)は、紀では稜威之高鞆(いつのたかとも)と記される。稜威(いつ)は伊都(いつ)と同じで、伊都は、伊斗、怡土など、いくつかの文字がある。*弩は石弓のことだという説もある。




■ 倭人は馬韓人とは違っていた

蘇塗となす。大木を立てて鈴・鼓を懸け、鬼神に事(つか)える。
その中に至れば、皆これを還らず、好んで賊となる。礼節なく、身長が低く、頭が扁平で、男児に刺青があり、鮮卑のように坊主頭をしている。
他方、弁辰(三韓時代の伽耶国)は衣服は潔清にして、髮長しとある。これは華人が髪を切られること死ぬことと同じように考えていたことに繫がるだろうか。華人は生まれてからずっと髪の毛を切らない。鮮卑は逆に坊主頭が多かった。

馬韓には初め阿人が雑居していたのだが、中国人は
馬韓人と阿人はどう区別したのだろうか。
中国人は馬韓人と阿人を別な人種だと捉えている。

『三国志魏書

1)阿人(阿残)は燕や斉ではなく、楽浪にいた。
2)阿人も馬韓人も入れ墨をしていた。
3)阿人の男子は髪が長く、馬韓人は坊主頭が多かった。
4)阿人と馬韓人とは言葉が違っていた。
5)阿人と違って馬韓人は頭が皆扁平だった。「兒生、便以石厭其頭、欲其褊。今辰韓人皆褊頭」『三国志魏書』弁辰伝
6)阿人には城郭があり、馬韓人は城郭がなかった。
7)阿人は馬韓人よりも礼節があった


1)楽浪郡の阿人が馬韓に侵入した。馬韓はこれを嫌って東に土地を割譲した。弁辰と辰韓と別れた。
4)馬韓人はみな扁平な頭をしていた。これは人為的な習慣つくられる扁平頭蓋で、日本にはあまり例がない。
5)馬韓人は中国人のように城郭の中で生活していなかった。

■鹿児島の遺跡にあった変形頭蓋は馬韓人

この頭蓋変形(とうがいへんけい)は、赤ん坊のこのまだ接合しきっていない頭に圧力を加えながら育て、その変形状態で接合を起こさせ固定することを意味する。ウィキペディアによると、「日本の弥生時代終末期(3世紀)において限定的ではあるが、確認されている。鹿児島県南種子町所在の史跡「広田遺跡」出土の人骨である。墳丘墓や古墳はなく、海岸砂丘に造られた墓地であり、第一次調査(1957年から59年)では、157体の人骨が確認されている。広田人は、北部九州の弥生人と比較しても低身長であり、男性でも平均154センチ、女性で平均が143センチである(北部九州の弥生人は、男性で平均163センチ、女性で152センチ)。日本全国でも類例がない特異な習俗を有しており、上顎の側切歯を一本だけ抜歯していたり、後頭部が偏平である。いわゆる絶壁頭と呼ばれるものであり、広田遺跡で出土する頭蓋骨の後頭部の全てが扁平であることから、意図的に頭蓋骨を変形させる習俗があったと考えられており、日本列島では広田人以外に例がなく、大きな特徴となっている。

*広田人は馬韓から日本に渡来した一団だと思う。

■広田人はカッパ?

天草市栖本町には「河童伝説」があり、河童街道には22体の河童像が飾られている。天草batsumaru日記



頭が扁平で口蓋が前に出っ張り、口が左右に裂けているように大きい。これは、頭蓋扁形をする馬韓の一種族である。(1C-4C)
そして、背が低く(男性でも平均154センチ、女性で平均が143センチである)、裸身で腰巻かふんどしを纏っているいるだけである。いかにも漁労の海女のイメージだ。

■熊本県八代市の河童伝説 河童は馬韓人?

 熊本県八代市に、こういう伝説がある。『九千坊という文武に優れた指導者の率いる河童が、来航し、八代に上陸した。』さらに、もう一つ。『オレオレデライタ』】という謎の言葉が、八代の古老たちが伝えてきている・・・というのだ。「オレオレ・デ・ライタ」という言葉を翻訳すると【呉人呉人的来多】になると言うのである。つまり、河童は呉から来たとという驚くべきことを告げた。河伯は、呉の会稽郡から、なんであれ、滦河(らんが)流域あたりから来たのだろうか。山海経に謂う『蓋国在鉅燕南 倭北 倭属燕』がなんだか匂ってくる。


■河童にはいろいろな呼び方があり、メドチ、河伯、兵主部、猿侯などがある。

メドチは水の神である蛇神、蛟と同じ。
河伯は河童。
兵主部は牛面人身で、八坂神社の牛頭大王に<に導かれる
同じ。
猿候は、孫悟空である。

孫悟空、沙悟浄、猪八戒が、部族名を暗示するとすると、あらたな意味合いがでる。
それぞれ、中国語では孫悟空ソン・ウーコン(sun wukong)、沙悟浄シャー・ウーチン(sha wujing)、猪八戒ジュー・パージエ(zhu bajie)。
沙悟浄が沙は戦国時代の斉かも。

紀元前6Cの東夷諸国図 第二の倭国推定地(黄河の北までを含む)にいた倭人(中国人の定義による倭人)。馬韓に移動か。




1)三国志魏書』辰韓伝に記述:広開土王碑には「阿残」
2)三国志魏書』弁辰伝に記述。
3)『三国志魏書』弁辰伝
4)『三国志魏書』弁辰伝 →鹿児島県広田遺跡

■馬韓にはもっとけったいなものがあった!

それはソンドルと呼ばれる立石で、一対の自然石が村の入り口の道を挟んでおかれ、両側に立つ石棒から注連縄が張り渡される。
その立石(メンヒル)が男根と女陰を象っているいるので、どういうことっ・・・?と。

  
全羅北道任実部(男根石が畑の捨て去られたまま保存されている様子はない)
ソンドルが一個なものがほとんどで、男女一対のものもあれば男根だけのものもあるという。
日本では賽ノ神、道祖神としてお祭りしており、いまなお生活に生きている。悪鬼や悪霊を退散する神具だとしよう。
これは実は倭人が越地から伝えたものだというが、これは船で渡り歩くくせのある倭人が固有にもつ文化なのか研究が待たれる。

   
左:伊美別神社(大分県国東)。
右:石神(しゃくじん)、別名;みしゃぐち神(諏訪)。
日本ではちゃんと注連縄(しめなわ)を巻いてます。神様として扱ってます。

右端:長野県佐久穂町;縄文時代の謎の石棒。

さて、伽耶(弁辰伝)ではカマドを祭る習俗があったが、日本では川崎市の若宮八幡宮・金山神社「かなまら祭り」がカマドの神であると云う。
そこでは盛大な男根祭りが毎年行われている。

 

愛知の田縣神社の豊年祭御輿行列 陽物神輿 大型の男根神輿
新潟県長岡市下来伝(旧栃尾市)越後の奇祭「ほだれ祭り」
飛鳥坐神社の、飛鳥おんだ祭 夫婦和合の神楽。

最近、韓国内でも5C~6C前方後円墳が何基も見つかり、倭人が作ったことになった。
金海市の貝塚(伽耶)では倭人の村落が発見されて、確認されている。
さて、男根石は朝鮮ではすでに古代の遺物となったが、日本ではきちんとお祭りとして年々続いている。
これをどう考えるかは考古学では答えがでない。私はきっと倭人が半島にたくさんいたが、みんな日本に引き揚げたので、その残滓があるのだと思いますが、古代史は想像力がないと発達しないですよ。




■時代とともに変わる3つの百済占有地

武帝の時代、頻繁に朝貢に訪れたが、太康六年(285年)、慕容廆(ぼようかい)によって扶余は全軍が撃破され、王の依慮(イロ)は自殺し、子弟は逃れて沃沮に保護された。

 皇帝は詔を発して「扶余王は代々忠孝を守り、悪賊によって滅ぼされたことは甚だ遺憾に思う。もし、遺された類族をもって国を復興するなら、それに助力をしてやり、存立できるようにしてやれ」と命じたが、司奏護の東夷校尉「鮮于嬰」が扶余の救援に向かわず、機略の好機を失したので、詔を以て嬰を罷免し、何龕(かずい)に代えた。

 翌年、扶余王を継いだ依羅(イリ)は遣使を龕に派遣し、復興のために故国に戻る救援を嘆願した。龕は兵を召集し、督郵の賈沈以にこれを送らせた。慕容廆は賈沈以の皇軍と戦うも、大敗して軍勢を撤退したので、依羅は復興が叶った。以後も慕容廆は毎度のように扶余人を拉致しては中國で売った。帝はこれを哀れに思い、また、詔を発して官物で彼らを買い戻し、下司、冀の二州で扶余の生口(奴隷)の売買を禁じた。(三国志魏書扶余伝)

历史上燕国、中山国、后燕立都之地,清代八督之首,为“冀北干城,都南屏翰”。现为大北京经济圈中的两翼之一,北京主要卫星城,素有“京畿重地”、“首都南大门”之称

後漢の武帝は燕を討伐したが、遼西の扶余は復興させた。



『梁書』百済伝

 百濟者、其先東夷有三韓國、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。弁韓、辰韓各十二國、馬韓有五十四國。大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戸、百濟即其一也。後漸強大、兼諸小國。其國本與句驪在遼東之東、晉世句驪既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣、自置百濟郡。

百済も辰の一国で、創めは小国で伯済であった。源流が扶余である。250年頃、辰王がいた目支国(光州)を併合した。それ以前は、百済も辰国の封国であった。

弁韓、辰韓は各十二国、馬韓は五十四国あり。大国は万余家、小国は数千家、総計十余万戸、百済は即ちその一国なり。もう一つの扶余、その国は、本は高句麗とともに遼東の東に在ったが、西晋の時代、高句麗が遼東を略有すると、扶余もまた遼西の晋平二郡を占拠して、自ら百済郡を置いた。


遼西の晋平二郡は百済郡という。梁書の認識では扶余王は晋平二郡に居たことになる。三国史記から見れば、扶余の外藩(檐魯)の王は河南慰礼城にあったと解される。余暉・余毗・余慶・牟都・牟太(太都督百済諸軍事、鎮東大將軍、百済王)が晋平二郡の扶余王統だった。晋平二郡が衰退すると、帯方郡に軸足をうつした。公孫の宗女卑弥呼を嫁して扶余は帯方に侵入し、ここを倭国と称して、宋代には封国になった。

随書には「漢の遼東太守の公孫度は仇台を婿とした。仇台勢力は強大となり、東夷の強国となった。」公孫度の娘を妻に迎え、公孫氏に従って遼東の経営に参与したとされる人物だが、公孫度の死去は204年。したがって、尉仇台が活躍したのは西暦180年前後と看做さなければならない。百済王統譜の歴代王は肖古王(166-214)である。このころ百済は発展期で、古爾王のときは絶頂期だったようだ。

晉太元中、王須(晉書作餘暉)、義熙中、王餘映、宋元嘉中、王餘毗、並遣獻生口。餘毗死、立子慶。慶死、子牟都立。都死、立子牟太。齊永明中、除太都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王。天監元年、進太號征東將軍。尋為高句驪所破、衰弱者累年、遷居南韓地。 


 東晋の太元年間(376-396年)に王の須(晋書では余暉)、義熙年間(405-418年)に王の余映、宋の元嘉年間(424-453年)には王の余毗、いずれもが奴婢を献上した。余毗が死に子の慶が立った。慶が死に子の牟都が立った。都が死に子の牟太が立った。 斉の永明年間(483-493年)、牟太を都督百済諸軍事、鎮東大將軍、百済王に叙した。
 天監元年(502年)、太号を征東將軍に進めた。高句麗によって国を破られ、衰弱が積年に及び、南韓の地に遷都した。

 以下、余氏系百済王の牟太は太都督百済諸軍事、鎮東大將軍、百済王に任じられているので、この以前、牟都の代に慰礼城は絶滅するという大事件があったからだ。475年河南慰礼城百済は高句麗に滅ぼされてしまう。蓋歯王(455-475)は一族もろとも殺されてしまったので、王家が断絶したのである。

梁書
の「都死、立子牟太」は、都が死に、牟太が立った。この「都死」とは、蓋歯王の北漢山城と慰礼城が陥落したことを意味している。そのため牟太が宗主国河南百済を救済するために、晋平二郡から南韓に移動。河南百済を再興した。そして、牟太が除されたのが「太都督百済諸軍事、鎮東大將軍、百済王」、さらに、天監元年(502年)、太号を「征東將軍」に進めたのは、帯方から高句麗を討伐せよとの命令だったのだ。国を破られ、衰弱が積年に及び、百済を復興するのは余氏王族しかいなかった。牟太は熊津(ウンジン・くまなり)の城に入った。これが、「遷居」の背景である。晋平二郡は王族の檐魯(タムロ)に戻った。蓋歯王の後、牟太は文周王として即位した。

他方、宋書の478年、倭王武は、百済を入れて7国を自称して申請したが、
結果は、「倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓、六國諸軍事・安東大将軍倭王」になったとする。。百済が除外されて6国になってしまったのと、倭国王が倭王になったことである。

遼西にあった百済とは北扶余の王系で帯方百済とは扶余族であること以外関係がなかったとしても、遼西の扶余は滅亡後、帯方百済を占拠した。この遼西扶余は公孫度が仇台を婿としたことから公孫燕の庇護下で強大化したので、魏に公孫燕と同様に攻撃された。だから、遼西百済が一貫して南宋にしか朝貢しなかったのは魏と対抗するためである。

遼西百済は宋と同盟するしかなかったのだ。一方、卑弥呼は公孫燕が滅亡すると、素早く魏に朝貢して親魏倭王と認められた。魏は卑弥呼倭王の連合して高句麗を防御することができる。卑弥呼は遼西百済と組めば高句麗を北部と南部から挟撃できる。卑弥呼、なかなかの外交力があった。そのおかげで遼西扶余=倭の五王と組んで、狗奴国(こうくり)を撃退=したのである。こうした

見方を変えると、論理的には百済が滅亡し後、歴史上の日本の天皇の呼称の始まりだった。天武朝にはじめて天皇という表記がみつかるのだそうだ。それ以前の欽明天皇は王と遡って謚をつけたとしかいえないだろう。これは余談だが、李 明博[い みょんぱく]が、2011年12月、今上天皇について「日王」と蔑称した上で、「日王が痛惜の念などという単語ひとつを言いに来るのなら、訪韓の必要はない。日王は韓国に来たければ、韓国の独立運動家が全てこの世を去る前に、心から謝罪〖「ひざまずいて謝らなければならない」と表現〗、帝国主義時代なら戦争になってもおかしくない言葉を使った。中国の冊封を2000年間も受けたので、天皇陛下の称号はどうしても口に出せなかったのだろう。なんであれ、公式発言なので外務省は李 明博を即座に謝罪要求をすべきだった。


そもそも倭王讃が万里長城の修復などの高祖に貢献したの一条で気づくべきだった。倭王が2000キロメートルも離れた日本列島に居たとは考えられない。日本列島から船で万里長城まで奴隷を運んだなんて、小学生でもおかしいと思うでしょ。
また、九州に本国があれば都督倭を上奏するのはおかしいでしょ。自分の領土に蛮夷に置くの監察機関である都督をおくのはあり得ないことである。冊封される当事国の王は中国からいえば侯国の役人であり、税の徴収などを任せる謂わば皇帝の従属機関である。倭王武が河南伯済に帰還したから、武には都督百済の称号が外れたことになる。これは見事に一致する。ではそれ以前は河南伯済以外の地にいたことになる。それが、遼西の地であることは明らかだ。


■遼西百済(西百済)の王

『唐会要』百済伝

  百濟者。本扶餘之別種。當馬韓之故地。其後有仇台者。為高麗所破。以百家濟海。因號百濟焉。大海之北。小海之南。東北至新羅。西至越州。南渡海至倭國。北渡至高麗。其王所居。有東西兩城。


 百済。元は扶余の別種。馬韓の故地にいたが、後に仇台は高句麗に国を破られ、百家で海を済(渡)る。ゆえに百済と号する。大海の北、小海の南、東北に新羅、西に越州、南の海を渡れば倭国に至る。北には高麗。王の居城は東西に両城あり。


『周書』卷・列傳第(百済条)
百濟者、其先蓋馬韓之屬國、夫餘之別種。有仇台者、始國於帶方
「百済は蓋馬韓の属国であったが扶余の別種である。尉仇台という者が帯方に始めに国を立てた。」
尉仇台が国を初めに作ったのは河南ではなく、帯方郡だった。尉仇台は幽州の倭人を糾合して半島に移動したのである。

尉仇台が帯方に軸足があったということの意味は大きい。楽浪国の故地で、そこには卑弥呼もいたからだ。倭人との濃厚な接触があったと見ることができる。楽浪のなかに大汗國(史書での表記は大漢國『梁書』東夷伝)があり、鮮卑族・烏丸族の奴隷となっていた汗人=倭人を救い、始めに帯方に倭人国家を作ったのは扶余の王尉仇台である。


馬韓と百済とは古くは別な国である。尉仇台が十済の故地に居た。おそらく慰礼城(ウィレソン)ではない。尉仇台は帯方に国があったのである。馬韓は、湖南平野のある今の全羅北道益山を中心に考えるべきだろう。現在、彌鄒忽(ミチュボル)とは、仁川(インチョン)ではなく、すくなくとも忠清南道の牙山湾岸(アサンワン)であろうと推定されている。しかし、帯方も馬韓の故地ともとれる。200年前後、仇台は海を渡って「遼西の晋平郡」に城をもった。これが、『王の居城は東西に両城あり』の真の意味である。
 高句麗に慰礼城が陥落させられたとき、盖卤王は殺害された。このあと2年後、熊津に百済を復興させたのは、遼西百済の仇台の末裔である牟大であったろう。すると、宋書の倭の五王、それに否定される応神~雄略天皇は日本にいたとは考えらない。雄略天皇はクマナリ百済を与えることができただろうか。こんなことは遼西百済王牟大にしかできないことだ。

 宋書に記された倭の五王(わのごおう)とは、5世紀に、南朝の東晋や宋に朝貢して「倭国王」と叙授された倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武をいう。「倭の五王」の遣使の記録が『古事記』『日本書紀』に見られないことや、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など一字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しないため、「倭の五王」は近畿主体のヤマト王権の大王ではないとする説も江戸時代からあった。
定説では「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇等の説とあるが、応神紀と雄略紀は、似た内容を含んでいることもあり疑問があった。朝貢年に在位していた天皇に決め手に欠いており、「どうも、そうらしい」という程度である。安本美典は、朝貢の年を天皇の紀年に合わせるため、西暦に計数計算し直して辻褄を合わせているが、在位年数にパラメータをかってに設定しておきながら、それを恰も実年のように主張するのは、一般人を馬鹿扱いにしている。

 倭の五王とは尉仇台の系統であると断じる。そして、尉仇台は百済第五代王肖古王である。朝鮮史では百済王が倭王とも自称したことを隠しているが、もともと、帯方郡帯方県が倭王の京(みやこ)とするところだったのである。百済の祖寧であるの尉仇台を「意富比垝」(オホヒキ)と呼んでいたことが判明している。(稲荷山古墳の鉄剣の銘文)

 日本列島にいない王が倭国王と自称して上表、それを宋と東晋が認めた。詔書で倭国王に倭都督の称号を与えるのは矛盾である。この京と都の区別は、封国とその藩国、宗主国と檐魯とをはっきり区別することを考えなければならない。通説は倭国が日本列島にだけあったという呪縛から離れられないのだ。日本はまだ百済の檐魯に甘んじていたのだ。邪馬台国を女王の居る所とするのは魏志倭人伝の誤訳に始まっている。卑弥呼が日本にいなかったことぐらい分かることだ。卑弥呼が公孫燕の権力を背景に邪馬壹国を統治していた。邪馬台国は、九州9カ国の中で最大であったが、伊都国に監察されていた一国にすぎないのだ。公孫度に帯方に国を与えられたのが扶余仇台で、狗奴国が高句麗であるとすれば、帯方において扶余仇台が九州などの領域を封じていたという地政治がすっきりと納得のできるのだ。
公孫度が尉仇台に宗女を娶らせた、当の宗女とは卑弥呼であるという説は案外有力なのだ。公孫淵が滅びるやいなや卑弥呼が魏に忠誠を申し出るのは矛盾ではないか・・・・という反論については、こう答えられるだろう。卑弥呼はすでに帯方の女王で尉仇台の女であり、尉仇台の死後、简位居という子供を男王としていたのだ。出自は公孫氏でも夫である扶余の皇太后だった。帯方を守るには、扶余の軍事力を背景とすることを選んだのだろう。

日本は7世紀になると天皇に権力を握り、律令制をとり、国家らしい国家になった。仏教思想が浸透しはじめ、古墳時代の中期には奴隷制は喪失し、王は大きな墳墓を嫌うようになった。飛鳥文化は、成熟しつつあった仏教が日本で開花し、巨大寺院は革命的熱狂をもって膨張した。たちまちたくさんの寺が造営され、かつ民衆教化に稀に見る実践が行われた。寺と寺院は異なり寺院は医療や食事、宿坊などの施設もあった救済施設だった。始まりは王族の布施行であったが、「仏教はありがたい」というところから、少しずつ大衆に浸透した。僧侶と民衆がこれほど親近感をもった国はなかっただろう。肉を食べてはいけない・・・という決まりは天武天皇になってからである。

■讃、珍、済、興、武はなぜ倭王と名乗ったのか?




*中国の歴史書をみると、渤海を大海と呼ぶのに対して楽浪海を小海と表現するようである。

■倭の五王は日本列島に居なかった。

宋書倭国伝

倭国は高驪の東南、大海の中にあり、世々貢職を修む。

高祖の永初二年、詔していわく、「倭讃、万里貢を修む
。遠誠宜しく甄すべく、除授を賜うべし」と。太祖の元嘉二年、讃また司馬曹達を遣わして表を奉り方物を献ず。
 讃死して弟立つ。使いを遣わして貢献し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。詔して安東将軍倭国王に除す。(『南史』宋本記 421年)
 珍また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに聴す。二十年、倭国王、使いを遣わして奉献す。また以て安東将軍倭国王となす。
 二十八年、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加ふ。安東将軍は故の如し。ならびに上る所の二十三人を軍郡に除す。
 済死す。世子、使を遣わして貢献す。世祖の大明六年、詔して曰く、「倭王世子興、奕世戴ち忠、藩を外海に作し、化を稟け境を寧んじ、恭しく貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、安東将軍倭国王とすべし」と。

 興死して弟立ち、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称す。
 順帝の昇明二年、使を遣わして上表して曰く、「封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰躬ら甲冑をツラヌき、山川を跋渉し寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北(渤海)を平ぐること九十五国、王道融泰にして、土を廓き、畿を遐にす。累葉朝宗して歳に愆ず。臣、下愚なりといえども、忝なくも先緒を胤ぎ、統ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、道百済を遙て、船舫を装治す。しかるに句麗無道にして、図りて見呑を欲し、辺隷を掠抄し、虔劉して已まず。毎に稽滞を致し、以て良風を失い、路に進むというといえども、あるいは通じあるいは不らず。臣が亡考済、実に寇讐の天路を壅塞するを忿り、控弦百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄に父兄を喪い、垂成の功をして一簣を獲ざらしむ。居しく諒闇にあり兵甲を動かさず。これを以て、偃息して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。義士虎賁文武功を効し、白刃前に交わるともまた顧みざる所なり。もし帝徳の覆戴を以て、この彊敵を摧き克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。窃かに自ら開府儀同三司を仮し、その余は咸 な仮授して以て忠節を勧む」と。
 詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭王に除す。
 
1)倭国は高驪の東南、大海の中にありここからは、高句麗の東南は、漢江の河口である。大海は黄海で、中にありとは、~に当たるという意味で、黄海に面していると読むべきである。(帯方郡だったところが倭国である。高句麗、遼東のつけめからみて東南=帯方の故地)

2)「道逕百濟 裝治船舫」百済のはるかな道(海路)に船舫(もやいぶね)を装治していると、逆行(形容句が後ろ)で読むべきである。百済という遠いところに、造船所をもっている、ということになる。

3)東は毛人を征すること五十五国 西は衆夷を服すること六十六国<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。

4)渡りて海北を平ぐること九十五国を制している。海北は渤海。

5)句麗無道にして・・・:句麗は高句麗。高句麗の侵略を指す。475年9月高句麗好太王の長子・長寿王襲来・蓋鹵王処刑され、漢城が滅亡した。

*海北とは渤海である。(地図)
*中国の歴史書をみると、渤海を大海と呼ぶのに対して楽浪海を小海と表現するようである。

従って、中国が認めていた倭国とは、東南の黄海に面していた元帯方郡のことである。帯方郡にいた当時の王と同じ奏上文にしたのだろう。中国の文官はすでに熊津へ遷宮したことを知っていたのだろう。見破られていたのだ。百済は削除され、倭国王は倭王に書き直されて除したのである。

■帯方は百済の占有していた。
343年 高句麗に破られる。以前は卑弥呼が封じられていた。
371年 太子だった近仇首王が高句麗の平壌城まで進撃し故国原王を戦死させる。漢山に王都を移す。
帯方の地は371年には太子だったが高句麗の平壌城まで進撃し故国原王を戦死させる。漢山(ソウルの風納土城跡)に王都を移す。
<この間、帯方は百済が領有していた。421年から倭王賛が封を除す。>

475年9月高句麗好太王の長子・長寿王襲来・蓋鹵王処刑され、漢城滅亡。倭王武が最後の封。



倭の五王が奏上した倭国の位置。


面白いことに、興死して弟武立ち、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称す。というなかで、自ら・・・・称す。自ら・・・・称すというのは、皇帝に申し出た書状に書かれた内容。

皇帝に封国として認めてもらうのは倭国
倭国が統治する外藩が倭、百済、新羅、任那、加羅、辰韓、馬韓の7か国
*ここの倭は九州の倭。
倭国を帯方にして、はじめて外藩に倭と百済が入っているのかが理解できる。


奏上:使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王
皇帝が、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭王」とした。

結果は、七国が六国に減っている。上から「百済」が抜けているのである。
中国側の文官から注文がついたのだろう。熊津に遷宮している事実である。中国側も確認した上で百済を抜いたのである。
願い出ている冊封当該国と、その外藩をはっきりさせたのであろう。先の王が高句麗に殺されたことも上奏されている。熊津に遷宮したことなどを十分認知した。そこで、「あなたは自らが百済王なのに、百済を外藩に入れるのは矛盾するでしょう。」「そうですねえ、でも倭国王は変えないでください。」「いいえ、倭国王を倭王にします。いいですか?」「帯方は高句麗に下って、いまは倭国はないので、倭国王では矛盾するでしょう。」武はちょっと欲張りすぎてしまったのか、抗弁できなかった。。
そこで、熊津に遷宮した王は、文周王である。武=文周王であるという等式がなりたつ。


 『梁書』帝紀
武帝蕭衍(463~502~549)
『武帝紀』
◦天監元年夏四月/戊辰、車騎將軍高句驪王高雲、進號車騎大將軍。鎭東大將軍百濟王餘大、進號征東大將軍。安西將軍宕昌王梁彌[台頁]、進號鎭西將軍。鎭東大將軍倭國王武、進號征東將軍。鎭西將軍河南王吐谷渾休留代、進號征西將軍。
◦七年/二月/乙亥、以車騎將軍高麗王高雲、爲撫東大將軍開府儀同三司。
◦十一年/三月/庚申、高麗國遣使獻方物。四月/百濟國、扶南、林邑國、竝遣使獻方物。
◦十五年/夏四月丁未、以安右將軍豫章王綜兼護軍。高麗國遣使獻方物。
◦普通元年春正月/庚子、扶南、高麗國各遣使獻方物。二月壬子、老人星見。癸丑、以高麗王世子安、爲寧東將軍高麗王。
◦二年/冬十一月、百濟、新羅國、各遣使獻方物。十二月戊辰、以鎭東大將軍百濟王餘隆、爲寧東大將軍。
◦七年/三月乙卯、高麗國、遣使獻方物。
<参考>
『梁書』帝紀 
 晋の安帝の時、倭王・賛あり。(東晋の第10代皇帝;在位期間 396年 - 403年/404年 - 418年)
天監元年(502年)
 「子雲、齊隆昌中、以爲使持節散騎常侍營平二州征東大將軍樂浪公。
 高祖即位、進雲車騎大將軍」
 「都死子立牟太、齊永明中、除太都督百濟諸軍事鎭東大將軍百濟王」
 「齊建元中、除武使持節督、倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎭東大將軍」(梁書諸夷傳)
  
 「文咨明王、諱羅雲、長壽王之孫。」
 「十一年、梁高祖即位。夏四月、進王爲車騎大將軍。冬十二月入魏朝貢。」(三国史記高句麗本紀)
 「東城王、諱牟大」(501年歿)(三国史記百濟本紀)
 
倭國王武、南史作征東大將軍。



■倭の五王は誰だったのか?中国と百済通史の対比。これで明解!?!

西暦   中国 倭王  分類  倭王・位冠・称号   中国名  百済王名
(在位年)
事件  日本書紀の記述
 18年      伯済      温祚王(在位18-28年)  初め卓氏の中馬韓(月支国)の大王に服する河南城の小さな国であった。  
 28年      伯済      多婁王28-77    
 77年      伯済      己婁王77-128    
 128年      伯済      蓋婁王
128-166
 北漢山城に宮を置く。(景福宮、昌徳宮などある鍾路区(종로구)。

后の外戚・真氏に王位を簒奪され以後温祚王の血統は途絶えたと思われる。(真氏は王妃系で倭人に類する)
 
 147~189 後漢   遼西扶余 166尉仇台は漢口の伯済を攻略して王に返り咲いて扶余百済成立。
189年、公孫度は後漢により遼東太守になる。

遼東太守公孫度以宗女嫁给尉仇台。
(尉仇台晋平二郡を略有し、遼東王の公孫度の宗女を娶り、帯方の故地に国を初めて建てた。
卑弥呼が帯方の地で倭女王となる。
仇台  肖古王(素古王の別名)
166-214
記紀では「照古王」
◇高句麗太祖大王146年8月には遼東郡西安平県を攻め、帯方県の令を殺し楽浪太守の妻子を奪い取った。
◇熹平6年(177年)夏、檀石槐は官軍を迎え撃った。臧旻らは敗走して、無事に帰還できた兵馬は10分の1にすぎなかった。その冬、鮮卑は遼西を寇掠した。
◇178年鮮卑・檀石槐は烏侯秦水に倭人たちを烏侯秦水に連行し、魚獲りに従事させ、食料難を解決した。
 
 193年  後漢/公孫   楽浪郡
後漢の献帝(在位期間189年 - 220年)夫余王(夫台王・優台/干台ユテ)は歩騎7~8千人を率いて玄菟郡を寇鈔し吏民を殺傷したが、間もなく再び帰附した。夫余王は嫡子の尉仇台を遣わして印闕貢献してきたので、献帝は尉仇台に印綬金綵を賜った。
故地に残留した旧扶余と公孫氏に帰属した尉仇台系扶余が分岐した。

尉仇台は高句麗が馬韓,濊貊と共に遼東へ侵攻したので、兵を派遣して打ち破り救った。 

遼東太守公孫氏自ら燕王と号すようになる。




204公孫度の死去。
204公孫康・帯方郡設置
204-210 公孫康 高句麗攻撃・高句麗の抜奇降る
 仇台 肖古王(素古王の別名)
166-214
『三国遺事』王暦では素古王の別名も記される。166年に先王の死去により王位についた。諱・諡は伝わっていない。
尉仇台が肖古王に充てられている。
黄巾の乱184年、倭国大乱もこの前後
193年,倭国で大飢饉が起き、千余人の倭人が食料を求めて新羅(辰韓)へやってきた(新羅本紀)倭国=帯方の大汗國=汗人=倭人のこと)
198頃 高句麗新大王の長子拔奇は兄なのに擁立されなかった怨みから、涓奴部の諸加と下戸三万余人を引き連れて公孫康に降伏し遼東に移る。
 
  魏/公孫   帯方郡 214尉仇台死す。简位居继立。
220年、魏の曹操が死去
  简位居 
(仇首王)
214-234
 仇首王は先代の長子とされる。  
  238年  魏  卑弥呼 帯方郡 238  简位居死、庶子・麻余(238-247)を共立。
238 遼隧の戦い 公孫淵死す。
238親魏倭王卑彌呼帶方太守除授
 
麻余王
235-???
( 沙伴王)
 公孫淵が「燕」皇帝を僭称すると、反乱者として討伐の対象となった。 公孫淵は、238年、遼隧の戦いで魏の皇帝曹叡に一族ともども処刑された。燕の冊封下にあった帯方郡の公孫宗女・卑弥呼は公孫を裏切り、魏に貢献。  神功皇后摂政39年、『魏志にいわく、明帝の景初の3年6月、倭の女王、・・・朝献す・・・京都(魏の洛陽)に詣らしむ。』・・・の引用あり。(魏志倭人伝では景初2年6月)
   魏    帯方郡
244 魏、一次高句麗侵入
247 二次高句麗攻撃  卑弥呼・参戦、南方から侵入。このとき黄幢は実戦に使われた。
248年頃・卑弥呼死す。 
扶余の地は遼西・遼東にあった。故に、鮮卑族慕容部に波状的攻撃を受け衰退する。
AD250 百済月支国併合
 
依慮王
235-285
( 比流王)
 沙伴王から4代は二都王朝。70年続く。真氏系(代々王妃を出す氏族・妃の弟が王位・謀反か?)
8.古尓王(234-286)9.責稽王(286-298)10.汾西王(298-304)
285年、慕容廆(ぼようかい)によって扶余(西百済)は全軍が撃破される。依慮王自殺。
286年武帝詔を発して扶余を復興。扶余の生口(奴隷)の売買を禁じる。
304汾西王が楽浪太守の刺客に殺される。
卑弥呼死す。 正始九年(248年) - またはその前後に
男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。
卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した
   東晋    高句麗帯方  鮮卑族慕容部に波状的攻撃を受けて扶余は滅びる。    衣羅王285-346
( 比流王)
294鮮卑族慕容部の首長慕容廆遼西制圧。
341慕容皝 高句麗・丸都城陥落
342に慕容皝は龍城(遼寧省朝陽市)に遷都
343高句麗故国原王 平壌城を王都にする
346慕容皝 扶余を滅ぼす。
 
         伯済の河南の扶余系統はこの契王で途絶える。    契王  真氏系伯済王朝最後の王。以後、余氏になる。  
 372年   東晋    高句麗帯方  372東晋に遣使・ 漢山(現在のソウルの風納土城)首都を移す。
鎮東将軍領楽浪太守
 余句  近肖古王
346-375

慕容皝に遼西を奪われて、河南の故地を制圧。契王を自害させる。これより尉仇台扶余本流の余氏となり、高句麗と敵対し、倭国と自称する。
百済膨張・楽浪・帯方・馬韓などに12国を併合(檐魯)
枕弥多礼国(チンミタレグ)など栄山江流域まで制圧。百済は異民族の征服王朝なので、10代後の王も、「百済の民と馬韓の民」とを差別した。馬韓人はいても、阿人(倭人)は船を豊富にもっていたので、この地域から逃亡した。
 『日本書紀』では肖古王、『古事記』では照古王
神功皇后 摂政52年 海の西を平定して(定海西)を百済に与えたという記事。(西の海とは馬韓のこと。)
369 倭軍出兵。
372お礼に馬韓から奪った谷那の鉄で作った七支刀が送られる。(神功皇后摂政52年)
<された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
良馬2頭と阿直岐・博士である王仁(わに)来る。(応神天皇16年2月に記事)
弓月の人夫を率いて襲津彦還る。(応神天皇16年8月に記事)
 380年-
 東晋 倭王讃   帯方百済占有    余須 近仇首王
375-384
 371年には太子だったが高句麗の平壌城まで進撃し故国原王を戦死させる。漢山に王都を移す。
 『梁書』では須の名で記され、
『日本書紀』では貴須王(くゐすおう)立つ。(神功皇后摂政52年)
『梁書』百済伝「晋の太元年間(376年 - 396年)に王の須が、…中略…生口(奴隷)を献上してきた。」という記事
襲津彦、新羅を打つのに美女2人の懐柔策(ハニ―トラップ)に嵌まって、加羅を討つ。木羅斤資、加羅を復す。(神功皇后摂政62年に記事)
           余暉  枕流王
384-385
   『日本書紀』では枕流(とむる)と読まれた。(神功皇后摂政52年9月)
『百済の枕流王みまかりぬ。王子阿花年わかし。叔父辰斯、奪いたちて王となる 』(神功皇后摂政65年に記事)
 386年  東晋    冊封
倭国
     辰斯王
385-392

 百済の「辰斯王」は<鎮東将軍・百済王>
近仇首王の弟
 枕流王の弟に当たる。
 、『日本書紀』には「枕流王の薨去の際に辰斯王が王位を簒奪し、後に辰斯王が日本に対して失礼な振る舞いがあったために倭国は紀角宿禰などを遣わせて譴責したところ、百済の側で辰斯王を殺して詫びたので、紀角宿禰らは阿花(阿莘王)を百済王に立てた。(応神天皇3年に記事)
             阿莘王392-405  <された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
396 燕王慕容垂、余蔚を河南王と為す。
396広開土王の攻撃
 <された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
記紀では「阿華王」
古墳の造営がしだいに増加。
391倭軍出兵:韓国に多く発見された前方後円墳はこのとき出兵した豪族の墳墓と見られる。
 396年 - 403年
404年 - 418年
 東晋/南宋
<された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
義熙9年
    冊封  高句麗と倭国貢献する <された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
余映


<された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
腆支王
405-420
394年2月に太子に立てられる。


 
 416  <された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
義熙12年
     義熙(ぎき)は、東晋、安帝司馬徳宗の治世に使用された元号。405年 - 418年。  <された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
<された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
余映
 <された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
<された。
腆支王
405-420
   
 421年  南宗;高祖武帝
永初
2年
 冊封  <された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
倭王・賛あり。<された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
万里修貢・長城修復などの労役を貢ぐ・
南史 卷一 宋本纪上第一 二月己丑,策试州郡秀、孝于延贤堂。倭国遣使朝贡。
 余映
<された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
<された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
<された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
<された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
<された。
腆支王
405-420
 

 425年  元嘉2     元嘉(げんか)は、南北朝時代、宋の文帝劉義隆の治世に行われた年号。424年 - 453年。倭王讃:司馬曹達を遣わし文帝に貢献   <された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
<された。
腆支王
405-420
  427年高句麗平壌遷宮 (428)応神天皇8年春三月百済人が来朝した。王子直支を天朝に送り先王の修好の願いを叶えた
 430年  元嘉7      1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀)    <された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
毗有王
427-455
(倭国王珍)
   
438年  元嘉15    自称  使特節・都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭国王 (438)叙授
(『宋書』倭国伝)(弥=『梁書』諸夷伝)
 余映 <された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
毗有王
427-455
(倭国王珍)

   直支王(ときおう)(応神天皇16年に引用記事)
阿花王の死亡後倭国にいた直支王(ときおう)を東韓の地を与えて、『汝、国に帰りて位に嗣げ』と命じて王位につかせる。(応神天皇16年に記事)
428百済直支王、妹の新斉都(しせつ)媛と7人の宮女を遣わす。(応神天皇39年)
 443年  宋・元嘉20  冊封
倭国王
 安東将軍・倭国王
(『宋書』倭国伝)443叙授
 余慶  <された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
<された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
蓋鹵王
455-475
개로왕
(倭国王済)
 430年<使持節・都督・百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王>継承
433年新羅の訥衹王と同盟(羅済同盟)
*蘇我満智は王の母と不倫。毗有王激怒!
蘇我は百済の王族出。
 久爾辛(くにしん)王となる、年若し。木満致(木刕満致=蘇我満智)国の政(百済のまつりごと)を執る。(応神天皇25年)
以後、蘇我氏の権力が強勢となる。
満智・韓子・馬背・稲目・馬子・蝦夷・入鹿。
 451年  〃元嘉28  冊封  使特節・都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭国王   〃 <された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
<された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
<された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
蓋鹵王
455-475
 444年4月 新羅・訥祇麻立干(417-458) 倭兵が金城を10日包囲。  
 462年  宋・孝武帝  冊封倭国 3月、宋・孝武帝、済の世子の興を
 安東将軍・倭国王(460除授)
(『宋書』孝武帝紀、倭国伝)
 余慶 蓋鹵王
455-475
개로왕
(倭国王済)
457年には宋の世祖より<鎮東大将軍>
 475年9月高句麗好太王の長子・長寿王襲来・蓋鹵王処刑され、漢城滅亡。
記紀では「加須利君(かすりのきみ)」
雄略五年に記事)!
百済・新羅と同盟(羅済同盟)して高句麗に対抗
宗・順帝の上表:しかるに句麗無道にして、図りて見呑を欲し、辺隷を掠抄し、虔劉して已まず。(高句麗が漢城百済を滅ぼしたことに宗の順帝が憤慨している。)
458年蓋鹵王が倭国に送った池津姫が密通の罪で焼き殺される(雄略5年記事)
 477年 宋・順帝   冊封倭王  11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)
これより興没し、弟の武立つ。
 *使特節・都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東将軍・倭国王
(『宋書』順帝紀、倭国伝)
 牟都 文周王
475-477
(倭国王興)
 475年文周王百済熊津遷宮
記紀では「文洲王」、
文洲王は蓋鹵王の母の弟なり。(雄略21年)
朝鮮史では蓋鹵王の妻の弟とされるが、母方が牟氏である。よって余氏ではなくなった。
久麻那利(くむなり)を以て文洲王に賜うという記事。クマナリは熊津のこと。(雄略21年の記事)

             <された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
三斤王
477-479
   <された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
日本書紀』雄略天皇紀には文斤王とも記される。477年9月に先王が暗殺され、三斤王がわずか13歳で即位した。百済の文斤王が亡くなる。(雄略23年記事)在位3年目の479年11月に死去。
 477年 477年 - 479年。昇明・宋の最後の年号。    冊封
倭王
上表して、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。順帝、武を 
*使特節・都督倭・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭王(478除授)
<された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
余 大
/
牟太
<された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
東城王
479-501
(倭王武)
480年 持節督、倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓、六国諸軍事鎮東大将軍 <された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
記紀では「末多王」
蓋鹵王の弟(軍君)で倭にいた昆伎王(昆支王)の第二子が末多王とする。この人は蘇我満智の弟になる。
『三国遺事』王暦では、名を牟大(徐牟大)または摩帝、余大(徐大)
479?昆支の子の末多王を百済に送る。兵器と筑紫の軍士500人を派遣。(雄略23年)
 479  南斉・建元1年    冊封
倭王
南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号。(『南斉書』倭国伝) 479除授
倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号。(『南斉書』倭国伝)
 <された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
余 大
/
牟太
 <された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
東城王
479-501
(倭王武)
   
                 
  502年   梁・天監1年    冊封
倭王
  4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。(『梁書』武帝紀)502除授 余 大
/
牟太
東城王
479-501
(倭王武)
梁書の「都死、立子牟太」 都は 前王の文周王。
502年南韓の地に遷都したのは牟太であり、余氏扶余は熊津に遷った。西百済、侯国としての税の徴収や朝貢をやめる。
501年 衛士佐平の放った刺客に東城王暗殺される。高句麗の二度の侵攻に日本が救援しなかったことに憤慨する。


 502年      余隆 武寧王
501-523
諱を斯摩、『梁書』では余隆
記紀では「嶋王」
雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきし、第21代蓋鹵王)の弟の軍君昆伎王の子、名を嶋君とする。武寧王は41歳に至るまで倭国で生活。(武寧王の弟が継体天皇として即位。妃は手白髪郎女は武寧王の兄の娘。)
512百済に伽耶の四県を与える。
 
 524年  梁・
明穠
   冊封
百済王
 持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王 余明   聖王
523-554
538王都を泗沘城(サビソン)に移す。
553年に新羅と管山城(忠清北道沃川郡)で戦っている最中に狗川(忠清北道沃川郡)で伏兵に襲われ聖王は戦死。約3万の兵士が皆殺しになった。
531欽明天皇誕生。伽耶の仇衡王521-532?の弟?任那復興を唱える。 
532 金官伽耶、新羅に降る。
552年 百濟聖明王 更名 聖王、仏像を倭国に贈る。(欽明天皇13年)

大臣の蘇我稲目(いなめ)が排仏派の大連の物部尾輿と対立。


553 新羅に平壌城・北漢山城奪われる。(欽明天皇13年(新羅真興王の領土拡大。漢口下流制圧)
554佐伯連、百済に出兵。
   北斉    冊封
百済王
 使持節・侍中・車騎大将軍・帯方郡公・百済王  余昌 晶王/ 
威徳王
554-598
577年、王興寺建立
日本に造佛工・造寺工の師を派遣、見返りに倭軍の派兵を要請。
581年隋に使節を送り、〈上開府・儀同三司・帯方郡公〉に封じられた
562伽耶、新羅に滅ぼされる。
570年頃蘇我稲目死す。(欽明31年の記事)
 敏達6年、造佛工・造寺工の師来日の記載。577年百済救援。
天皇家史上初の女帝である推古天皇即位。厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐した。
587年飛鳥寺建立。/蘇我馬子、物部守屋を滅ぼす。
   隋        余恵  恵王
598-599
   『日本書紀』には欽明天皇16年(555年)2月に聖明王(聖王)が亡くなったことを知らせるために昌(威徳王)が送った使者として恵の名で現れ、威徳王の弟であることを記している。『三国遺事』では威徳王の子とし、別名として献王という。
   隋        余宣  法王
599-600
 
 
   隋/
   冊封  帯方郡王・百済王  余璋 武王
600-641
602年8月新羅の阿莫山城(全羅北道南原市)を包囲したが、新羅真平王に敗れる。聖王の報復戦ならず。 
612年高句麗/乙支文徳(ウルチムンドク)将軍の薩水大捷、隋に大勝利。
が興ると621年に朝貢を果たし、624年に〈帯方郡王・百済王〉に冊封。
諱は璋、『三国遺事』王暦には武康、献丙の別名が伝わっている。『隋書』には余(徐)璋(余(徐)は百済王の姓)の名で現れる。薯童説話(ソドンせつわ)の持ち主。
626年に高句麗と和親を結び、盛んに新羅を攻め立てるようになった。

632年、弥勒寺(全羅北道益山市)を建立した
<百済と新羅が緊張>
607法隆寺創建。小野妹子隋に派遣。
推古天皇20年(612年)、百済人味摩之が伎楽を伝える。
622 聖徳太子死去。
622 乙巳の変(入鹿殺される)

皇極元年((642年)の日本書紀の記事の解説( 新羅真平王の三女・善花(ソンファ)は王の怒りを買い、王族を外され遠隔地に追放された。三国遺事にはその名が記載されるが、三国史記には記述されていない。ただ、「善花公主と薯童」という説話で残される。史実には取り上げられないが、武王と結ばれた経緯がある。武王の子義慈王はその母善花が没するとすぐに弟翹岐やその妹をはじめ関係者を日本に追放した。
   唐        義慈  義慈王
641-660
 642年百済は新羅大耶城(テヤソン・대야성)(陕川)を攻略。
644年高句麗/楊萬春(ヤン・マンチュン)将軍の安市城(アンシソン)の戦い。唐を敗戦させる。
642年、金春秋(キム・チュンチュ)は淵蓋蘇文(ヨン・ケソムン)に会いに国内城(クンネソン)へ赴くも和平交渉に失敗する。
643百済と高句麗 新羅党項城(タンハンソン)攻略
645年、唐は10万の兵で遼東城、白巖(ペガム)城は陥落させるも、安市城(アンシ)で大敗し、引き上げる。

660唐羅軍 黄山ヶ原の決戦で勝利、泗沘城を落とす。 義慈王は唐に連行される。
641新羅真平王の三女・善花(ソンファ)、武王の后が死去。子の王子児翹岐とその妹、冬服妹ほか内臣佐平を含む高官40人の一族、倭国に追放。皇極元年の記事。弟翹岐は譲位によって、第36代孝徳天皇(天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)に645年7月12日即位。

孝徳天皇元年(645年)初の譲位によって即位。

645任那国を以て百済に属け賜ふ。孝徳天皇大化元年の記事。
 647年 新羅・金春秋(キム・チュンチュ)倭国に遣使として来る。孝徳天皇大化3年の記事。
651 新羅の貢調使が唐服を着ていたので追い返す。孝徳天皇白雉二年の記事。
   唐      『旧唐書』では余豊(徐豊)    豊璋/   661年 蛇水(大同江)の大勝、大対盧(テデロ)の淵蓋蘇文(ヨン・ケソムン)、第二次高句麗・唐戦争
665年に淵蓋蘇文が死亡。
豊璋、多臣薦敷の妹をもって妻とする。(天智即位前紀)
660 日本にいた王子豊璋(糺解)を百済に送る。斉明天皇6年の記事。
663 百済王豊璋、復興軍の武王の甥の鬼室福信将軍を謀反の疑いで殺す。天智天皇2年の記事。
  663白村はくすきに倭軍敗続。豊璋は高麗に逃げる。(天智天皇2年の記事)
668大唐、高句麗を打ち滅ぼす。(天智天皇7年の記事)
   唐  爵号    輔国大将軍  余隆   唐は熊津都督府を設置、余隆を熊津都督・百済郡公・熊津道総管兼馬韓道安撫大使とするも、閉鎖を余儀なくされ、その後、余隆は熊津城に帰ることなく682年、洛陽に没す。  

*公孫氏の地盤 幽州遼東郡襄平県・北平 薊(北京)など、遼東を含む河北の北部・朝鮮半島の楽浪郡・帯方郡

*遼西百済(扶余)の系譜 
^^ 
年表では中国名の列に尉仇台の系統の王であることが例証できるものにねずみ色をつけている。三国史記の百済王系図は二都王朝の王(解氏と真氏・余氏)を折衷しているように見える。王統記が史実実年とは異なるのだろう。


遼東太守     
公孫延---公孫度---公孫康---公孫晃
      |    |
      |    |
     公孫恭  公孫淵---公孫脩

後東扶余----->百済

尉仇台・・・・余句・余須・余暉・余映・余毗・余慶・牟都・牟太→
 |         |    |  |  |  |   
 |        倭国王      倭国王      倭王
 |後東扶余
慰仇太王 ▪ 简位居王 ▪ 麻余王▪ 依虑王(依慮) ▪ 依罗王 ▪ 玄王 ▪ 余蔚王 



*熊津百済の系譜に繋がる
→牟太(東城)479・<余隆(武寧)501>・余明(聖王)523・余昌(威徳)554・恵598・余宣(法)599・余璋(武)600・義慈641・(余隆)660。

*魏(ぎ、拼音:Wèi、220年 - 265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏、あるいは北魏に対して前魏とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。
*百済が人質・仏像・僧侶・工人などを送ってくるとき、見返りに倭兵の援軍を要請していることに気付く。

尉仇台とは

『通典』百濟

 百濟、即後漢末夫餘王尉仇台之後、後魏時百濟王上表云:「臣與高麗先出夫餘。」初以百家濟海、因號百濟。

 百済、すなわち後漢末の扶余王「尉仇台」の後裔、後に魏の時代に百済王が上表して言うには「臣は高麗の先、扶余より出る」。初め百家(多勢)で済海(海を渡る)した故に百済と号する。
中国史籍は尉仇台を百済の祖と記している。さらに高句麗よりも先の北扶余からでているというのである。百済は高句麗の傍系であるという三国史記とは異なるのである。伯済(馬韓の小国)は確かに温祚が建国したのだから、伯済については三国史記は正しいのだろう。兄・沸流(ぴりゅ)はケル族の長に従わず、ミチュボルの海辺の方に建国したが、土地が塩を含んでいて作物が育たないため百姓が皆ウィレソンに逃げてしまった。このため、自ら恥じて自殺したというのが、三国史記で、その後の沸流の系統は一切出てこない。遼西百済には海を渡って建国したというので、”百済”という国名になった経緯からは、百済も河南が起点である。そうであれば、天孫である条件にあたはまる末裔は沸流の嫡流である尉仇台ではなかったかと推察する。しかし、高句麗より前の扶余から分岐したというのであれば、尉仇台は後扶余の系譜に入り、河南伯済よりも正統扶余を自負することも考えられる。なんであれ、馬韓の小国であった伯済を支配し、後に馬韓を統一したのは尉仇台の系譜に繋がる子孫である。


魏志夫餘伝
『夫餘本屬玄菟漢末公孫度雄張海東威服外夷夫餘王尉仇台更屬遼東時句麗鮮卑彊度以夫餘在二虜之間妻以宗女』

したがって、「宗女」は「嫡出(正統の血縁)である娘」ということになります。
「夫余はもと玄菟郡に属していた。(後)漢末に(遼東太守)公孫度が海東(幽州)に勢力が強くなり、外夷を威圧し服属させた。夫餘王の尉仇台はあらためて遼東郡に属した。その頃、高句麗と鮮卑が強く、夫余はこの二つの敵対国の間にあったため、公孫度は一族の娘(宗女)を妻に出して懐柔した。」

*いまでも、芸などの家元のことを「宗家」と言いますが、この場合の「宗」は、正統であること、嫡出であることを意味します。そこで、宗女を妻にしたを一族の娘と訳したのでしょうが、それならば公孫度の娘と訳した方がいいでしょう。なぜなら、一族の娘と言うと相当な人数になってしまいます。宗を正統なであることを、強調するなら側室や王妃の娘ではなく正后の産んだ娘ぐらいの区別をしたほうがいいでしょう。上記が魏志なので、信ぴょう性が高いといえます。


『宋書』卷97・列傳第57(百済国条)
「百濟國,本與高驪倶在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣」
「百済国はもと高麗とともに遼東の東千里あまりのところにあった。その後、高句麗が遼東を制したので、百済は遼西を略有した。百済の治するところは晉平郡晉平縣である。」
遼東を制したのは高句麗王第6代太祖大王(47年 - 165年・在位:53年 - 146年)のこと。

梁書』卷54・列傳第48(百済条)
「其國(百済)本與句驪在遼東之東 晋世 句麗既略有遼東 百濟亦拠有遼西 晋平二郡地矣 自置百濟郡」

「百済は遼東の東にあった元句麗国である。晋代の世に句麗は遼東を略有して、また、遼西晋平二郡を拠有し、自ら百済郡を置いていた。」
*拠有とは、拠所として持つこと。


『周書』卷・列傳第(百済条)
「百濟者、其先蓋馬韓之屬國、夫餘之別種。有仇台者、始國於帶方」
百済は蓋馬韓の属国であったが扶余の別種である。尉仇台という者が帯方に始めに国を立てた。」


『魏書』卷・列傳第(百済条)
「有仇台者、篤於仁信、始立其國于帶方故地。漢遼東太守公孫度以女妻之、漸以昌盛、為東夷強國。初以百家濟海、因號百濟」
「尉仇台という者があり、仁信に篤があった。はじめて帯方の故地に国を建てた。遼東太守の公孫度は子女を妻とした。だんだん繁栄して朝鮮で強国となった。初め百家をもって海を渡ったので百済というようになった。」

ロングで引くと、こうなる。
これらの戦いの最中、故地に残留した旧扶余(吉林)と公孫氏に帰属した尉仇台系扶余(遼西)に分岐した。
尉仇台系の扶余が遼東をめぐって高句麗と戦闘し、285年、鮮卑族慕容廆(ぼようかい)によって扶余(西百済)は全軍が撃破され遼西を破られると、海を渡って帯方の兄弟国、伯済国を強奪した。このため伯済国は百済扶余に変質し、盛んに高句麗を攻撃し始めた。さらに伯済国の後ろ盾になっていた南方馬韓も破壊した。372お礼に馬韓から奪った谷那の鉄で作った七支刀が送られる。(神功皇后摂政52年)このときには馬韓は破壊された。船をたくさん持っていた阿人は日本に逃げたので馬韓には馬韓人しかいなくなった。伯済と婚姻同盟はこの尉仇台系の扶余の侵入によって破られたのだ。日本に逃げてきたのがは恐ろしく好戦的で強力な戦闘力をもっていた。日本の神社は伯済国系と馬韓系の神社がほとんどである。こうしたことから日本は6世紀には新参者の好戦的百済を嫌う風土ができあがった。


A:『魏志夫餘伝』

永寧元年乃遣嗣子尉仇台印闕貢獻天子賜尉仇台印綬金綵 』


永寧は (漢):後漢の第六代皇帝・安帝劉祜の元号(120年-121年)後漢の安帝は在位106年 - 125年であり、時代考証では尉仇台に合わせると献帝(けんてい)になろうか。後漢の最後の皇帝。諱は協。在位期間(189年 - 220年)で、その195年頃に尉仇台に印綬金綵を授けた。印璽には「濊王之印」と彫られていただろう。
*金綵(きんさい)は金色の絹糸で編まれた王衣のことか。

注:この記述の安帝ではなく、献帝(189-220)と解する。尉仇台が登場するので、その活躍した年代に修正する。
後漢・献帝のとき曹操が魏王となる。あるいは、東晋の安帝(396年 - 403年)も試行錯誤したが、倭王賛の時代になって、これも適しない。

安帝の永初5年(111年)、(献帝の5年 203年)夫余王は歩騎7~8千人を率いて玄菟郡を寇鈔し吏民を殺傷したが、間もなく再び帰附した。永寧元年(212年)、夫余王は嫡子の尉仇台を遣わして印闕貢献してきたので、安帝は尉仇台に印綬金綵を賜った。翌213年、高句麗が1万の兵を率いて漢の玄菟城を囲むと、夫余王は嫡子の尉仇台に2万の兵を率いさせて援軍に遣り、高句麗軍を壊滅させた。翌214年(延光元年)、また高句麗が馬韓,濊貊と共に遼東へ侵攻したので、兵を派遣して打ち破り救った。

B:『後漢書』「東夷傳」

安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」

安帝、永初元年(107年)(212年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う。

A:魏志扶余伝とB:後漢書東夷傳も安帝を間違いとし、献帝に修正すると、
尉仇台=師升となり、なんと倭国王として奏上し、奴隷を160人も貢献して印綬金綵を賜ったことになる。
尉仇台は『倭国王』を任じて、なぜ「濊王之印」を拝したのだろうか。

『尉仇台死簡位居立無適子有孽子麻余位居死諸加共立麻余牛加兄子名位居為大使輕財善施國人附之歳歳遣使詣京都貢獻』
「尉仇台が死に簡位居が立った。簡位居に嫡子がなく、尉仇台の庶子の麻余があり、位居が死ぬと、豪族たちは麻余を共立した。(簡位居の?)兄の子、名は位居が大使となった。蓄財を軽んじて、善く施したので、国の人々は支持していた。年々遣使して洛陽に参上し、貢ぎものを奉った。」

*庶子は王の側室にもなっていない身分が低い母との間に生まれた子供を云う。
*扶余では兄が死んだ場合、兄嫁を弟が妻とする。これは匈奴と同じ習俗(レビラト婚)という習慣があった。
この時代は王の長男が必ず太子(嗣)になるというわけではなかった。弟の妻と二妻となると難しい問題になり、後宮では子供がよく病死することになる。

*扶余では奴婢や女官を殉葬する習慣があった。
有力者が死ぬと、夏期であればみな氷を用い、人を殺して殉葬する。多い時には殉葬者が数百人に達する。死者を厚葬し、遺体を納める棺(ひつぎ)があるが槨(かく)はない。また、喪に停すること5月、久しきを以って栄とする。
*中国古代の用法では,直接死体を収納するものを棺といい,その棺を置くところを槨といい,槨は壙(墓穴)の中に造られるという。古代の中国やモンゴル・朝鮮にも殉葬はあった。

近肖古(クンチョゴ)王とは

  近肖古王(きんしょうこおう、生年不詳 - 375年)は百済の第13代の王(在位:346年 - 375年)であり、第11代の比流王の第2子。
『三国史記』には諱・諡は伝わっていない。『晋書』では余句(徐句))、『日本書紀』では肖古王、『古事記』では照古王、『新撰姓氏録』では速古王とする。


近肖古(クンチョゴ)王は肖古王とも言われ、比流(ピユ)王の2番目の息子である。彼は369年頃、馬韓(マハン)を攻撃し領土を全羅道南海岸まで拡大した。更に、洛東江流域の小国数か国の支配権も伽耶から奪うことに成功する。371年、近肖古王は高句麗を攻撃し、王の息子である近仇首(クングス)が自ら兵を率いて高句麗の首都を攻め高句麗の王である故国原(コグックウォン)王を戦死させた。これにより百済の勢力は黄海道(ファンへド)地域にまで伸びることになり、百済の歴史上最も広い領土を持つこととなる。

襲津彦、新羅を討つのに美女2人の懐柔策に嵌まって、加羅を討つ。木羅斤資加羅を復す。(神功皇后摂政62年に記事)

313年楽浪郡の滅亡で西海の海上権は高句麗に移っていたが、この戦いで百済が勝利したことにより海上権は百済が掌握する事となる。
京畿(キョングギ)道・忠清(チュングチョング)道・全羅(チョルラ)道などと江原(カングウォング)道の一部、そして黄海(ファングへ)道の一部までを占め古代国家の礎を築いた近肖古王は、漢山(現在のソウル)首都を遷し中国の東晋に遣使 鎮東将軍領楽浪太守に叙せられる。
中国の南朝文化を取り入れた百済は、こんどは日本へ阿直岐(アジッキ)と王仁(ワングイン)を派遣し論語、千字文などの儒教経典と漢文を伝えた。彼らは日本の王や太子などの王族に直接講義をし、日本ではこの時から文字の使用が始まったとされる。この他にも近肖古王は最高の工芸品と言われた七支刀を日本の王へ下賜した。

領土の拡張以外にも国外の国々と積極的に外交活動を繰り広げた近肖古王は王権の権威を高め、さらに自身の業績を高めるため、仏教を受け入れる。また、、博士・高興に百済の国史である「書記」を書かせた。
近肖古王は部族連盟の百済を古代国家の形態に作り変え、官等制を拡充した。王権を強化し王位の継承を父子相続に変えた。王妃族を真氏に固定した。

日本書紀 神功皇后 摂政52年(内容は372年の出来事の記事である) 
『治世51年春3月、百済王はまた久氐氏を遣わして朝貢した。そして皇太后は皇太子と武内宿禰に語って言った。 「わが親交する百済国は天の賜り物です。人為によるものではない。見た事もない珍しい物などを、時をおかずに献上 してくれます。私はこの誠を見て常に喜んで用いている。私と同じように後々までも恩恵を加えるようにお願う。」 この年、千熊長彦を久氏らにつけて百済国に遣わし言った。 「私は神のお示しに従って往き来の道を開いてきた。海の西を平定して(定海西)百済に与えた。いま誼を結んで長く寵賞しよ う。」 これを聞いた百済王父子は共に額を地にすりつけて拝み言った。 「貴い国の大恩は天地より重く、いつの日までも忘れる事はないでしょう。聖王が上においでになり、日月のごとく明か です。今私は下に侍って堅固なことは山岳のようで西蕃となってどこまでも二心を持つ事はないでしょう。』


375年に近肖古王が退くと彼の息子である近仇首が王位に上った。
 すると百済との戦闘に続いて敗れていた高句麗はここぞとばかりに再び百済を攻撃し水谷城を陥落させた。これを契機に百済と高句麗は、攻守を繰り返す戦闘に入ることになる。そして391年、高句麗史上最高の征服君主である広開土(クァンケド)大王の波状攻撃で百済の勢力は急速に弱体する。檀君王儉(ワンゴム)が建てた古朝鮮の領土を取り戻すことを夢とした広開土大王は海外遠征に先立ち、392年百済を攻撃し10余個の城を征服した。
このため、百済は漢江流域を喪失し、伽耶地域に伸びていた勢力圏も新羅に奪われた。

こうした中、仏教が韓半島に伝来する。高句麗には372年に、百済には384年に伝えられた。
百済は日本へ仏教を含め様々な文化・技術を伝え、日本では飛鳥文化が仏教を中心に形成されることとなる。

<された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
広開土王に攻撃された阿莘王とは
安帝(あんてい)は、東晋の第10代皇帝で、在位396年 - 403年 、404年 - 418年 (403年一時皇位を簒奪されていた)である。
『梁書』帝紀  晋の安帝の時、倭王・賛あり。と、記事。
阿莘王(アシンワン、392-420)、)。『三国史記』百済本紀・阿莘王紀の分注には別名の阿芳王が伝えられ、『日本書紀』では阿花王(あくえおう)とされる。は『三国史記』には伝わらない。第15代の枕流王の長男であり、枕流王が385年11月に死去したとき、阿莘王がまだ幼かったので叔父の辰斯王が第16代の王位を継ぎ、辰斯王が392年11月に死去して阿莘王が第17代の王位についた。
辰斯王は阿莘王が殺害した。
漢江以北の土地を失う。
即位の直前(392年10月)に高句麗に奪われた関彌城について、百済北辺の要衝の地であるとして奪回を企てた。勇将であった真武(王妃の父)を左将に据えて、393年8月には一万の兵を率いて高句麗の南辺を討伐しようとしたが、高句麗兵の籠城戦の前に兵站が途切れたために撤退することとなった。翌年にも高句麗と戦って敗れており、さらに396年には好太王に漢山城(京畿道広州市)まで攻め入られて大敗した。阿莘王は高句麗への服属を誓わされ、王弟や大臣が高句麗へ連行されることとなった。しかし服属を誓いながらも、倭国との修好を結んで高句麗に対抗しようとし、 太子の余映を(後の腆支王)を倭国へ人質として送ってもいる。こうして高句麗との戦いは続けられたが、敗戦を重ねるだけであった。また、399年高句麗討伐の為の徴発が厳しく、百済から新羅に逃れる者も多く出た。『好太王碑文』によると399年から倭の新羅侵攻がおこっており、倭は新羅国境に満ちて城池を潰破して、さらに翌400年になると倭が新羅の首都を占領する状況にあったが、この399年に百済は高句麗との誓いを違えて倭と通じている。後に403年には新羅への侵攻も試みている。 太子の余映を倭に送る。427年高句麗平壌遷宮。


漢書の地理志の「倭人の項」顔師古の注:

 夫楽浪海中有倭人 分為百余国 以歳時来献見云

(注)
 如淳曰「如墨委面 在帯方東南万里」
 臣讃曰「倭是国名 不謂用墨 故謂之委也」
 師古曰「
如淳云『如墨委面』 蓋音委字耳 此音非也 倭音一戈反 今猶有倭国
    魏略云『倭在帯方東南大海中 依山島為国 度海千里 復有国皆倭種』」


漢書の地理志の「倭人の項」顔師古の注:以下・・・「如墨委面」と「倭」・・・・

魏の如淳が『蛮夷の「如墨委面」は帯方郡の東南に一万里も離れている。』と伝えている。

讃は『倭がその国の名前ですございます。墨を用いたとは言っていません。それで「委」だけを「倭」といったのです。』と言った。

師古が『魏の如淳が「如墨委面」は、おそらく「委」は「耳」という字と同じ発音だから、「倭」ではない。「倭」の発音とは矛盾する。昔からいまだに倭国という。』と言っている。

「魏略伝」には『倭は帯方郡の東南の大海の中にあって、山の多い島々から国がなっている。海を渡ること千里、又国があるが皆倭種である。』と記録にある。

<倭王讃は奏上書に倭国ではなく、委国と書いて、書き直しを迫られているのです。師古には「倭」は「如墨委面」と同意であるという認識があった。「如墨委面」は周ー呉の時代に使われた古い語彙である。文官が「委王」と書いたのだろう。「讃」は「如墨委面」を知らなかったので、恥ずかしい返答をしてしまう。指摘されても気づかなかった。

*「北虜南倭」、北は南の倭をとりこにする。この「委」は南方にある。呉の太伯から来ている。
*訳文:R@黒澤一功
如淳は3世紀中頃の人物(魏)
師古は7世紀前半の人物(唐)




腆支王(チョンジワン、生年不詳 - 420年)は百済の第18代の王(在位:405年 - 420年)であり、阿莘王の長男。『梁書』では余映(徐映)(余(徐)は百済王の姓・扶余の一字を取ったもの)、『日本書紀』では直支王(ときおう)、『三国遺事』王暦では眞攴王と記される。諱・諡は『三国史記』には伝わらない。倭国へ人質として送られていた腆支王は倭国で阿莘王の死を聞き、哭泣するとともに帰国することを倭国に請願し、倭国の兵士に伴われて帰国した。国人は碟礼(碟礼(末弟・ソルレ)を殺して腆支王を迎え入れ、ここに即位がなった。417年7月には東北辺で沙口城を築くなどして、再び高句麗への対抗の態勢を整えていった。

 倭王 済とは 

毗有王(ピユワン、生年不詳 - 455年)は百済の第20代の王(在位:427年 - 455年)であり、先代の久尓辛王の長男、または『三国史記』百済本紀・毗有王紀の分注では第18代の腆支王の庶子とされる。『三国史記』には諱・諡は伝わらず、『宋書』には百済王余毗(徐毗)(余(徐)は百済王の姓)として現れる。427年12月に先王の死去により王位についた。433年新羅の訥衹王と同盟を結ぶ。


 倭王 済

 蓋鹵王(ケーロワン、? - 475年)は、百済の第21代の王(在位:455年 - 475年)。先代の毗有王の長子であり、『三国史記』によれば諱は慶司。また、近蓋婁王とも記され、『日本書紀』には加須利君(かすりのきみ)、『宋書』には余慶(徐慶)(余(徐)は百済王の姓)の名で現れる。455年9月に先王の死去に伴い、王位についた。


蓋鹵王は即位後早い時期に宋に遣いを送り、自身の身内や高官十一人への爵号授与を願い出た。十一人の内訳は余紀、余昆(昆支)、余暈、余都、余乂、沐衿、余爵、余流、麋貴、于西、余婁。このうち長子余紀が文周王になり、余混が461年に来日した昆支である。昆支は 河内で倭の援軍を得て、自ら進軍したが、すでに高句麗に攻略された後だった。そのため、昆支倭軍は、伽耶国を攻撃、比利・辟中・布弥支・半古の四邑を百済に割譲させたのが真相だろう。

高句麗は、僧侶道琳をスパイとして送り込んできた。碁を好む蓋鹵王は碁の名手であった道琳を側近として身近に置き、道琳の勧めるままに大規模な土木事業を進め、国庫を疲弊させることとなった。
472年北魏に高句麗征伐を要請、北方(遼西百済)と南方(伯済・河南百済)と南北同時戦線の戦術へ同盟を要請したのが、いけなかった。これが高句麗に漏れて475年高句麗長寿王(チャンスワン広開土王の長子)に3万の兵を率いて急襲される。南漢城は陥落して蓋鹵王は阿且城(ソウル特別市城東区康壮洞)で処刑された。このとき、大后・王子ともども殺されたが、長子余紀は新羅に援軍を要請しに出向していたので無事だった。また、次男余昆(木崑攴)また日本に徴兵に行ったため慰礼城には居なかった。
『梁書』諸夷伝』興死して弟の武立つ。倭王・興は蓋鹵王である。
雄略20年の記事では「百済国は日本国の官家(みやけ)として、ありくること久し。また、その王(こきし)、入りて天皇に仕えす。四隣の共に識るところなり。」と高句麗王が云ったため、百済の王族・遺臣などを全滅させることを止めたという内容である。ここでいう天皇は後世の修治であり、ただしくは王である。官家とは貢納国であるので、百済が日本の王に貢納してしいるというのは書記のポジションである。


『乃ち其の弟軍君(崑攴君なり)に告げて曰く「汝、日本に往でて天皇に事えまつれ」という。(雄略五年)』書記は出来事の年 代、時の人名をモザイクのようにばらばらに書いており編纂された様子がない。蓋鹵王(可須利君かすりのきし)其の弟軍君は昆支(こんき)である。

弟軍君・昆支(コンジ)の子が木劦満致で、昆支(木羅斤資)が新羅攻めをしたときに新羅の婦人との間に生まれた子である。父の功あって任那に強い力をもち、百済と倭国の間を頻繁に往復している。百済の政治を執り行って、王の母と相淫していると記録された。

蓋鹵王は 嘆いてこう言った。「娘(庶子)を倭王に嫁がせたが、しかし無礼にも我が国の名を貶めた。倭王は百済のことをすっかり忘れてしまった。もう政略結婚はこりごりだ。(この娘は日本書紀で池津姫として記事)いま、側室で妊娠している女性を嫁 せるから、琨支よ、一緒に日本に行ってくれ」、これは倭王(欽明天皇)との政略結婚が効を失っているので、しっかり百済を支えるようにとの密命をあたえた のである。妊娠している婦の名前は分からないが、産み月に当たっていたので、もし子供が産まれたら、その子を「速やかに国に送らしめよ」と命じた。筑紫の 各羅嶋で子供が産まれたので「嶋君」と云う。昆支は船に乗せて嶋君を送り返す。この子、なんと武寧王に即位。武寧王は故に「斯麻王」 (書記では)と書く。嶋君は実に41歳まで日本で暮らしていたのちに、武寧王となったのである。

*池津姫:慕尼夫人(むにはしかしの娘)を飾らせて適稽女郎(ちゃくけいえはし)と呼び、(雄略)天皇に奉った。日本書紀 雄略天皇二年七月条 百済新撰云】池津媛は、雄略天皇天皇がまさに召そうとしたときに、石川楯(イシカワノタテ)と姦淫した。天皇は大いに怒り、大伴室屋大連に詔して来目部くめべを使い、夫婦の四肢を木に張りつけて桟敷の上に置かせ、火で焼き殺させた。【日本書紀 雄略天皇二年七月条】

458年、罽賓国((けいひん、拼音:Jìbīn)カシミール近辺)から5人の僧が来て仏典と仏像をもたらし出家を勧めたので、風俗は変化した( 『梁書』巻54 列伝第48 諸夷 海南 東夷 西北諸戎 扶桑國 扶桑(ふそう、拼音: Fúsāng フーサン)国は倭人の国と思われていた。ガンダーラ仏像が伝来し、後の広隆寺の弥勒菩薩に繋がる。
*加須利君(かすりのきみ)(雄略五年に記事)蘇我高麗と同一人物の疑いも。

<された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
<された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
百済の475年 高句麗長寿王、百済の漢城を陥落させ、百済蓋鹵王を殺す。この時の蓋鹵王以下一族郎党も殺戮されたと言われ、百済王統は滅亡した。そこで、余氏を遼西からもってきて、雄略天皇が熊津を与えて百済を復興させたという日本書記の記述が照合するだろう。
だが、経緯から百済を復興させたのではなく、扶余を復活させたという方が適切だろう。百済といわず、南扶余と国名を変えているのに、ずっと百済、百済と滅亡のときまで書くのは、事実に合わない。これは王統譜を一系にしたいがためだろう。


百済は、辰王を圧迫したわけで、近肖古王(364-375)の頃には辰王は半島から日本に逃げ出さなければならなかったようである。扶余族は少数であったが、大多数は複数小民族の連合帯であったため弱かったようである。


倭王 興とは
『梁書』諸夷伝
「晋の安帝の時、倭王賛あり。賛死して弟の弥立つ。弥死して子の済立つ。済死して子の興立つ。興死して弟の武立つ。斎の建元中、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭王」に除す」とある。百済が除かれ、倭国王が倭王になった初めての称号である。


東晋は滅び、斉(南斉)が立つ。建元1年は479年、建元の期間は(479年-482年)であり、斉(南朝)太祖 高帝 蕭道成 479年 - 482年在位期間と同じである。倭王武は479に鎮東大将軍に叙せられた。倭王武が扶余王に与えられる鎮東大将軍の称号も持っていたという確たる文証である。

武は文周王(ムンジュワン、生年不詳 - 477年)は百済の第22代の王(在位:475年 - 477年)であり、先代の蓋鹵王の子。諱・諡は伝わらない。475年9月高句麗好太王の長子・長寿王襲来・蓋鹵王処刑され、文周は直ちに王位について熊津(忠清南道公州市)に遷都した。この人物は蓋鹵王の母の弟である。牟氏は王妃の氏姓なのである。この王が余氏(余氏は扶余氏ともいう)から牟氏になっているのは、急きょ王にならざるをえなかったからだろうか。男系血族が王になっていない稀な例である。

倭王が取れて持節督 倭だけとなっている。<された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
文周王(ムンジュワン、生年不詳 - 477年)は百済の第22代の王(在位:475年 - 477年)であり、先代の蓋鹵王の子。諱・諡は伝わらない。『三国史記』百済本紀・文周王紀の分注や『日本書紀』には汶洲王、『三国遺事』王暦には文明王という別名も見られる。三国史記では伝えていないが牟都であろう。倭の五王の「武;mᵈuː」に当たる。字名が牟氏になった。
蓋鹵王が王位についたとき、文周は上佐平(百済の官位のひとつ。1等官の上に立つ宰相に相当)として蓋鹵王を補佐するようになった。高句麗の長寿王が475年9月に百済の首都漢城(ソウル特別市)に攻め入った際、蓋鹵王の命で文周は新羅に救援(羅済同盟)を求めに出ており(『三国史記』百済本紀・蓋鹵王紀では木劦満致らとともに南方に逃れており)、10月に新羅の兵1万を率いて都に戻ったときには、既に漢城は陥落して蓋鹵王は処刑されていた。文周は直ちに王位について熊津(忠清南道公州市)に遷都した。

『日本書紀』においては雄略天皇20年(476年)に高句麗が百済を滅ぼしたこと、同21年(477年)3月に雄略天皇が久麻那利(こむなり、熊津ウンジンを指す)を百済の汶洲王に下賜して国の復興をさせた、と記している。
『三国史記』年表においては文周王の治世を3年とし、百済本紀・文周王紀では4年条が存在。


 『晋書』巻九・孝武帝本紀太元11年(386年)夏4月条には「百済王世子余暉(徐暉)」(余(徐)は百済王の姓)として百済王の諱と思われる人名が現れる。この余暉(徐暉)を「世子」の表現から阿莘王から王位を簒奪した、辰斯王である。また、年次の面から辰斯王に比定する説が多い。『三国史記』においては諱を「暉」とする百済王の記述は見られない。


■木羅斤資と木刕満致は伽耶の王族か?

 木羅斤資というのは日本書紀に書かれる名称。百済では木崑攴(ボッk・コンジ)、百済・任那・新羅を又にかけた勇猛果敢な王子である。近肖古王とともに将軍として活躍している。木刕の二文字姓は百済では不明で、百済以外の国からやってきた人物。近肖古王も生年不承だが、この人もすべて謎に包まれている。伽耶の大君長か、旱岐(かんき(国邑の長)とも取れる。木刕満致の父だということ、百済の猛将だが、伽耶にめっぽうこだわる人物である。

近肖古王は二つの方向から栄山江流域に対する攻撃を断行した。一つは、木羅斤資の率いる軍隊が加耶地域を出発して南海岸に沿って康津地域に到着し、中心勢力であった沈弥多禮を攻撃するルートで、もう一つは近肖古王が自ら太子と共に軍隊を率いて栄山江流域に向かうルートであった。百済軍の攻撃を受けた沈弥多禮は最後まで抵抗したが、ついに力尽き、比里•僻中•布弥支•半古などの四邑も降伏した。これによって百済は、栄山江流域全てを自身の領域に編入した。

369年に百済は、将軍木羅斤資を遣わして加耶帝国に対する武力示威を展開し、ついに比子伐•南加羅•安羅•加羅など加耶の7国を影響圏内に入れた。その結果、加耶帝国は百済に決まった貢納を負う条件で独立が保障された。木羅斤資は伽耶を占有して、新羅に寝返りそうな卓淳国を牽制していた。

神功皇后49年春、荒田別・鹿我別将軍を、久氐らと卓淳国にいたり将に新羅を襲おうとしたとき木羅斤資と沙沙奴跪に命じて兵を増強し精兵を以て新羅を破った。いわゆる加羅7国平定と馬韓の南部もついでに平定した。これは369年の近肖古王の軍事行動と重なる話である。引用で「木羅昆資と沙沙奴跪、この二人は、その姓を知らざる人なり。但し、木羅斤資のみは百済の将(いくさのきみ)なり。」とある。
(369年の事を、どうして神功皇后紀に記載するのか、日本書記の編纂者に尋ねるしかない。書記は出来事の年代、時の人名をモザイクのようにばらばらに書いており編纂した様子がない。)



■木刕満致は蘇我満智 百済と伽耶を牛耳っていた。

木刕満致は木羅斤資が新羅攻めをしたときに新羅の婦人との間に生まれた子である。父(木羅斤資)の功あって任那に強い力をもっている。百済と倭国の間を頻繁に往復している。百済の政治を執り行って、王の母と相淫している。


其の父の功を以って任那に専たくめなり。我が国(=百済)に来入て、貴国(=ヤマト、日本)に往還ふ。制を天朝(ヤマト朝廷)に承りて、我が国の政を執る。権重いきおい、世に当たれり。然るを天朝、其の暴を聞こしめして召すといふ(百済紀)』

これと同じことが日本書紀 応神25年に書かれている。
『25年に、百済の直支王(余映・腆支王405-420)罷りぬ。即ち子久爾辛(余毗・毗有王427-455)、立て王となる。王、年若し。木満致(木刕満致)、国の政(まつりごと)を執る。王の母と相淫(あいたわけ)けて、多いに無礼す。天皇、聞しめして召す。
百済記に伝はく、『木満致は、是木羅斤資、新羅を討ちし時に、其の国の婦を聚きて、生む所なり。その父の功を以て、任那を専(たくめ)なり。我が国(百済)に来入りて、貴国(倭国)に往還(かよ)ふ。制を天朝に承りて、我が国(百済)の政を執る。権重(いきほい)、世に当れり。しかるを天朝(毗有王)、その暴(あしき)を聞しめして召す』と伝ふ。

文周王は新羅に救援(羅済同盟)を求めに出ており、木劦満致らとともに南方に逃れており)、10月に新羅の兵1万を率いて都に戻ったときには、既に漢城は陥落して蓋鹵王は処刑されていた。(『三国史記』百済本紀・蓋鹵王21年(475年))分周王は漢城に戻っていることは確かだが、木劦満致は新羅から先は行方不明である。木劦満致は勢力圏である伽耶で兵を募るのが考えやすい。時間が過ぎていく間に、漢城陥落の知らせが入り、倭国(日本)に逃避したのではないかと見られている。
 日本に到着した彼は百済の執政者としての実力と父の功による伽耶の権益をもって、その三国の間に往還するスケールの大きい国際的大人物だった。

日本書紀の次の記事は 昆支王と書かれる。木劦満致のこと。


  『日本書紀』雄略23年『百済新撰』に曰く、辛丑の年、蓋鹵王、弟の昆支王を遣わして、大倭に向でてにに天皇みかどに侍え奉らしめ、以て先王の好を脩む。)」という引用がある。

『乃ち其の弟軍君(崑攴君なり)に告げて曰く「汝、日本に往でて天皇に事えまつれ」という。(雄略五年)』、蓋鹵王(可須利君かすりのきし)其の弟軍君は昆支(こんじ)である。

昆支は船に乗せて嶋君を送り返す。この子、なんと武寧王に即位。武寧王は故に「斯麻王」 (書記では)と書く。漢城陥落の知らせが入り、倭国(日本)に逃避したのではないかと見られる。嶋君は実に39歳まで日本で暮らしてたのちに、武寧王となった。(雄略五年)


日本に来た木劦満致は身分も実力も上級で、蘇我満智の氏を賜って、履中天皇2年には平群木菟宿禰や円大使主とともに執政官となる。『古語拾遺』によれば、雄略天皇代、増大する諸国からの貢物に対応すべく、新たに大蔵が興され、麻智が三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を管理したという(三蔵検校)。この伝承は、蘇我氏が5世紀後半すでに朝廷財政を統括していたとう史実を伝えている。

蘇我氏の始まりが満智である。自分の地盤である伽耶から王族を連れてきて王にした。それが、欽明天皇であろう。このとき、百済と倭国の実権を持つ満智は自らは日本に留まって、息子島君を百済王にしたのだ。天皇に仕えながらも、欽明天皇と百済の武寧王は、昆支が擁立した。
欽明天皇から急に蘇我氏の娘が、天皇の妃となり、31用明、32崇峻、33推古などと関わり、38天智、40天武、41持統、43元明、付近までその影響を、及ぼした。蘇我一族は満智、韓子、高麗、稲目、馬子、蝦夷、入鹿と続いた。その間、伽耶を百済からも新羅からも侵略されないように、等距離姿勢を保った外交路線は木羅斤資から始まる。伽耶の豪族の意地を見せつけた。欽明紀で伽耶4邑を百済に割譲しているが、百済の王室を知り尽くし、伽耶の運営も知っている満智ならではの戦略だったのだろう。欽明天皇の意志は「伽耶を助けよ」の一点張りで、新羅を討てという百済の再三の要請には耳を貸さなかった。満智は百済王にならなかった反面、百済の檐魯になる気は毛頭なかった。むしろ、百済を支配下に置いた実力者だった。





*百濟・蓋鹵王二十一年〔475〕に「木刕、祖彌皆複姓。隋書以木劦爲二姓。未知孰是」とあり、姓は木刕の二文字姓だとする。これいずれも未知とある。このため木羅(木刕)斤資を倭人と取る説があるが、木刕は伽耶系の氏の感じががする。

*木満致については、日本古典文学大系『日本書紀 上』は、頭注で、「三国史記、百済蓋鹵王二十一年(四七五)条に木劦満致とある。劦は刕の誤り。木刕は百済の複姓で、木・木羅に同じ。(下略)」と説明し、補注9-三九では、木満致=木劦(もくきょう)満致=木刕(もくらい)満致としている

*日本書紀の奈良時代末頃の写本とされる田中本以外の多くの写本は、右の満智について「大倭木満致」と「大倭」の字を入れている。(安羅の)日本府を、「おおやまと・みこともち」と読むが、誰あらぬ、「おおやまと・きまち」である。裏付けは父の功あって任那を占有しているという百済記の記事である。

*旱岐(かんき)とは、古墳時代、朝鮮半島南部の任那諸国を治めた君主の称号であり、任那日本府の官職とされる。


倭王武

 東城王(トンソンワン、生年不詳 - 501年)は百済の第24代の王(在位:479年 - 501年)である。『三国史記』によれば、諱を牟大(徐牟大)、あるいは摩牟(徐摩牟)とし、第22代の文周王の弟の昆支(徐昆支)の子とする。名と系譜については以下の異説がある。<された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
東城王は倭(日本)にいた昆伎(昆支王)の第二子の末多王である。末多は蘇我満智の弟に当たる。とうとう、百済王も蘇我一族が王位についたが、 501年 東城王は暗殺される。そのあと、蓋鹵王の子? 嶋君を武寧王として百済王に就ける。武寧王の生年は462年であるので、39歳で王位についたことになる。生まれたらすぐ返せとの命令はなんと39年も実行されなかった。
『南斉書』では牟大とし、牟都(徐牟都)(文周王)の孫とする。『梁書』では牟太とし、余慶(徐慶)(第21代蓋鹵王)の子の牟都(徐牟都)(文周王)の子とする 。また、牟都を牟大・牟太の転訛と見る説もある。
<された。
<、東西の隣接地に大きな征服地を持っている立地にある。これは龍驤あたりを中心にみないとありえない。日本列島を軸にしてはどうにも解釈できない。毛人は鮮卑・烏丸、衆夷は突厥であろう。
しかし、天監元年(502年)、牟太は太号を征東將軍に進めた。高句麗によって国を破られ、衰弱が積年に及び、南韓の地に遷都したのは牟太であり、余氏扶余は熊津に遷った。538年 百済聖王、泗沘(現・忠清南道扶余郡)に遷都し、国号を『南扶余』と号した。「百済」系解氏の王族は475年に全滅していたからだろう。


武寧王(ムリョンワン、462年 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502年 - 523年)。『三国史記』百済本紀・武寧王紀によれば先代の牟大王(東城王)の第2子であり、諱を斯摩、分注では隆とする。『梁書』では余隆(徐隆)(余(徐)は百済王の姓)、『日本書紀』雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきし、第21代蓋鹵王)の弟の軍君昆伎王の子、名を嶋君とする。また、武烈天皇紀4年条では『百済新撰』の引用として、末多王(東城王)の異母兄の混支王子の子、名を斯麻王、としながらも、「末多王(東城王)の異母兄というのは不詳であり、蓋鹵王の子であろう」としている。『三国遺事』王暦では『三国史記』と同じく、諱を斯摩とする。 武寧王は41歳に至るまで倭国で生活。502年に百済王に即位。筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)生まれたので嶋君と呼ばれた。
 











*檐魯とは、中国における郡県、または、冊封国と同義だが、王族でなければ官に就けなかった。(屯)と称し、漢字では「檐魯 たんろ、淡路」という。


*阿莘王(在位392-405) 書記では阿花王と書かれる。簡単に言えば、広開土王に敗れ、跪いた王だが、年代の一致性からみるとなんと倭王讃の可能性を持つ重要人物。



■倭人も朝鮮半島からの渡来人


さて、兄、沸流(ピリュ)と弟、温祚(オンジョ)は国祖母の召西奴(ソソノ)と彌鄒忽(ミチュボル)に居城を構えた。召西奴(ソソノ)は仲良く国を治めるように言ったが、そうはいかなかった。兄、沸流(ピリュ)が建国したのが仁川の近くで彌鄒忽(ミチュボル)、弟温祚(オンジョ)が漢城(今のソウル)に建国したのが十済という。兄の国を利残、弟の国を百残と広開土王碑文では、百済は初め2つの国があったとされる。
 前18年、彌鄒忽に立国したのは沸流(ピリュ)で、温祚(オンジョ)は十濟を建国したが、そこは辰王が支配していたということになる。そこでは阿人の国で馬韓人と雑居していた。阿人は倭人で刺青をしており船をたくさんもっていた。その王は海神(わたつみ)といわれるように新羅を攻撃するのにも陸路ではなく船を使っていた。その国の温祚は豊玉姫(書記は木花佐久夜媛)と結婚して和合した。古事記・火遠理命(ほをりのみこと(書記は彦火火出見尊))、そう、あの山幸彦が温祚(オンジョ)である。温祚(オンジョ)は「天津日高
の御子、虚空津日高」、すなわち天孫・天津神である。その人である。3年間、豊玉姫と蜜月の日々を過ごすうちに、いよいよ十濟にに帰ることにした。豊玉媛は産み月であったので一緒に行くことができなかった。

「沖つ鳥 鴨著く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世のことごとに」

豊玉姫の父は「塩筒郎翁、塩溢瓊と塩涸瓊を差し上げて兄沸流を懲らしめる策を授けた。これは海側を制圧すると、山間部は塩が不足してくる。兄王沸流(ピリュ)が恭順すれば塩を贈ると言い、反抗すれば塩を絶つ。そうすれば、兄王沸流(ピリュ)は音を挙げるだろうという戦術だった。

古事記では佐比持神。綿津見神は隼人兵500を与えた。温祚(オンジョ)は倭軍を率いて十濟にに戻ると、綿津見大神の言う通り行うと、兄沸流(ピリュ)は降参して仕えることになった。こうして温祚は隼人兵が加担して勝利し十濟(百済)の王となった。こうして隼人族が代々天皇の護衛を勤めるようになった。また、百済は、建国当初から倭兵の力を借りた。日本と百済は深い関係になった。「天津日高日子波限建鵜茅草葺不合尊」を扶余と倭人のハーフだったことになる。












石上神宮の七枝刀(チルジド)は最古に確認できる七支刀であるが、七支刀は谷那(こくな)の鉄で造られ、孫の枕流王(チムニュアン375-385)に語ったとある。日本書記(神功皇后 摂政52年)
当の王は近肖古王(クンチョゴワン)である。第 13代王/近肖古王・第14代/近仇首王・第 15代王/枕流王(チムニュワン)であるので、枕流王の祖父は近肖古王だ。
上記から、七支刀を送ってきたのは近肖古王(クンチョゴワン)で、受け取ったのは、神功皇后?

このとき、辰国の南、馬韓の谷那(こくな)一帯を倭王から賜ったお礼ということになる。神功皇后が谷那(こくな)の鉄山を近肖古王(クンチョゴワン)に与えたのである。おそらく、近肖古王(クンチョゴワン)は河南百済に返り咲いたときに、近肖古王(クンチョゴワン)を援護したのであろう。倭王は馬韓の重要な領土をもっており、倭軍を動かし新羅から7県を奪い、馬韓の北から南まですべてを制圧した。「よきかな汝の言。これ朕がおもうところなり」といって、馬韓の地を近肖古王に贈与した。こういう前提がないと、王権の象徴である七枝刀(チルジド)を送って来た経緯は読めない。
しかし、ありうることである。倭人の故地馬韓を、近肖古王にあげてしまった。神功皇后紀の記事だが、神功皇后とはだれなのか実在したとも思えない。史実では同じ王族で結ばれていたということだ。その証拠が石上神宮の七枝刀(チルジド)だったのだろう。

 神功皇后 摂政52年 
治世51年春3月、百済王はまた久氐氏を遣わして朝貢した。そして皇太后は皇太子と武内宿禰に語って言った。 「わが親交する百済国は天の賜り物です。人為によるものではない。見た事もない珍しい物などを、時をおかずに献上 してくれます。私はこの誠を見て常に喜んで用いている。私と同じように後々までも恩恵を加えるようにお願う。」 この年、千熊長彦を久氏らにつけて百済国に遣わし言った。 「私は神のお示しに従って往き来の道を開いてきた。海の西を平定して(定海西)百済に与えた。いま誼を結んで長く寵賞しよ う。」
貢物に目がくらんで、遼西(第二倭国)を百済に贈呈したというおかしな一文である。

 治世51年春3月 百済王父子は共に額を地にすりつけて拝み言った。 「貴い国の大恩は天地より重く、いつの日までも忘れる事はないでしょう。聖王が上においでになり、日月のごとく明か です。今私は下に侍って堅固なことは山岳のようで西蕃となってどこまでも二心を持つ事はないでしょう。」
百済王が跪拝して、喜んだ。

治世52年秋9月10日  「我が国の西に河があり水源は谷那(こくな)の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行き着きません。 まさに、この河の水を飲み、この山の鉄を取り、ひたすら聖朝に奉ります。」 そして孫の枕流王に語って言った。 「今、我が通うところの海の東の貴い国は、天の啓かれた国である。だから天恩を垂れて海の西の地を賜った。これに よって国の基は固まった。お前もまた誼を修め、産物を集めて献上する事を絶やさなければ死んでも悔いはない。」
「よきかな汝の言。これ朕がおもうところなり」と馬韓(第三倭国)も百済王近肖古王(クンチョゴワン)に与えたのがこの一文。

谷那(こくな)の鉄山は河南から馬で半日であるのに、7日間行っても行きつかないという場所は、当の百済王が宮を置いていた場所だ。そこはどこだろうか?それは遼西の地、西百済だ。神功皇后は倭国の故地を全部百済にやってしまった。ある意味で倭国に民族自決主義はまだなかったのであろうか。王が領土を百済に与えるなんて、ああなんて言ったらいいのか。嘘だよね~と言いたくなる。


「こうやの宮」の御神体が4世紀末の軍装王であるとすると、甲冑はどんなものだったかというと、下の画像である。
これは百済軍の将軍クラスのものだろう。”「谷那鉄山」の位置は第十章 六芒星の正体をご覧ください。”



甲冑(四世紀末) 大阪府泉南郡 西小山古墳出土(復元された甲冑)
「金銅装眉庇付冑」金箔と漆の装飾のみごとな甲冑。甲冑の主は百済の将軍であろう。


白鹿とは「扶余(プヨ)」のシンボルで神聖動物である。

一方、鷹・ナトゥ旗である。百済のことをメぺクチェと呼ぶこともある。 (メ)とはまさに鷹を意味する。
百済を鳥類である鷹の一種を意味する‘鷹準(ウンジュン)’と‘羅鬪(ナツ)’と呼ばれた事実が伝えられている。
鹿と鷹は同じ濊族の象徴であるが、扶余の故地は鹿である。尉仇台から分岐したのが鷹である。

この旗は勇猛果敢な鷹百済のコピーか?


■九州に来ている鷹百済!?! 


この図は英彦山開山伝説からの呪符で「三羽の鷹」が描かれている。


 彦山流記では「彦山権現」は「震旦国」から来たと書かれる。この社が檀君神話と弥勒信仰を併せ持っていることから、「震旦国」は「神檀国」のことであろう。紀元前7世紀から6世紀には、朝鮮の最初の国家があり、漢に前108年 に滅ぼされるまで存続したと考えられてい る。斯白力の天海(バイカル湖)の地域で天帝・桓因(ファンイン)より7代、330年が続いた。次に倍達国を桓雄天王が太白山(白頭山)の地域に都し18 代1565年続いた。次に、檀君(タングン)が阿斯達(アサダル)現平壌付近の白岳山(ペガク) に京にして「朝鮮」と名付けた。これを古朝鮮と呼ぶ。

震旦国、「神檀国」は紀元前2000年からは、阿斯達(アサダル)現平壌付近の白岳山(ペガク)と認識されていたと云われるが、北朝鮮の開城(ケソン)には東明聖王の陵墓がある。平壌市の東方25Kmの地点に推定陵墓が存在し、東明王陵と称されている。しかし、元来は集安にあったものを、平壌遷都とともに遷されている。集安市は吉林省南東部、長白山(白頭山(ペクトサン))南麓に位置する。高句麗の王城(国内城クンネソン)があったところだ。

百済のことをメぺクチェ(매백재)と呼ぶこともある。매(メ)とはまさに鷹を意味する。百済を鳥類である鷹の一種を意味する‘鷹準(ウンジュン)’と‘羅鬪(ナツ)’と呼ばれた事実が伝えられている。三羽の鷹(サンメ)は高木神の部族・桂婁(ケル)のシンボルと見てよさそうである。そこで、開山伝説を見てみよう。

*彦山を開山した僧善正が修行中のことである。豊後の国日田郡の猟師藤原恒雄と出会った。はじめは言葉が通じなかったが、しばらくすると二人の間で話ができるようになった。その時善正は殺生の罪を説くが、恒雄は耳を貸さず白鹿を殺してしまう。ところがその時上空から鷹が三羽現れて白鹿を蘇生させてしまう。その奇跡を見た恒雄は善正の弟子となり、名を忍辱と改め、修行に励むようになった。

「ある時、山麓(豊後国日田郡藤山村)に住む、藤原(藤山)恒雄が、山中で白鹿を射止めた。そん時、三羽の鷹が何処からともなく、天空から舞い降りて来た。一羽の鷹が白鹿の身にササッた矢を取りのぞき、もう一羽が傷口から流れ出ている血をぬぐい取り、最後の一羽が桧(ヒノキ)の葉にふくませた聖水を白鹿に飲ませた。すると、殺したハズの白鹿が生き返った!!!
白鹿の命を救った三羽の鷹の優しく美しき霊験に、狩人の恒雄は、殺生するコトの罪深さを悟る。そして、自ら善正の弟子となり、後に忍辱(にんにく)と改名。異なる【日子山】神様の聖地にもかかわらず、神仏様を仲良く合体して崇め奉り、神仏習合の霊山寺を建立。祖師の善正を開祖となし、自ら二世となった。仏教伝来における、日本初の仏教僧、誕生した。」 

白鹿とは「扶余(プヨ)」のシンボルで神聖動物である。鷹は百済の象徴で鷹・ナトゥ。
すると、鷹百済が鹿扶余を復興させるという含意がある。
538年 百済聖王、泗沘(現・忠清南道扶余郡)に遷都し、国号を南扶余と号したこともあり、
泗沘城があったところは扶余市で現在、テーマパークに一部復元されている。



■鹿児島の鷹子ノ岳と牟礼山の鷹子神社の由来

創建年不詳。旧藩時は鷹の子大権現と称し、入来郷五大社の一つとして尊崇されてきたが、明治の新制で無格社清浦神社となった。大正五年十二月二十八日鷹子神社と改称。
昔、三羽の鷹の子が牟礼山に飛来して、付近一帯の毒蛇を悉く食い殺した。そこで人々が住めるようになり集落ができた。或る日の夕方、雷鳴のような音響とともに、燦然とした火玉の光が南の地を指して現在の地に飛び落ちた。ここを神霊の地の択ばれたものとして、神社を建て素戔鳴尊の変身とする三羽の鷹の子を祀った。
往時より風、水を支配する平和の神として集落民より崇拝され、中世においては、軍神として各地より参拝者が絶えなかった。
現在は、大馬越地区の産土神として、家内安全、商売繁盛、交通安全、縁結び、安産の神として信仰されている。 
鷹子神社(たかこじんじゃ) 鎮座地:〒895-1402 薩摩川内市入来町浦之名5129

■隼鷹神社の主祭神は「高御産巣日神」

伝説に曰く
仲哀天皇が熊襲征伐の時、大保の仮宮で天神地祇を祀った時に、高皇産巣日神が鷹の姿をとって現れ、北を指して飛び去り、松の梢に止まって姿が見えなくなった。
その後、神功皇后の勅命で高皇産霊尊の神霊を祭り、鷹の姿で現れた事からこの神の名前を隼鷹天神と称して、御神体の鷹を安置した。この当時の松は朽ちてしまい、その後には楠があり、それが今の御神木である。
 
隼鷹神社(はやたかじんじゃ)福岡県小郡市三沢 西鉄天神大牟田線 三沢駅

■高樹神社(たかきじんじゃ)も「高御産巣日神」

 仲哀天皇が御勢大霊石神社の方で祭祀する時に鷹が現れて北の方に飛んで行った時は、誰もが吉兆と思ったのでしょうが、
そのあとすぐに仲哀天皇は亡くなってしまいます。すると、人々は「あれは祟りの神だった」と噂したと思われます。
神とは誰かと言うと、主祭神の高見産巣霊の神だと言うことになります。
神功皇后たちはこの鷹が祟り神だったと知って、鷹が止まった木の所で丁寧に祀った事情が想像できます。
高見産巣霊゙の神って…、そう、高良山から追い出された高木の神の事ですよ。
高良の神に一晩の宿を貸したら結界を作られて戻れなくなったという。

高御産巣日神は別名・高木神(たかぎのかみ)、高牟礼神(たかむれのかみ)とも称され、高天原において天照坐皇大御神と共に天津神に諸々の命を下す立場の非常に尊貴なる神である。天照大神の父であり、かつ、物部大連公の遠祖であり、物部系の末裔は次のような姓に分岐している。
「天神(天津神)」の後裔
物部氏系  石上・穂積 高原・白石・久米・寺町・土井・林・北条・越智・三谷・南・三島・米田・河野・遠藤・吉田・長坂・大宅・内田・上野・鈴木・亀井・松尾・福田・高橋・熊野・宇治・児島・筑紫・長谷山・長谷部・日下部・川上・佐野・立野・田井・小田・稲葉・石崎・大井、<された。
菊池氏から分岐、兵藤・西郷・合志・山鹿・村田・赤星・黒木・甲斐・城・志岐・栖本など・・・。



昔、高良大社のある高良山は高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれており、高木神がその地主神であられたという。
むかしむかし、この高牟礼山に高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)という神が一夜の宿として山を借りたいと申し込んできた。
そこで高木神は快く山を貸したという。

すると高良玉垂命は一夜のうちに神籠石(こうごいし)というものを築き、高牟礼山に結界を張ってしまった。
そのため高木神は山に戻れず、やむなくこの高樹神社の場所に鎮まったとされている。
【鎮座地】〒839-0851 福岡県久留米市御井町神篭石121 旧筑後国 御井郡

鷹居神社(たかいじんじゃ)
 「和銅元年宇佐郡内大河流西岸有二勝地一、東岸有二松木一、化鷹顕レ瑞、是大神之御心荒毘坐也、同五年大神比義與二 辛島勝自一、依二神託一、以二勅定一令レ造二神殿一、鷹居瀬社是也、辛島勝自爲二祝職一、同勝意布賣爲二禰宜一、勝自之妹黒比賣 爲二采女一、並御戸代田二段進之、辛島勝波豆米爲二禰宜一矣、靈龜二年託宣、此所路頭往還人無禮、就二此等一甚愍二 小山田林一移住願給者云々」
と見え、また大宰管内志に云く、
「宇佐宮記に曰、敏達天皇元年云々、大神化而爲レ鷹飛二翔虚空一、時大神ノ比義、辛島勝乙女兩人、三年之間斷レ穀而 祈申時、神託云、吾化二爲靈神一飛二翔虚空一、留無二棲息志一、心荒多利、其與利郡瀬仁移牟云々、和銅五年始造レ社、至二 靈龜二年一五箇年之間御鎮座とあり、鷹居は多可爲と訓むべし、里人云、鷹居社は宇佐郡上田村内にあり、田 笛より鷹居まで二里十町あり、神殿、拝殿、石鳥居あり、本宮を去る事十町餘西にして松林の内にあり、今 は上田村の人是を祭る十二月中ノ卯ノ日官從五位下志摩守大神ノ頼唯奉仕す」
鷹居神社(たかいじんじゃ)【鎮座地】大分県宇佐市上田字1435

■鷹の家紋の氏族は九州と岩手に多い

『並び鷹の羽』家紋
肥後菊池氏一族
肥後国菊池郡赤星
 
菊池氏からは兵藤・西郷・合志・山鹿・村田・赤星
・黒木・甲斐・城・志岐・栖本などの庶子家が分出し、
鷹の羽紋は肥後(熊本県)を中心として南九州一帯に広まった。

『打違い鷹の羽/三つ巴』
阿蘇神宮 甲斐氏
crossing falcon 's plumes inside a circle



 
 『違い鷹の羽』
阿蘇氏 肥後国一の宮の大宮司職を古代よりつとめてきた名家


『並び鷹の羽』家紋には、下側に2本の線が左右対称に引かれていることに気付く。古老の話では、この線は実は「波」で、「海を渡る」という意味なのだという。菊池氏 は「丸に並び鷹の羽 」 もしくは 「丸に違い鷹の羽」を用いる ことが多く遠野菊池氏は通常の家紋に海路 から入った ことを 表す波紋が加えられ「丸に並び鷹の羽に波紋」で表す方が多いようだ 。遠野菊池氏は通常の家紋に海路から入ったことを明かすために波紋が加えられ「丸に並び鷹の羽に波紋」で表すとされる。 Tono Kikuchi clan is added the ' Hamon ' ( ripple ) which refers to that the clan came from the sea , to the usual family crest , and shows as ' Maruni Narabi Takanohani Hamon ' ( in-line falcon 's plumes with ripple inside a circle.百済が「百家を以て海を渡る」という意味であったが、それと相似している。菊池氏の出自は百済の王族であろうことは外れないが、その出自については、太田亮による代々大宰府官を務めた紀姓の地方豪族とする説、鈴木真年による百済王族出身の渡来人である鬼室福信の後裔とする説、さらには、古代鞠智(くくち:山の麓の谷から平野へ出る口)族後裔説、源経基の後裔とする源姓説、など多様な説がある。

 
阿蘇神社 熊本県阿蘇市一の宮町宮地
12柱の神を祀り、阿蘇十二明神と総称される。
一宮:健磐龍命(たけいわたつのみこと):- 第1代神武天皇の孫
十一宮:國造速瓶玉神(くにのみやつこはやみかたまのみこと): 一宮の子。阿蘇国造の祖=國造神社(くにつくりじんじゃ)の一ノ宮、大宮司は阿蘇氏。

菊池一族は違い鷹の羽紋や並び鷹の羽紋であるが、それ以前は日足紋であったと伝える。日神は「三足烏」である。


この画像は八咫烏の原型である。

菊池(菊地)氏は、武を尊び王事に尽くす名族だが、家紋に「太陽」を表す「日足」(八つ日足)紋と「武」を表す「鷹の羽」(違い鷹の羽)を用いる。6代肥後守隆直のとき(1180年頃)日足紋から鷹の羽紋に改める。もともと阿蘇神社が祖神だが、ここの神紋も「鷹の羽」である。

これらのことは、鷹が九州に現れたという表現で、百済の軍兵が渡海してきたと言える証だろう。高木神は忽本扶余および百済建国の祖父である。


■中国の遼西にも百済があった 熊津は今の錦江の上流にあたり白馬江(ペンマガン)にある。外洋船が行き来できるほど水量がありる、ここから容易に黄海に出て渡航できる。地政学的に海洋国家と言える下地は、熊津にはある。 こうした地の利を得て、遼西に第二百済を築くことは容易である。遼西に移ったがゆえに百済と言われた。通称「西百済」とも呼ばれていたらしい。

熊津、ここは、、クマナリ百済(熊津城)だろうと言われる。



高句麗の最大範囲図6世紀 百済が熊津に遷宮502年


第二章

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